陸奥国に狢有り人に化りて歌ふ 第二章

「晴兄ちゃーん、朝ー!」


 エプロンを着た空子が晴助を起こしにきた。晴助はよろよろと布団から起き上がり、顔を洗う。台所に行くと、空子が玉子を転がして晴助を待っていた。晴助はフライパンに火を点け、ついでに煙草にも火を点けて、温まったフライパンに玉子を落とすと、空子を踏み台に乗せてやった。空子はターナーを持ち、玉子が焼けるのを見つめる。空子はとにかく料理に興味があるらしくて、何でも自分でやりたがって、最近は時子ばあさんのところに行っては、料理について色々教えてもらっている様だ。晴助がトーストにマーガリンを塗りはじめると、空子が目玉焼きを皿に移す。二人は食卓についていただきます、と手を合わせた。空子は食事をしながらでも、食べたい物についてあれこれ話すが、晴助は生返事で大して興味無さそうに聞いている。やがて晴助は思い出した様にカレンダーを確認し、空子に言った。


「空子、今日は歯医者の日だぞ。」

「うん。」


 空子は憶えていた。


「どんな感じだ?あーん、ってしてみろ。」


 空子は言われたとおり、口を大きく開けて見せた。晴助は覗き込んで見る。


「どれどれ……まだもうちょっと……かなぁ?」


 空子は母親から歯磨きする事を教わっていなかったので、晴助の家に来てからずっと歯医者に通っているのだった。晴助は空子の虫歯の具合を確かめて、一旦視線を逸らしたが、ふと目の端に何か見えた様な気がして、もう一度空子の口の中を改めて見つめる。


「おい!空子、それ!」


 晴助は思わず立ち上がっていた。それは空子の舌に神紋を見つけたからだ。しかし、そこまで言って晴助は言葉を飲み込んだ。


「……いや、何でもない。」


 空子は少し訝しげな表情を浮かべたが、それ以上何も言わなかった。そして、空子に傘を持たせて、学校に送り出した後、晴助は居間の椅子に深く座り、煙草に火を点けた。


 ——舌に神紋って事は……黒舌?……何だそれ?


 晴助は黒舌については全く聞いた事が無いので、黒耳にメッセージを送ってみる事にした。


 ——しかし、なぜ今まで気付かなかったのか?全く自分の迂闊さに驚くよ。


 未黒に関して、空子に言う必要は無いだろう。狛犬も言っていたが、未黒と知らず一生を終える人もたくさん居るらしい。だったら余計な事は言わない方が良い。しかし、もしあいつが黒舌になったら、その時はどうする?晴助があれやこれや考えてると、黒耳から返事が来た。


 ——黒舌については会った事は無いが、話は聞いた事有り。確か宇迦之御魂神うかのみたまのかみの黒衆だった筈です。お稲荷さんやで。


 お稲荷さん?黒耳にお礼のメッセージを送った後、晴助ははっと思い当たり、立ち上がって神社に向かった。磐飛神社にもお稲荷さんは奉られている。晴助は社の前に立って確認してみた。


 ——なるほど、確かに同じ神紋だ。……そういえば空子の事を俺に言ってきたのも野狐だったな。……なるほどね。


 晴助はそれを確認すると近くの石段に座り込んだ。朝からの曇り空がいよいよ耐えきれなくなって、やがてぽつぽつ降り出しそうな空だった。


 ・・・・・・


 夕食の後、女は団地の階段の踊り場に立って降りしきる雨を見つめていた。旦那が横に来て話しかける。


「あのさ、本当の事言うと、俺は正直もう諦めてたんだよ。お前の事は。」


 女は旦那の横顔を見て、また雨を見つめる。


「あんだけ大勢の人間でさ、山んなか探しても見つからなかったんだからさ。そりゃあ、もう、やっぱり駄目なんだな、って、思うよ。」


 旦那は煙草に火を点けながら言った。


「ただ純平は、諦めが悪くて、ちょっと目を離したら玄関で寝ちまってるのさ。お前が帰ってくるのを待ってたんだろう。俺は、それを見てると不憫でさ。てめえの母親の事を諦めろ、とも中々言えないし。」

