野狐 やこ 第三章

 その夜、仕事が終わった後、晴助はあの名刺の店に行ってみた。その店は雑居ビルの中にあって、晴助が看板で確認していると、横から話し声が聞こえた。女性が携帯で電話しているのだが、その女性は晴助の店によく飲みに来る客だった。晴助は電話が終わるのを待って、女性に話しかけた。


「姉さん、今晩は。」

「あらーー、晴ちゃんじゃない!どーしたの?」

「姉さん、ここで働いてるんすか?」

「そーよー。寄ってく?サービスするわよ。」


 晴助は笑って、いやいやと言いつつ、名刺を出してこの人を知ってるか?と聞いてみた。


「あら、この店なら友達が居るから、聞いといてあげるわ。晴ちゃんも隅に置けないわねー。」


 にやにやしながら女性は言った。


「恩に着ますよ。今度一杯おごりますから。」

「晴ちゃんこそ私の店に来てね。ほんとにサービスするわよ。」


 女性はそう言いながら、名刺を煙草ケースにしまって店に戻っていった。


 家に帰ると、野狐が待っていた。新しいジャージを着た空子はすっかり野狐の膝の上で寝てしまっていた。


「おかえり。」

「ただいま。」


 晴助はそう言って、空子を起こさない様にそっとソファーに座った。


「この子はどうなるの?」


 しばしの沈黙の後、野狐は空子の頭に手を置いてそう言った。


「……多分施設に行く事になると思う。」


 晴助も空子を見ながら、そう答えた。


「どんな所なの?」

「親が居ない子供、親が育てられない子供、引取先の無い子供、そういう子供が集まる所さ。」


 野狐は黙っている。


「……実は俺も施設で育ったんだよ。母親に捨てられてね。」

「あら、まあ。」


 野狐は驚いて言った。


「だから、まあ、別に世界の終わりという訳でもないさ。」

「……でも、あたしがおせんを失った時、有る意味世界の終わりを感じたわ。……この子はどう思うでしょうね?」


 晴助はそれは考えない様にした。空子の母の事、自分の母の事、考えてもしょうがない。


「あたし、帰るわね。どうも、化けたままだとうまく眠れなくて。」


 野狐は空子の頭にクッションをゆっくり差し込んで、立ち上がった。


「ああ、おやすみ。」


 野狐が玄関のドアを閉めるのを聞きながら、晴助は空子を見つめていた。


 ・・・・・・


 寝ていた晴助は、携帯電話の呼び出し音に驚いて目を覚ました。昨日の姉さんだった。


「その娘、しばらく休んでるらしいよ。いつ出勤するか分からないって。なんでもえらく入れ込んでるホストが居るらしいけど、そのホストとどっかしけこんでるんじゃないかって、友達は言ってたわ。」


 結局空子の母の行方は分からなかった。礼を言って電話を切り、横の布団を見ると、空子が居ない。居間に行くと空子がソファーにぽつんと座っていた。


「どうしたい?どこか痛いのか?」


 晴助は驚いて声を掛ける。


「ママが寝てる時は静かにしてなきゃ駄目なの。」


 空子はそう答えた。晴助はどう答えていいか分からなかった。


「腹減ってるだろ?朝飯にしよう。」


 空子の表情が明るくなった。晴助はフレンチトーストを作った。空子は晴助が作る所をじーっと見ている。料理に興味があるようだ。それは何?とうるさく聞いてくるが、晴助は丁寧に答えてやる。出来上がったフレンチトーストを食べた空子はとても気に入った様だった。


「家で作るご飯はおいしいね!昨日は野狐ねえちゃんが作ってくれた!」

「昨日は何を食べたの?」

「にわとりと玉子と……ごはん!」

「……親子丼か!……そう言えば、空子、学校は行ってるのか?」

「学校?」

「空子は七歳だろ?学校に行ってないのか?」

「空子、分かんない。」


 空子はそう言って屈託なく笑ったが、晴助は改めて空子の母の事を考えると不気味にさえ思えてきた。そんな空子を見ていると、早くなんとかしなければ、と思うが、何が最善か決めかねて変な焦燥感に駆られてしまう。晴助はスマホに198と打ち込み、その数字を見つめ、テレビを見ている空子を見つめ、そしてそのままスマホをしまう。やがて、野狐がやってきて、空子を連れ出した。空子はお絵書きがしたいらしくて、その道具を二人で買いに行くのだそうだ。


 仕事から帰ると今日は空子は自分の布団で寝たみたいで、野狐は一人で食卓に座っていた。


「おかえり。」


 野狐はお茶を啜りながら、新聞を読んでいた。


「ただいま。今日帰りにあの部屋に寄ってきたけど、まだ帰ってなかったよ。」

「……そう。お茶飲む?」


 晴助は野狐が入れてくれたお茶を一口飲むと、口を開いた。


「明日仕事休みだから、連絡してみようと思う。……だからあんた、明日は来なくていいよ。」

「……そうね、その方が良いわね。」


 野狐は食卓の上で腕を組み、俯いた。やがて立ち上がり、


「あの子にさよならしてくるわ。」


 と言って、寝室に入っていった。野狐は空子のおでこに手を当て、じっと顔を見つめた。やがて立ち上がり帰り支度を始めた。


「……人でもなんでも、子供って可愛いものねぇ。」


 晴助は見送るため、立ち上がり玄関まで一緒に行く。野狐は玄関を一歩出たところで、くるりと振り返った。


「黒手さん、どうも色々ありがとうございました。」


 野狐はそう言って深々とお辞儀した。


「……なに、あんたの為じゃないさ。」


 晴助は少し驚いたが、そう答えた。そして野狐は深夜の街に消えていった。晴助は食卓に戻り、野狐が入れてくれたお茶を飲みながら、空子が描いた絵をぼーっと眺めていた。


 ・・・・・・


 次の日、晴助が起きると、空子は食卓でお絵書きをしていた。晴助は後ろから覗き込む。二組の親子を描いているようだ。一組は真っ黒で一組は真っ赤、真っ黒の方は母親と子供、真っ赤の方は両親と真ん中に子供を挟んで立っている。


