野狐 やこ 第一章

 普通の野生の狐、人間を化かしたりする狐、神格を持たない狐などを差して野狐と称する。野犴(やかん)と表記する場合も室町時代以前にはある。野狗(やこ・やく)、野狛(やこ)の字をあてられることもある。「狗」も「狛」も当時では犬の類といった意味。


「野狐」『ウィキペディア日本語版』,(2021年9月2日取得,https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E9%87%8E%E7%8B%90&oldid=69867853).


 ・・・・・・


 いつもの仕事の帰り道、ふと晴助は足を止めた。


「はて……こんなところに……?」


 川沿いの廃屋が並んだ一角に、突然飲み屋が現れた。見るからに古びた飲み屋だが、以前ここを通った時は、こんな店は無かった筈だ。店先に吊るされた提灯には狐の面が描かれていた。晴助がその提灯を眺めていると、不意に引き戸がすーっと開いて、細目の白い手が覗いた。続いて艶やかな女性の顔がぱっと現れて、晴助に微笑みかけた。


「あら、こんばんわ。」

「……あ、こんばんわ。」


 晴助はややたじろきながら、返答した。


「まあまあ、お兄さん、こんなきれいな月夜に寄り道しないなんて、なんて勿体ないこと。」


 女性は巧みに晴助の腕を取り、店に引っ張り込んだ。こじんまりとしたカウンターだけの店内で、いや、とかその、とか弱々しく抵抗していた晴助だが、結局女性の言うがまま腰を下ろした。ビールでいいでしょ?と女性は言って、瓶とコップをカウンターに小気味よく置いた。晴助は観念して、瓶に手を伸ばすが、またもや女性が先回りし、瓶を取ってコップにそそぐ。その姿があまりにも様になっていて、何だかビールもうまそうに見えてくる。晴助はコップのビールを飲み干し、このちょっと不思議な状況を理解しようと考えるが、女性があれやこれや話しかけてくる声を聞いている内に、どうでもよくなってくる。女性が手早く茹でた枝豆をつまみながら、ビールを飲み、駅前の空店舗に次はどんな店が入るのかとか、そんな話を聞きながら、晴助はふと思う。狐に化かされるとはこんな感じなのかと。その考えが浮かぶと、晴助は思わず、あっ!と叫んだ。そうだ、表の提灯にちゃんと描いてあったじゃないか!


「あんた、狐かい?」


 女性は顔を斜め上に向けて、勢い良く煙草の煙を吐き出しながら


「あたしは野狐。そう仰る通り、狐だよ。」


 そう言って、笑った。晴助は驚いて言葉も出ない。


「どうしたの?お兄さん、狐は初めて?」

「……あんた、俺の事……」

「お兄さん、半分は人ね。あと半分は……そう、昔、お兄さんみたいな人に会った事があってねぇ。」


 女性は昔を思い出しているのか、空を見つめてそう言った後、視線だけこちらに向けて


「まあまあ、座ってよ。取って食ったりしないから。」


 そう言って、片手をひらひら動かした。晴助はいつの間にか立ち上がっていた自分に気付き、椅子に座り直した。


「……俺みたいな人に会った事があるって?」

「ああ、そう、お兄さんは黒衆っていうんでしょ?その人はさ……真っ黒い消し炭みたいな目玉を持ってたよ。」


 そう言って、野狐は目を大きく見開いた。


「……へえ。」


 晴助はビールを飲もうとコップを持ったが、ふと手を止める。それを見て野狐はすかさず言った。


「そんな古くさい悪戯なんてしないわよ。安心して。」


 野狐は呆れているのか、少し笑ってそう言った。晴助はビールを飲み干した。


「……で、俺に何か用があるのかい?」

「好奇心は猫を殺す、と言うけど、どうも狐のあたしも好奇心じゃあ猫に負けず劣らず、でね。あたしは、人とずっと付かず離れず、長い事生きてきたけど、今でも人に対する興味が尽きない訳。それでお兄さんみたいな人を見かけると、どうもお喋りしたくなっちゃってねぇ。」