「でも、あたしは純ぺの事も全然覚えてないし、さぁ。」

「なに、記憶が無いなんてちっちぇ事さ!」


 旦那は女に向き直って笑顔でそう言った。純平が女を呼んでいる声が聞こえた。


「お前は帰ってきたんだ。お前は帰ってきたんだよ!本当に良く帰って来てくれた。時間はこれからいっぺえ有るべ。な?」


 旦那は女の肩に手を置いて家に入ろうと促す。


「……そうだね、あんたの言う通りだ。」


 女は促されるまま家に入った。


 ・・・・・・


 女は買い物の途中で八百屋に寄った。店の者が言うには、今日は大根がお勧めらしい。女は勧められるまま大根を買い、店を出て、そこで初めて気付いた。道路で仁王立ちになった女はあたりをぐるっと見回して、ゆっくり歩き始める。女はどんどん人気の無い方角に進んでいった。後ろを振り向いて確認しながら歩いていくが、後ろに注意を向けるあまり前方を疎かにしてしまったようだ。女はぎょっとして立ち止まった。前に坊主が立っていたからだ。


「よう、おろく。息災だったか?」


 坊主の口調は穏やかだった。


「……一蔵いちぞうさんかい、驚かさないでおくれよ。」


 お六は警戒しながら返事をした。お互い相手の出方を窺うように見つめ合っている。


「お前、今度は一体何をしてるんだい?」

「ほっといておくれよ、一蔵さん。あんたにゃ関係ないだろ。」


 お六の顔付きが大分険しくなってきたが、一蔵は穏やかなままだった。


「まあ、そうなんだが、どうもおやじさんがうるさくてね。分かるだろう?お六。」

「おやじさんには私から話すよ、そのうちね。」


 お六は大根を構えてそう言った。


「分かるだろう?お六。俺がここまでやって来たって事が。」

「いや、分からないね、一蔵さん。」

「しょうがねえなぁ。どうも俺ばっかり面倒な事を押し付けられて迷惑な話さ。」


 一蔵は胸を掻きながらそうぼやいた。


「お六、お前さん確かに人に化けるのは大したもんだが、それ以外はからっきし駄目ときた。このまま俺から逃げれる算段はあるのかい?」


 お六は何も答えず、じりじりと後ずさった。その時、一蔵の体が影の様に伸びて、みるみる背丈が十メーターあまりの大入道になった。そのまま走り出したお六に手を伸ばそうとした時、


「ちょっと、待ってくれ!」


 晴助が両手を振って二人の前に突然表れた。驚いた二人は目を見合わせた。お六は、私は知らないとばかりに顔を弱々しく振ってみせた。それを見た一蔵は晴助に向き合った。


「……なんだい、あんた?」


 晴助は一蔵を見上げて言った。


「俺は黒手だ。」


 晴助はそう言って、真っ黒の手の平を振ってみせた。一蔵はその真っ黒の手の平を見ると、ぎょっとしてするすると元の体の大きさに戻った。


「おやじさんに聞いた事があるぜ。とにかくあんたらには近づくなって言われてるらしい。」


 一蔵は警戒しながら、晴助が何故ここに来たのか、その理由を推し量ろうとしている。


「いや、俺はあんたにも、そこのお六さんにも手出しする積もりは無い。」

「……じゃあ、あんた何しに?」

「なあ、一蔵さん、悪いがお六さんは置いて、このまま帰ってもらえないだろうか?」


 一蔵の左眉がぴくっと吊り上がった。


「どういう了見で?」

「うちの神様が祈願を受けた。よってお六さんを今帰す事は出来ない。」

「……なんだそりゃ?承服出来ないと言えばどうなる?」

「このまま黙って帰ってもらえれば、あんたたちの一族に手は出さないと誓う。この俺の言葉をあんたたちのおやじさんに伝えてくれ。そして時期がくればお六さんは帰る事が出来る、とも。」