「空子、何を描いてるんだい?」

「これは新しい空子。」


 空子は真っ赤の子供を指して言った。


「新しい空子?」

「これは空子の生まれ変わりなの。」

「生まれ変わり?」

「……空子ね、生まれ変わろうと思ったの。」


 そう言って、空子はあの丸めた紙幣をジャージのポケットから取り出した。それを見た晴助は空子が何を言ってるのか分からなかった。


「このお金と生まれ変わりとどういう関係があるんだい?」

「しんどくなったら、これをぎゅっとするの。そしたらこんなにちっちゃくなっちゃった。」


 空子は寂しそうにそう言って、その丸めた紙幣を見つめた。晴助は、はっとした。つまり、空子は餓死しようとしたのか?この紙幣を手に握って、空腹が辛くなって、拳を握っているうちに、紙幣がここまで丸まってしまった、という事か?こんな子供が、と晴助は俄には信じられなかった。しかし、考えてみれば、空子は生まれてから、父はおろか側に居た筈の母の庇護さえ受けず、全く孤独に生きてきたのだ。幼いとはいえ、この世に絶望する理由は確かに有るのだろう。晴助は空子の頭に手を置いて


「朝飯にするか?」


 と言った。空子は笑顔で頷いた。


 それから、晴助は電話をしようとしては、寸前で思いとどまっていた。空子がどうなるかも不安であったが、晴助は子供を捨てる共犯者になる様な気がして、それは、結局晴助自身の母親の行動を是とする事に思えて、その考えが晴助に電話する事を思いとどまらせていた。夕方になっても晴助は決断出来ず、散歩がてら食料の買い出しに行こうと空子を連れ出した。


 川沿いの堤防を二人でだらだら歩いた。落ちかけの太陽から垂れた光が、辺り一面をオレンジ色に塗りたくっていた。空子は背ほどもある草むらに入って、また出て、を繰り返していた。と、突然二人の前に見た事のない女性が現れた。黒のスーツを着た引っ詰め髪で銀縁眼鏡の女性だった。


「やっと追いついた。七川空子ちゃん?」


 女性は空子に向かってそう聞いた。


「……あの、どちら様ですか?」

「児童相談所の者です。」

「え!?俺、まだ……」

「少し前に通報がありましてね、空子ちゃんの事で。時間が掛かりましたけど、保護すべきだと結論が出まして。」

「それで、七川さんのお宅に伺ったところ。」


 女性は、晴助に見える様にメモを取り出して見せた。それは晴助が空子の母に宛てたメモだった。


「先程入れ違いに出掛けるのが見えたので、追いかけてきたんですよ。」


 晴助は体がすくんで言葉も出なかった。空子は不安げに二人の会話の成り行きを見守っていた。


「加貫さん、あなたが一時的に保護されていたんですね。助かりました。」


 その女性は笑顔で言った。


「ここからは空子ちゃんは我々で保護します。」


 晴助は後ずさった。


「でも……」


 晴助は弱々しく抵抗するが、女性は容赦しない。


「加貫さん、あなた空子ちゃんの親族でもないでしょう?」

「……いや、そうですが……」

「ここで私に空子ちゃんを引き渡さないと、略取誘拐罪に問われる可能性もありますよ。」


 女性は冷たい目つきでそう言った。晴助は観念した。どうせ、連絡しようと思ってたんだ、しょうがない。晴助は腰を下ろして、空子の顔を見て言った。


「空子、このお姉さんの言う通りにするんだ。」


 空子は口をぱくぱくさせて、抗弁しようとしたが、諦めた。結局、空子は諦めるのに慣れていて、今までの人生も諦めの連続だったのだ。空子はおとなしく女性の元に行った。


「どうもありがとうございました。」


 女性は空子の手を取り、歩き出す。それを晴助は呆然と見送る。空子はずっとこちらを見て、片手を差し出している。それは晴助をつかまえようとする様だった。空子は泣き出していた。


「……お家に帰ろう……お家にかえろう……お家に帰ろうよーーー、晴助にいちゃん!!」


 最後は殆ど叫び声だった。晴助は空子が差し出した手を取ると、空子を担ぎ上げ走り出した。


「あ!ちょっとーーー!」


 空子を奪われた女性は叫んだ。


「すいません、やっぱりこの子は俺が面倒みますからーーー!」


 晴助は走りながらそう女性に叫んだ。


「本当に面倒見れるんですかーーー!」

「子供の一人や二人、何てことないですよーーーだ!!」


 晴助は死に物狂いで走り続けた。晴助はとっさの自分の行動に、訳も分からず、先の事も考えられず、いつの間にか叫びながら走っていた。空子はずっと泣いていた。


 晴助達が見えなくなるまで見送った女性は、やがて眼鏡を取り、髪をほどき、振り返り歩き出す。


「……全く人って不思議ね……」


 女性は微笑んでそう呟いた。

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