野狐 やこ 第二章

 それから、一月ほど経った頃、晴助はその夜の事も、野狐の事もすっかり忘れていたのだが、突然玄関を叩く音が聞こえて、出てみると果たして、青い顔をした野狐が立っていたのだった。


「あんた……野狐かい?」

「黒手さん!後生だから一緒に来てちょうだい!」


 野狐は晴助の腕にしがみついて、どこかに引っ張って行こうとする。


「ちょっと、ちょっと!一体何事だい!?」


 晴助は慌てて野狐を押しとどめる。


「いいから、ここからすぐのアパートに、お願いだから来て欲しいのよ。」


 野狐はそう言った。恐ろしく真面目な表情で、青ざめて見えたのは、或いは少し恐怖を感じていたのかもしれない。


「さあさあ!お願いだから来てちょうだい!」


 結局晴助は引きずられる様に、そのアパートに連れて行かれた。そこはアパートというよりはこじんまりとした団地といった感じだった。団地ほど部屋数は多くないが、造りが団地に似ていた。そこの二階の一室、野狐がそこを開けて飛び出してきたのだろうと分かるくらい、玄関のドアが大きく開け放たれていた。


「さあ、早く。」


 野狐はそう言って、中に入っていった。晴助はちょっと覗いてぎょっとした。室内はゴミ屋敷だった。だが野狐は構わずどんどん中に入って行くので、晴助も仕方なく後に続いた。野狐は奥の部屋の中央で、うつむいて晴助が来るのを待っている。晴助は野狐の隣に立って、野狐がうつむいていた理由が分かった。あふれかえったゴミの中の少しの余白に汚い毛布が敷いてあり、その上に小さい女の子が寝ているのだった。


「こりゃ……」


 晴助は驚いて野狐を見る。


「多分、何日も食べてないのよ、この子。」


 女の子はこの闖入者にも全く気付かないふりで、晴助が顔を覗き込んでも表情はうつろで目の焦点も合っていない様に見えた。


「この子は何者なんだ?」

「あたしも知らない子なんだけどね、この子、匂うのよ。少し……」


 野狐は少し晴助に近づき、声を少し抑えて言う。


「狐の匂いがするのよ、この子。」

「この子は狐憑き……なの?」

「……いや、違うみたいね……この子は不思議な縁があるみたい、狐と。あたしはこの狐の匂いに釣られてこの子を見つけたのよ。それより……早くお医者に見せた方が良いわ。」

「……でも、この子の親は?」

「この有り様を見れば分かるでしょう?この子の親は多分何日もここには帰ってきてないんだわ。それに付け加えると、何時帰ってくるか、いやそもそもここに帰ってくるかどうかも怪しいと思わない?」

「……分かった。取りあえず病院に連れて行こう。」


 晴助は毛布ごと少女を抱えあげ、病院へ急いだ。


「先生!」


 晴助の呼びかけに奥から小柄な男性が出てくる。


「晴助君か。」


 しかし医者は晴助の顔をちらっと見ただけで、すぐさま少女の容体を確認に掛かる。


「栄養失調だな。」


 医者は晴助から少女を受け取ると、奥の診察室に消えていく。取りあえず晴助と野狐は待合室の古びたソファに腰掛ける。


「ここの医者は左次さん……俺の先代の黒手が懇意にしていた医者なんだ。だから、うるさい事言わずに診てくれるんだよ。」

「へー、黒手さんって代替わりするんだ。黒目さんも?」

「他の黒衆も皆代替わりする筈だよ……ところで、あんた、何で俺の所に来たんだ?」

「たまたま、あなたが近くに住んでて本当に良かったわ。……源先生がね、もう手遅れで、手の施しようの無い子供の頭に手を置いて”もうあと十分、いや五分……”っていつまでも呟いてるのよ。それがね、忘れられなくて。あの子を見た時、その事を思い出してね。医者に診せて、あと十分、いや五分って言われたら本当にぞっとするわ。だからあたしも必死だったのよ。」


 晴助は黙って聞いていた。少しの沈黙の後、晴助は口を開いた。


「……あんた、あの子が狐と縁があるって言ってたけど、ありゃどういう意味だ?」

「何だか、変わった狐が、あの子の中に居るみたいだけど……」

「それは狐憑きとは違うのかい?」

「違うみたいね。それより、もっと不思議な事があって、あの子あなた達と似た感じがするのよ。黒目さんやあなたも、言葉でうまく言えないけど、似た感じがあの子からも感じるの。」

「そりゃ、どういう……」


 医者が診察室から出てきて、こっちに向かってきた。


「あの子ね、あれ育児放棄だと思うよ。」


 医者は渋い顔でそう言った。


「とりあえず点滴してるけど、一晩様子見させてよ。」


 晴助は礼を言って医者の元を辞した。


「それで、どうするの?」


 病院を出たところで野狐が聞いてきた。晴助は少し考えてから答えた。


「あの部屋へ戻ってちょっと調べてみよう。」


 部屋に戻ると晴助はあふれ返ったゴミの中から女の子の家族の連絡先を探した。しばらくゴミを漁ってると携帯電話の請求書が出てきた。宛名は七川 広子となっていた。晴助は請求書に記載された携帯番号に掛けてみたが、料金を滞納しているのだろう、繋がらなかった。管理人に話しを聞きに行った野狐が戻ってきて言う。