 一蔵の眉が両方吊り上がった。


「本当にお六を帰すのか?」

「ああ、時期が来れば必ず帰す。約束する。」


 一蔵は顎を撫でて少し考えていたが、やがて


「分かった、お前さんの言葉、確かにおやじに伝えよう。」


 一蔵は帰りかけたが、ふと振り向いて


「お六にも手を出すなよ。」

「ああ、約束する。」


 一蔵は晴助の表情をじっと見、振り返ると、その姿は一瞬で闇に掻き消えてしまった。と同時に太鼓の音のような地響きがして晴助は少し後ずさる。その太鼓の音は、鳴る度に遠ざかっていき、最後にはとうとう聞こえなくなった。


「……今のもしかして、腹鼓はらつづみか?」


 晴助は初めて聞いた腹鼓にやや興奮して言った。


「ちょっと、あんた。」


 お六は大根を持って腕組みをしながら、晴助を睨みつけて言った。


「勝手にしゃしゃり出てきて、こんなお節介を私があんたに頼んだかい?」


 晴助はちょっと待ってくれとばかりに両手を前に付き出して答えた。


「いや、頼んだのはあんたの旦那さ。」


 お六はそれを聞いて驚いた。


「え!?あの人が!?」

「ああ、あんたの旦那がうちの神社で祈願していったのさ。どうか、結子をもうどこにもやらないでくれ、ってさ。」


 お六はそれを聞いて黙ってしまった。


「まあ、送っていくから、歩きながら少し話そう。」


 晴助に促されて、お六も歩き出した。


「お六さん……いや、結子さん、さっきはこっちの都合で一蔵さんを追い返しちまったが、あんたの本心はどうなんだい?このままここに残る気はあったのかい?」

「……何だかね、あの子が可愛くてねぇ。」


 お六の表情も大分やわらいでいた。


「旦那も気の良い男で、居心地が良かったから、さ。このまま、あの子が大きくなるまで、面倒みてやりたい、ってふっと思ったんだよ。」


 お六は、はっとした顔で晴助を見て尋ねた。


「あんた、私の正体を知って、聞いてるのかい?」

「あんたはほんとに化けるのがうまいね。うすうす感じてたが、一蔵さんを見てやっと分かったよ。」

「そう、私たちは狸さ。」


 お六は急に晴助の腕を掴んで言った。


「私はあの人に一切手を出してないよ!ほんとだよ!」


 お六はひどく真面目な少し悲しみの混じった目を見開いて晴助に訴えた。


「分かってるよ。」


 晴助はお六の腕をぽんぽん叩いて安心させてやった。


「大丈夫、あんたを信じるよ。それにそんな事は俺の神様も、俺も気にしてないんだよ。」

「……そう。」


 しかしお六は、安堵したというよりはがっかりしたという感じだった。


「……でも、私は狸で、こんな母親って、どうなのかしらね?」

「母親が居ないよりはましじゃね?」

「え?」

「いいんだよ、狸の母親でも、母親が居ないより全然ましだよ。」

「ほんとかい?ほんとにそう思うかい?」

「ああ、ほんとにそう思うよ。狸でも狐でも母親に帰ってきて欲しかったって、心底思うよ。」


 お六は口を開きかけて、止めた。二人は結子の家に着いた。


「俺は神社の横に住んでるから、何か困った事があったら訪ねてきてくれ。」

「分かったよ。……あんた、ほんとにおやじさんや一蔵さんにひどい事しないでおくれよ。」

「しない、しないよ。約束する。」


 お六は安心して家に帰っていく。純平が階段のところでお六を待っていた。お六は純平の頭に手を置いて、二人で階段を上がっていった。晴助は物陰からその様子を見届け、歩き出す。


「狸だろうと、黒手だろうと、関係ないね。」


 晴助はそう呟いて帰路についた。

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