 そう言って野狐はにっこり笑った。その曇りの無い笑顔に晴助も、緊張が少しゆるんだ。


「で、お兄さんは何者?」


 野狐は興味津々で質問してくる。


「俺は黒手、あんたの言った通り黒衆だよ。」

「……ねえ、ちょっと見せてよ。減るもんじゃないでしょ?」


 どうやら黒手を見たいらしい。晴助は少し面食らったが、乗り掛かった舟とばかりに披露に応じた。


「へぇ、どれどれ……」


 野狐は黒手を見て、触って、技師が機械を点検するように、子細にいじくりまわす。


「なるほど、ねぇ。……ありがとう。」


 満足した野狐は奥に行き、新しいビールを持ってきて、コップに注いだ。


「でも、あたしが昔会った、お兄さんが黒手って言うんだったら、その人は黒目って言うのかしら?まあ、とにかくその黒目は片方の目だけ黒かったけど、お兄さんは両の手が黒いんだね。」

「……ふーん、でも生憎黒目にお眼に掛かった事はないんでね。よく分からないなぁ。」

「ねえ、黒手になるのは試験かなんかが有るの?」

「いや、特段そういう物はなかったよ。どうも神様が指名するらしい。」

「へー、お兄さんはなんで指名を受けたの?」

「腕が貰えると聞いてね。俺は事故で片腕を無くしたんだよ。」

「なるほど、おもしろいわね。」

「……そーかい?じゃああんたの事も聞かせてくれよ。俺も狐に化かされるのは初めてだからさ。」

「種も仕掛けもすっかりこの通り。化かすなんて人聞きの悪い事は言って欲しくないわね。」


 少しむくれた顔をした野狐だが、すぐにいたずらっぽい顔になり


「まあ、構わないわよ。あたしはさっきも言った通り野狐、狐のあやかしで、少しばかり人に幻を見せる事が出来る、それだけのただの狐。」


 野狐がそう言うと、突然店内に月の光が満ちた。店の屋根がすっかり消えてしまって、満月の明るい光が差し込んでいるのだった。


「へー、なるほど。」


 晴助は感心して言った。


「言っとくけど、このお月さまは本物よ。」


 月を見上げる二人。


「じゃあ黒手さん、一つあたしの昔話も聞いてくれる?」

「ああ、ぜひ聞かせてもらおう。」


 それじゃ、と野狐は話し始めた。


 ・・・・・・


 あたしが何処で生まれたのかと問われれば、森の中と答える。あたしが何から生まれたのかと問われれば、森の梢が風で吹かれて、と答える。あたしがこの世界で見た最初の風景だからだ。


 あたしは何かが起こるのを、何日もその場で待っていた。しかしただ時が経つばかりで、何も特別な事は起こらない。やがて、あたしは生きるために行動するべきだろうという事を悟った。空腹を小動物で満たし、渇きを小川の冷たい水で潤し、あたしはどんどん森の中を進んでいった。ある時、あたしは森の尾根伝いに進んで、峠の道に出た。そこに小さな茶屋があって老婆が店番をしていた。あたしは初めてそこで人というものを見たのだ。その老婆の名はおせん、といった。あたしは木の陰から注意深くおせんを観察した。あたしは何日もそこに通ってじっとその茶屋とおせんを観察した。やがておせんもあたしに気付いたらしく、ある時、いつもの木の陰に行くと人の食べ物が置いてあった。おせんが店の残り物をあたしの為に置いていってくれたらしい。あたしは警戒してそれを物色したが、匂いにつられてついに一口食べてみた。悪くなかった。ねずみの血なまぐさい内蔵よりはるかに良い香りと味だった。あたしがそれをペロリと平らげたのでおせんも気を良くしたのだろう。それから毎日木の陰には食べ物が置かれていた。しばらくするとあたしはすっかりその茶店の前で寝起きする様になっていた。朝起きて、茶店が開いてるのを確認すると、おせんのところに行って、食べ物をねだる。おせんはあたしの姿を見ると、にっこりと笑っていそいそと食事を用意してくれるのだった。茶店が暇な時、あたしはおせんの横にねそべり、おせんはあたしの頭を撫でてくれた。おせんが頭を撫でると、穏やかな木漏れ日に包まれた様な気持ちになって、心が暖まる様な気持ちを覚えた。おせんの手はしわくちゃで指の節もごつごつしていたが、今でもその感触は忘れられない。茶店の先には小さな村があって、おせんの家はそこにあった。あたしはそこの村人たちとも次第に打ち解ける様になっていった。


