オマク 第二章
次の日、早川は会社の同僚と飲み会だった。或いは西山さんの結婚祝いを同僚と催したのかもしれない。花束を持った女性が居るのを見て晴助はそんな想像をした。
その次の日、多分あのマンションに寄るだろうと晴助は考えていたが、果たして彼はやはりマンションの前で少し屋上を見上げると、そのままエレベーターに乗り込んだ。
男は柵に肘を預けて黄金色に染まった町を見つめる。
「正子ちゃん、心配してたわね。」
彼女はそう言うが、いつもどおりの無表情で感情は測りかねた。
「僕がうっかり口を滑らしちゃってから、あの有り様さ。……とはいっても、僕自身この状況が正常だとは思わないけどね。だから、妹が心配するのも無理は無いと思うけど……でも、答えが有ると思うと、やっぱりここに来てしまう。」
「答えって?」
「さあ、なんだろう?理由?……いや、理由は聞いたね。でも、分からないかなぁ?僕は納得したいだけなんだけど、それが出来ない。そう、君の問題はいわば解決済みなんだろうけど、でも僕の問題はあの日から始まった事だから。」
「あなたの問題って?」
「君とこうして会話して、それで僕自身多くの事に気付いたし、君の事も大分理解出来たけど、結局、僕は君の様に感じたり、考えたりする事が出来ない。だから納得する事が出来ない。これが僕の問題だと思う。」
「そんなの当たり前じゃない。」
「いや、当たり前で済む話じゃないんだよ。君を突然失って、はいそうですか、で済む訳が無い。」
早川の口調には苛立ちが含まれている様だった。
「それにさ、君が自分を不自然に低く評価している事が、納得出来ない。そして僕さえも君を低く見ていると君が思い込んで、そして死んでいった事が、我慢ならないんだ、僕には。君の話をここまで聞いて、理解出来た部分も確かに有るけど、それでも君が死を選んだ事が納得出来ない、僕はそれだけは断じて受け入れられないんだ。」
「でも、私にはそうするしか無かったのよ。それが私という人間だから。何かすれば、母から罵られ、父には馬鹿にされる。それを幼い時から繰り返し体験してきて、私の心は干からびて、成長する事を止めてしまった。評価とかそんなもんじゃない、私は全く価値の無い人間なのよ。そう思い込まされてきて、それに慣れきって、それを当然と思って、それ以外の考えを拒絶してきた。人生を牢獄と思い込んでしまったのよ。そして、この窮屈な檻から出るには死ぬしかないと、決心したの。」
「……それでも、僕は君の死を肯定する事は出来ない。いいさ、これは、これからの僕の問題だから。」
「そうね、私にはもうどうする事も出来ない。私にはこれからが無くなっちゃったから。」
早川は答えず、いつの間にか薄墨色に染まった町を相変わらず見つめるだけだった。
「……見せてあげましょうか?」
彼女がぽつんと言った。
「……えっ、何を?」
「私の最後を。」
早川は驚きと少しの怯えが入り交じった顔で彼女を見た。彼女は無表情で早川の顔を見返す。
「……どうやって?」
「あのドアを見てて、今に私が飛び込んでくるから……」
彼女はそう言って、ドアを指さした。早川は口を開きかけたが、思い直してドアを見た。やがてドアが勢いよく開き、彼女が飛び込んで来た。彼女は柵を目指して一直線に走り出し、柵に辿り着くと、それも躊躇なく飛び越えた。とてもスムーズな動きで、頭の中で何回も練習したかの様だった。そして彼女は屋上の端に立ち、そのまましばらく動かなかった。今から自分のする事に恐怖を覚えたのか、或いは最後の景色に見とれていたのだろうか。やがて彼女はこちらを向いた。とても落ち着いた顔だった。そして両手を高く上げた。彼女はそのままぽんと後方へ飛び、そして落ちていった。高飛び込みの選手の演技の様にも見えた。
