オマク 第一章

 また柳田の著書『遠野物語拾遺』によれば、岩手県遠野地方では、「生者や死者の思いが凝って出歩く姿が、幻になって人の目に見える」ことを「オマク」と称し、その一例として傷寒(急性熱性疾患)で重体なはずの娘の姿が死の前日に、土淵村光岸寺の工事現場に現れた話を挙げている。『遠野物語』に関して柳田の主要情報源だった佐々木喜善は、このときまだ幼少で、柳田は目撃現場にいた別の人物からこの例話を収録したとしており、佐々木当人は「オマク」という言葉は知らず、ただ「オモイオマク」(おそらく「思い思はく」)と言う表現には覚えがあることを鈴木棠三が尋ね出している。


「生霊」『ウィキペディア日本語版』,(2021年10月13日取得,https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%94%9F%E9%9C%8A&oldid=81150666).


 ・・・・・・


 男は今日もスーパーの品出しに精を出す。晴助がこの男に張り付いて二日経つが、今のところ変わった様子は見られなかった。その男の妹がやけに心配して


 ーーーどうか兄を連れて行かないでください。


 と、祈願していったから、晴助は彼に張り付いているのだった。男は独身で、スーパーの近くのマンションに一人で住んでいる。昨日も一昨日も、男は仕事が終わると、まっすぐ家に帰りそのまま朝まで動きは無かった。しかし、今日は少し様子が違った。男は自宅に帰る道と逆の方にぶらぶらと歩いていき、やがてやや古びたマンションに入って、そのままエレベーターに乗り込んだ。慣れた様子から彼には馴染がある場所の様だった。晴助が確認すると、エレベーターは屋上で止まっていた。


 屋上に出る鉄の重いドアを開けて男は屋上に出た。洗濯物を干すロープが数本張られているのを手で避けて柵に近づき、大きく伸びをしてから、柵を背もたれにして腰を下ろした。


「もうすっかり、秋だなぁ。」


 男はそう言って、顔を上げた。視線の先には女性の姿があった。小柄で髪の長い、地味な女性で、ジーパンに長袖のTシャツを着ていた。女性は男の問いかけには答えず、暮れていく空を見つめるだけだった。男はその様子をじっくり眺めてから、カバンからビールの缶を取り出した。男は黙ってビールを飲む。沈黙を破ったのは女性だった。


「どうしたの?滅多に飲まないあなたが、珍しいわね。」

「ああ、最近は割とこうして飲む事が多いんだよ。……似合わないかな?」


 男はうつむいたまま、照れ隠しに少し笑った。


「酒を飲む人の気持ちが少し分かってきたよ。酔ってしまうと、とりあえず、この心のもやもやから逃げられるからね。」


 女性は何も答えない。日が沈んでいくと共に、彼女の横顔の輪郭がはっきりしてくる。


「君の心のもやもやはこんなもんじゃなかったんだろうな。……いや、もやもやどころじゃないか、痛み?……」


 男はそう言って、答えを待つ様に、無表情の彼女を見つめる。しかし、彼女は答えない。男はがっかりした様にまたうつむく。


「そりゃ、最初は色々な感情に引きずり回されたよ。……ただ、それらの感情は時間が経てば引いていく、けど、このもやもやだけがどうしても消えない。こいつだけが、いつまでも僕にしがみついてくるんだよ。」


 男はそこでいったん言葉を切り、今度は少し遠慮気味に言った。


「……君がどうしてあんな事をしたのか、僕にはどうしても理解出来ないから、このもやもやが消えてくれないんだと思う。」

「その話はもう何回もしたでしょ?」


 そう答えた彼女だが、拒絶する訳でもない、至って落ち着いた口調だった。彼女は表情も動かず、口調にも感情が表れる事が無かった。


「そう言えば、あなたには内緒にしてたけど……私、大学生の頃にも一度やってるの。」


 女はやっと男に向き直り、そう言った。男は驚いて女を見る。


「え?本当かい?」

「ええ。……未遂って事になるけど。」

「……なんで?」

「なんでって、理由?別に何かあった訳じゃなくて……コップが一杯になって、溢れそうになったから、みたいな物よ。」

「……何だい、それは?」

「日々の生活、その澱みたいなものがとうとうコップに溢れそうな程、溜まって、それがありえないほど苦痛なの。」

「生活に疲れたって事?学生なのに?」

「そう、私は昔から生きる事が苦手なのよ。」

「じゃあ、今回のも同じ様な理由なのかい?」

「そうね、私はこのコップを空にする方法を他に知らないの。」

「……君がそんな風に考えていたなんて、全然気付かなかった。君は確かに、何を考えてるのか分からなくなる事もあったけど……しかし、せめてこうなる前に教えて欲しかったよ。もちろん僕の方にも、問題は有ったんだろうけど……」

「あのね、私がこういう事をあなたに話さなかったのは、私が臆病でいじけたくずみたいな人間だったからよ。自分をさらけ出せば、あなたには理解してもらえず、そしてあなたは私から離れていくだろう、って考えてた。いや、むしろ私は誰からも理解される訳がない、と思い込んでた。……まあ、とにかく私はこういう事をあなたに話す勇気が無かっただけ。あなたが悪い訳じゃないわ。」

