陸奥国に狢有り人に化りて歌ふ 第一章

 野山に棲息しているたぬきたちが人間を化かしたり不思議な行動を起こしたりすることは、史料・物語または昔話・世間話・伝説に見られ、文献にも古くから変化へんげをする能力をもつ怪しい動物・妖怪の正体であると捉えられていた一面が記されている。広く認識されている最古の例としては、奈良時代に編まれた『日本書紀』(推古天皇35年)に「春二月、陸奥有狢。化人以歌。」(春二月、陸奥国に狢あり。人となりて歌をうたう)という記述があり、次いで『日本霊異記』、『宇治拾遺物語』、『古今著聞集』など平安時代から鎌倉時代にかけての説話にも「狸」という漢字で示された獣が話に登場している。


 江戸時代以降は、たぬき、むじな、まみ等の呼ばれ方が主にみられるが、狐と同様に全国各地で、他のものに化ける、人を化かす、人に憑くなどの能力を持つものとしての話が残されている。


「化け狸」『ウィキペディア日本語版』,(2022年6月3日取得,https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%8C%96%E3%81%91%E7%8B%B8&oldid=89643514).


 第1章


 山奥の川岸に女の死体が流れ着いた。上流から流されてきたようだ。死んでからまだそれほど時間は経ってない事と、低い水温のせいで女性の死体はその面影をはっきりと保っていた。その女性の死体を岸に引き上げたのは、季節にそぐわない浴衣姿の女性だった。浴衣の女性は、引き上げた死体が着ているコートのポケットを探り、死体をころがしながら、何か遺留品を探している様だ。遂に彼女はパンツの尻のポケットから財布を見つけた。早速中を改め、紙幣を数えてから、免許証を手に取った。免許証の顔写真と死に顔を何度も見比べる。何度も見比べているうちに、浴衣の女性の顔が、その死んだ女性の顔と瓜二つになった。女は再度死体を探り、今度は鍵を取り出した。女は両の手の平にそれらを並べ、それらの戦利品をじっと見つめ、最後に死体のコートをはぎ取ると、ようやくその場を後にした。


 ・・・・・・


 空子がジャージ姿でランドセルを背負って学校から出てきた。転入という事にして、なんとか小学校に潜り込んだ空子であったが、もう3年生になり大分落ち着いた学校生活を送っていた。空子の通う学校は割と市街地にあるので、通学路も賑やかで色々な店舗が立ち並んでいた。空子は特に飲食店が好きで、通りすがりの店の前にメニューが貼られていたりすると、足を止めてそれを眺めるのだった。どんな味だろうか?とかどうやって調理するのだろうか?とか想像するのだ。やがて、市街地を抜け住宅街に入ると、神社の小高い樹が見えてきた。低い住宅が並ぶ中、突き出た背の高い樹木は、小さいながらも鎮守の森だし、その樹木が目に入ると、空子は帰ってきたという安心感の様な物が少し心に芽生えるのだった。


 自宅の前に着いた空子は首からぶらさげた鍵で玄関を開け、家に入ると、居間の椅子にランドセルを置いて、手を洗いに行った。戻ってくると米を研ぎ、洗った米を炊飯器にセットして、予約のボタンを押す。それで、一息ついた空子は冷蔵庫からアイスキャンディーを取り出した。”アイスは一日2個まで!”と冷蔵庫の扉に貼られたメモを眺めながら、アイスを良く味わって食べた。やがて食べ終わった空子は法被に着替えると、神社に行って掃き掃除を始めた。神社の境内には子供が数人居て遊んでいた。賽銭箱の前に俯いて座っている男の子が、空子の目に入ったが、気にせず掃除を続けた。やがて空子は大きな声で呼びかけられた。


「空子ー、きんつばがあるから、食べにおいでよ!」


 呼んでいるのは時子ときこばあさんだった。空子はすぐに駆け出した。


 賽銭箱の前に座っていた男の子がふらっと立ち上がり、境内で遊んでいる友達と少し言葉を交わすと、そのまま神社を出て行った。男の子の後ろ姿は見るからに寂しげだった。男の子はとぼとぼと自宅のある団地の建物に入っていき、階段を上がっていく。玄関のドアを開けた男の子の眼に女性物の靴が飛び込んできた。男の子は飛び上がるほど驚いてから、母ちゃん!と叫びながら家の中に駆け込んでいった。


 女は家に上がり込んで、居間に立って周りを見渡してる最中だった。突然表れた子供にぎょっとした表情を浮かべ、とっさに逃げようとしたが、男の子が女の腰に飛びつき、しがみついた。