「あの子の家族は母親だけみたい。シングルマザーってやつね。管理人は子供が居る事も知らなかったみたいよ。母親は夜の仕事で、殆ど見かけなかったらしいわ。」


 晴助はどんどん嫌な気分になるのを押し殺して、ゴミを漁った。しかし、それ以上あの子の母親、もしくは父親、或いは親戚などに繋がる物は見つけられなかった。晴助はふと便せんの切れ端に目を留める。


 あたしは ななかわ くうこ

 あたしは ななかわ くうこ

 あたしは ななかわ くうこ


 子供の字で三行書かれていた。便せんを黙って野狐に渡す。


「くうこちゃんか……」


 野狐がぽつりと言った言葉が、そろそろ薄暗くなってきた部屋にからんと響いた。


「後は、明日にでもするか。」


 晴助はそう言って、時計を見る。そろそろ仕事の時間だ。


「……黒手さんはもう帰っていいわよ。」

「あんたはどうする?」

「今夜はここに居るわ。母親がふらりと帰ってくるかもしれないし、ここもちょっと片づけなきゃね。」

「ここを片づけるのかい?」


 驚いて晴助は尋ねる。


「意外とあたしお掃除好きなの。」


 野狐はそう言って笑った。


 ・・・・・・


 次の日の朝。晴助と野狐が病室に入ると、くうこはベッドに身を起こして、ぼーっとしていた。晴助と野狐はくうこの母親の友達だと自己紹介したが、くうこはとりわけて何の反応も無く、はぁ、はぁ、とつぶやくだけだった。しかし帰ろうかと声を掛けた時、くうこの表情は一変した。恐怖にとらわれた表情を浮かべた後、大粒の涙をぼろぼろ流した。


「いや!あそこに戻るのはいや!!」


 そう言って、布団に突っ伏して、肩を大きく震わせた。そんなくうこに野狐が覆いかぶさって、宥める。


「じゃあ、とりあえず、俺ん家に行こう。」


 その提案は受け入れた様だった。晴助の家に着くと、野狐は早速くうこを浴室に連れて行った。くうこは髪もぼさぼさで着ている服も脂で汚れた感じだった。何日も風呂に入っていなかったのだろう。晴助はお粥を作り始めた。


 風呂から上がってさっぱりしたくうこは大分落ち着いた様に見えた。出されたお粥も、最初は躊躇していたが、野狐が宥め賺すと食べ始めた。晴助はその様子を眺めながら、質問してみた。


「くうこちゃん、ママはどこへ行ったの?」

「ママは……どこか知らない。」

「ママはいつも居ないの?」

「うん、いつもくうこ一人だよ。」

「ごはんはどうしてたの?」

「コンビニで買ったよ。」

「じゃあ、何でごはん食べなかったの?」


 晴助は丸められた紙切れを食卓に置いた。くうこが握っていた手の中にあったと、今朝医者から渡された物だ。固く小さく丸められた五千円紙幣だった。金があるのにどうして食料を買いに行かなかったのか、晴助には謎だった。食卓に置かれた丸められた紙幣を見てもくうこは何も言わなかった。どうも理由は言いたく無い様だ。黙って、空になった茶わんの中で匙をかきまわしている。それでも、くうこは食べ終わると表情にも大分生気が戻ってみえた。改めて見てみると、くうこの着ている服、上下ジャージだったが、ひどく汚れていた。晴助の家に勿論着替えが有る訳でも無く、くうこは風呂に入っても、服はそのままだった。


「くうこちゃん、服買いに行こうか?」

「でも、くうこ、お金ないよ。」

「大丈夫、兄ちゃんが買ってやるから。」


 金の心配をするくうこを連れ出して、服屋に連れて行った。最初は戸惑っていたくうこだったが、次第に服をあれこれ見始めた。頃合いを見て、晴助は野狐に話しかける。


「ちょっと、俺あの子の部屋に行ってくるわ。」

「あたしたちは?」

「買い物終わったら先に帰っててくれ。」

「掃除してて、少し気になった物をちゃぶ台の上に置いておいたわ。あと、これ。」


 野狐はくうこの部屋の鍵を差し出した。晴助は鍵を受け取り野狐に自宅の鍵と金を渡して店を出た。


 部屋に入ると、あのゴミ屋敷がすっかりキレイとまでいかなくても随分片づけられていた。生ゴミは全部処分され、その他のゴミはビニール袋に詰められ部屋の片隅に置かれていた。ちゃぶ台の上に小さい段ボールが置かれていた。野狐の言っていた気になる物だろう。晴助は中を見てみた。中は一束の書類だ。若い男女のプリクラがあった。これがくうこの両親だろうか?あと、母子手帳。七川 空子とある。生年月日を見ると、空子は七歳だった。クラブの名刺が数枚あった。どれも同じ名前なので、母親の名刺だろう。店は晴助の働いてるバーから遠くない。後は請求書くらいだ。ゴミが片づいて、この部屋にも少しは家具があった事が分かった。改めて部屋を見渡すと、カラーボックスの棚に引き出しが幾つかあった。晴助はその引き出しを開けかけたが、思い直した。


「やめた。あの子は俺の仕事でも無いし、そこまでする道理も無いだろう。」


 とにかく空子を母親に返すまで、だ。もし母親が帰って来なければ、空子は施設に入れられるんだろう。そう、俺みたいに。でも、施設もそんなに悪い所じゃないさ。なんてったって施設育ちの俺が言うんだから。


 晴助は空子の母親宛に自分の連絡先を置いたメモをちゃぶ台の上に置いて部屋を出た。

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