「……ほんとにそう思うかい?」

「ええ。」


 女はそう答えた。だが男は首を振って言った。


「いや、僕はそうは思わない。」


 男はゆっくり立ち上がる。ビールの空き缶をいじくりながら、なにやら考え込んでいる。やがて、顔を上げて彼女を見ずに言った。


「また来るよ。」


 男はビールの空き缶をぶらぶら提げて帰って行く。晴助が確かめると、もうそこに彼女の姿は無かった。


 ・・・・・・


 次の日、男はあのマンションに寄らず自宅に帰った。スーパーでの様子を見ると中堅社員という感じで、勤続年数もそれなりだろう。しかし男の妹の危惧はどこから出ているのだろう?あの女性が兄を連れていく、という事なのか?


 その次の日、彼は又あのマンションに向かった。


「そう言えば、西山さんが辞めるってさ。結婚するらしいよ。」

「へー、そう。西山さんが。」

「……なあ、もし僕が君に結婚を申し込んだら……君はどうしてたと思う?」

「……どうでしょうね?んー、分からないな。」

「君は承諾したかな?」


 男は真剣な眼差しで彼女を見つめる。


「……そうね、今更取り繕っても、何の意味もないわね。断っていた、と思う。」

「……何故?」

「私の両親の話、したっけ?」

「いや、僕が聞いても、君は、はぐらかしてばっかりだったよ。」

「そうね、そのはずだわ。……私の父は婿養子でね。まあ、家業の関係で親が連れてきた男と母は結婚しなきゃいけない羽目になっちゃって。」


 彼女は少しため息を漏らし、続けた。


「結婚してからも、父と母は反りが合わなくてね。いさかいの絶えない家だった。そんな親だから子供にも無関心で、私は親の愛情という物を全く知らないでここまできちゃった。……ええ、そうよ、私はあの人達が、虫酸が走るほど、嫌いなの。あの人達の事は口にしたくもない。」


 彼女にしては珍しく、声にわずかな抑揚があり、感情の起伏が少し感じられた。


「分からない、分からない、人が愛し合う事、信頼し合う事、私にはそれが分からない。あなたが私にしてくれた事、それがそうなの?私はそれをあともう一歩で手に入れる事が出来たの?あなたと結婚すれば、それを本当に理解する事が出来たの?」

「……でも、僕は僕の君への気持ちは信じてるよ。」


 男は少しの沈黙の後、やっとの事でそう答えた。


「……そう、そうよね、あなたは私とは違う。それは分かってるし、私はそこに惹かれたんだったわ。」

「君とこういう会話を重ねて、僕は思ったよりも、自己中心的な偽善者だったらしいという事が、ようやく理解出来てきた。そう、心療内科に通ってるのは知ってた、君がご両親の事を話したがらないのも知ってたさ、でも僕はそういう面倒臭い事は、結局見ない振りをしてきた。三年近く君と付き合ったって、僕は君のそういう、自分にとって不都合な所を、ずっと無視してきた。そうだよ、未熟な僕はそれに向き合えなかったんだ。」

「お願いだから、自分を責めないで。あなたは本当に私に良くしてくれたわ、それを私は全部どぶに捨てたのよ。」

「いや、そうじゃない、そうじゃないんだよ……」


 その時、突然ドアが開いて女性が入ってきた。あの妹だ。妹は暗闇に目が慣れないのか、その場に立ったままきょろきょろと何かを探している素振りだ。多分、兄を探しに来たのだろう。やがて妹は兄の姿を認めると、猛然と詰め寄って言った。


「お兄ちゃん!」


 男はばつの悪い顔をして突っ立っている。彼女はドアが開いた途端、姿が見えなくなっていた。


「ああ、お前か……」

「何やってるの!」


 妹はかなり腹に据えかねた様子で手を腰に当てて、兄をなじる。


「いや、少し、その、考え事だよ、その……」

「んもう、帰りましょう!」


 妹はうだうだと言い訳をする男の腕を掴み出口へ向かい、男は観念してされるがまま曳かれていった。


 それから数時間後、男の家では、妹は机に覆いかぶさって寝息を立てていた。テイクアウトの夕飯の空になった容器と数本のビールの空き缶。男はふらっと立ち上がり、毛布を妹の肩に掛けてやる。そして引き出しから小箱を取り出し、ソファに座り直した。小箱を開けると中には指輪があった。多分婚約指輪だろう。男は頬杖をついて、その指輪をいつまでも眺めていた。


 男が指輪をぼんやり眺めていた頃、晴助も又男の部屋の窓をぼんやり眺め、考え事をしていた。晴助はふと思い立って、男の郵便ポストを確認してみた。男の名は早川というらしい。さて、彼女が消えてしまえば、早川はどうする?俺はいつまで待てばいい?そもそも待てば解決する事なのか?早川の部屋の電気が消えてからも、晴助は考え続けていた。

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