「母ちゃん!!」


 男の子はそう叫んで女にしがみついてわんわん泣いている。


「ちょっと!あんた、誰?!」


 女は柱につかまりながら、そう叫んだ。男の子は驚いて答える。


「母ちゃん、ぼく純平じゅんぺいだよ!忘れたの?!」


 女はそれで合点がいった。あの女性には子供が居たんだと。


「あ、あーー、……そーか、純ぺ、ね……」

「純平、だよ。」


 男の子は女が自分の名前を憶えてない事にショックを受けている様だが、女は話を取り繕うのに必死だった。


「……あー、えーと、ね……私、あの、あれをどっかに落としちゃったみたい……」

「何を?」

「えーと、あの、あれさね……、そうそう、記憶だ。それを無くしちゃった?」

「落とし物は、交番に行けば良いって先生が言ってたよ。」

「……交番?……いや、いや、違くない?」

「そうなの?あ、そうだ!父ちゃんに聞いてみようよ!」


 男の子は女のコートの端を掴んだまま電話を掛け始めた。父親に電話している様だ。あっという間に軽トラが団地の敷地に入ってきて、がっしりした男が母ちゃんと叫びながら、家に飛び込んできた。男はそのまま女の腰にしがみついてわんわん泣いている。それを見た男の子もまたわんわん泣き出した。


「……あら、あら、親子に間違いないねぇ……」


 女はそれを見て呟いた。


結子ゆうこ、お前記憶を無くしちまったったのか?」

「……んー、そうらしい……ね……」


 女はそう言って誤魔化すように、作り笑いを浮かべた。


「じゃあ、お医者さんに診てもらうべ。さあ。」


 男はそう言って、女の腕を掴むと玄関にどんどん引っ張っていった。


「きゃー!医者なんて、嫌だーー!」


 女は柱にしがみついて抵抗したが、


「馬鹿いってんじゃねえ。二ヶ月近くも音沙汰無しで、記憶まで無くしちまったなんて、普通じゃあネエぜ。」


 男はそうぶつぶつ言うと、抵抗する女をひょいと肩に乗せ、階段を駆け降り、そのまま車に押し込んで医者に向かった。


 ・・・・・・


 次の日の昼下がり、女はお茶を飲みながら、がま口の財布を机の上でくるくる回していた。


「少し金目の物でも頂戴してさぁ、パアッーと遊んで帰ろうと思ってたんだけど……あの女だとすっかり信じ込んじゃってんのかねぇ。」


 女は改めて居間をぐるっと見渡してみた。裕福とは言えない、生活感があって質素な居間、と言った感じだった。電話台の下に置いてあるアルバムに、ふと目が留まった。女はそれを開いてみた。


「あら?これ、なんか見覚えあると思ったら……」


 写真に写っていたのは、結子を見つけた山の風景だった。


「……撮ったのはあのひとなの?写真を撮りに来て、あんな事になっちまったのかねぇ……」


 女はアルバムを眺める。


「……なるほどね……あんたの好きな色、あんたの好きな形、あんたの好きな物……」


 パラパラとページを繰っていく女だったが、ふと一枚の写真に目を奪われて指が止まった。少し色あせた、小さくて古い写真で、漁港を大漁旗を持って笑顔で走る少女の写真だった。出港する船から撮影したものだろう。或いは出港する船から父親が撮影したのかもしれない。女は何故かその写真に目が釘付けになった。しばらくその写真を眺めた女は、そこに写っている少女が、幼い結子、あの川で亡くなっていた結子という女性だと確信した。


「あんた……ちゃんと生きてたんだねぇ……」


 女はそう呟いて写真を指の先で優しく撫でた。


「それ、母ちゃんのアルバムだね。」


 女がアルバムに見入ってるうちに純平がいつの間にか帰宅して、覗き込んでいたのだった。突然話しかけられた女は驚いて振り返った。


「なんだ、純ぺかい!驚かさないでおくれよ。……もう学校は終わったのかい?」

「うん。」


 純平は食卓の椅子に腰掛け、足をぶらぶらさせながら答えた。


「なんでアルバム見てたの?」


 純平は女に聞く。純平は女に色々質問して、自分を安心させたいのだ。結子が何故消えたのか?何故帰ってきたのか?また消えるのか?そういう不安を打ち消したくて、純平は結子だと思い込んでいる女にあれやこれや質問するのだ。


「いや、何となくね。どうやら私は写真を撮るのが好きだったらしいよ。」

「……」


 純平は黙って考え込んでいる様だった。


「……母ちゃんも母ちゃんの勉強してるんだね。」

「んん、……そうかも、しれないねぇ……」


 女は俯いてぼそぼそ話す純平を見つめて言った。やがて女は純平の頭の上に手を優しく置いて尋ねた。


「じゃあ、純ぺ、教えておくれ。この後母ちゃんは何をするんだい?」

「えーと、……多分、晩ご飯を作るんだよ。僕、お腹減ってきたもん。」

「じゃあ、買い物に行こう!」

「うん!」


 二人は勢い良く立ち上がり、家を出て行く。純平に手を引かれて、やってきたのは近所のスーパーだった。奥へ進む二人の横で、特売コーナーで玉子を手に取る晴助が居た。晴助は会計を済ますと、職場のバーに向かった。晴助はバーの鍵を開けて、店内に入り開店の準備に取り掛かる。酒の在庫をチェックし、グラスを磨く。やがて街が橙色に染まり、夕焼けが溶けたしずくの先から濃い紫色に変わる少し手前に最初の客が、ふらっと入ってきてぴかぴか光るカウンターをそっと撫でて、マティーニを注文する。開店間際のバーは贅沢な物だ、と晴助は酒の用意をしながら思う。しかし、そんな考えもやがて店内の喧騒に飲み込まれて、消えていった。

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