彼女の姿が見えなくなると、早川は我に返った様に
「智子……智子ーー!」
と彼女の名前を呼びながら、柵を乗り越え屋上の端から下を見下ろした。彼女はすぐそこ、手を伸ばせば届く距離のところで、両手を高く掲げたまま、浮いていた。落下途中の映像でポーズボタンを押したかの様に彼女だけが、そこでじっと動かずこちらを見つめていた。早川は言葉を失い、その様子をただ見つめた。
「智子、笑っているのか?」
確かに彼女の顔には本当に微かだが、微笑みが浮かんでいる様にも見えた。
「これが君の最後の表情なのか……そうか、思い出したよ、これ、会社でも君はいつも人を避けていた、いつも一人だった。一人が好きなのかと思っていたけど、分かったよ、この顔、君が会社で一人で居る時の顔、どうしようもない孤独を感じてたのか……」
早川はふと智子の手を取ろうと、手を伸ばした。その手を後ろから晴助の手ががっちり掴んだ。早川は驚いて振り返った。
「おっと、危ない。あんた、彼女の後を追うつもりかい?そいつは、ダメだよ。」
「いや、僕は……え?……あなたは……一体?」
「俺は、まあ、こういう事の後始末をする者さ。」
「は?……あなたは……」
「いや、実はあんたの妹さんに頼まれてねえ。」
「妹?正子に?一体何故?いや……これは……」
早川は混乱し、頭に手をやって座り込んだ。
「まあ、そうだろうね。混乱するだろうね。だが、大丈夫だ。あんたは何も覚えてないから。」
「え?それはどういう……」
早川は呆然とした顔で、晴助を見上げる。晴助は六角棒を振り上げると
「こういう意味さ。」
そう言って、六角棒の先を彼女の肩に軽く乗せると、彼女の体が、がくんと下がった。早川が気を失ってるのを確認し、晴助は改めて彼女と向かい合った。
「あんたも、そろそろ行きなよ。」
彼女の体は足の方からぱらぱらと砂の様に崩れて、風に巻かれて消えていった。その時、彼女が突然口を開いた。
「もっと、衒いの無い人生を送りたかった!」
彼女が叫び出すと、彼女の顔に表情が表れた。死にに行く者の顔とは思えない怒気を含んだ生気溢れる表情で、晴助はその様に思わず息を呑んだ。
「もっと、虚心に人と交わりたかった!」
「もっと、強く、賢くなりたかった!」
「もっと、両親の愛情が欲しかった!」
見る見る彼女の体は崩れていき
「もっと……生きた……かった……」
最後の言葉を絞り出すと、一陣の風が彼女を消し去ってしまった。晴助は、後に残ったキラキラ輝く塵が風に舞って消えていくのを、最後まで見つめていた。
・・・・・・
晴助は早川がよろよろと家まで帰るのを見届けて、踵を返した。繁華街から少し外れた場所に大きなガラス張りのカウンターだけの店があった。ガラスを透して店内の灯が外に大きく漏れている。晴助はそこへ入っていった。カウンターに座るとくたびれてはいるが、汚くはない白衣を着た男が近寄ってきて言った。
「いつものかい?」
「ああ。」
晴助は煙草を取り出しながら、そう答えた。やがていつものホットコーヒーとガラスのミルクピッチャーに入ったウイスキーが晴助の前に置かれた。晴助はウイスキーを全部コーヒーに注ぐと、一口飲んで、煙草に火を点けた。白衣の男もカウンターの端に立って煙草を吸いながら、窓の外をぼんやり眺めている。
ーーー彼が呼んだのか、或いは彼女が呼んだのか?
晴助はどうやってあの不思議な逢引が始まったのか考えてみる。
ーーー何にせよ、もし、伝える術が有るなら、あんたの最後の思いを、彼に伝えてやってほしい。
晴助は、叶わない願いだとも思うが、ただそう願わずにはいられなかった。
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