 そんな、ある日。村を賊が襲った。負け戦の兵が山賊となって村々を襲っていたらしい。あたしはその時、運悪く森の中にいた。不思議と変な胸騒ぎがしたのだ、まるで人の様に。あたしは茶店に急いだ。おせんは茶店の前の道で倒れていた。頭を村の方に向けてうつぶせに倒れ、背中には三本の矢が刺さっていた。あたしはおせんの手の甲を舐めた。既に、冷たく堅くなったおせんの手をあたしは舐め続けた。おせんは賊の襲来を悟り、村に知らせに行こうとして、殺されたのだろう。あたしは間に合わなかったのだ。あたしは自分がおせんをみすみす失った事に、愕然とし、また動揺した。そして怒りが湧いてきた。これほどの怒りを自分が感じる事もまた意外だった。しかしあたしは自分の怒りに捕らわれ、とうとう賊を追い、駆け出した。


 賊はやはり村に居た。あらかた略奪は終わり、村人の幾人かは殺され、家は焼かれていた。あたしはあまりの怒りの為か、口から青白い炎を吐きながら、村に駆け込み、賊と対峙した。


「野犴(やかん)じゃ!これは珍しい。捕らえれば金になるやも知れん。弓を構え!」


 賊の頭らしき男がそう叫んだ。手下どもはあたしの姿におっかなびっくりだが、頭の合図で弓を引く構えである。


「討…………」


 そこまで言ったところで、あたしはその男の喉元に食らいついていた。あたしの牙が喉の骨を砕くと、男は小さく、て、と言って馬上から崩れ落ちた。あたしは喉に食らいついたまま、とどめをさす様に頭を振ってやるが、その度に男の体が地面に打ち付けられ、鈍くはねた。手下どもはその姿を見て、恐怖に駆られ蜘蛛の子を散らす様に逃げ出した。あたしは手近の者に襲いかかり、二人仕留め、三人目の喉元に食らいついて、喉骨を砕こうとするその時、男は小さく、おっかあ、と呟いた。それを聞いて、あたしの怒りは不思議と消えていった。あたしは急にこいつらや自分のやっている事に、嫌気がさしたのだ。


 それからあたしは血糊でべっとりの自分の体をきれいに洗い、おせんを埋葬した。おせんには身寄りが居なかったからだ。茶店が見える木の根元におせんを苦労して埋めた。その夜の月がちょうど今日の様な大きくて明るい月だった。あたしはその月を眺めているうちに、ふと自分が泣いている事に気付いた。あたしは自分が考える以上に、人の感情を理解し、人に近づいていたのかも知れない。あたしは少し困惑しながら、それでも溢れる涙を止める事は出来なかった。


「どう黒手さん?人を殺めたあたしを祓う?」

「……祓うかどうか決めるのは、俺じゃない、神様だよ。」


 晴助は少し困った顔でそう言う。


「ただね、言わせてもらうと、人を裁くのは人の社会だよ。俺やあんたじゃない。」


 野狐はその言葉を聞いて、目を丸くし、にっこりわらいながら言う。


「今の言葉、そっくりそのまま言われた事があるわ。」


 あたしはその後も人の複雑な感情に興味を持ち、様々な人々を注意深く観察した。ある時、辺鄙な田舎で初老の医者と知りあった。その医者は人嫌いの変わった男だった。季節は初夏、日が暮れようかという時、医者は縁側で団扇を持って夕涼みをしていた。あたしがその医者を観察していると、医者もこちらに気付き、あたしを一目見て、野狐か、と言った。それきり、あたしの方には大して興味も持たず、ただ縁側で日の落ちていく様を見ていた。あたしはその医者に興味を持ち、それから毎日通う様になった。その医者は源六という名前だったが、村の者は源先生と呼び、あたしもそう呼んでいた。源先生は本当に博識で、あたしはこの医者に読み書きから人間の生活全般から人の体の構造から、本当に様々な事を教えてもらった。おせんが私の母なら、源先生があたしの父という存在だった。


「その源先生にもおせんの話をしたら、今のあなたと同じ事を言ったわ。……全く人って不思議ね……」


 酔いが回ったのか、カウンターに突っ伏して寝てしまっている晴助を一瞥し、野狐は立ち上がって伸びをし、言った。


「さあ、そろそろ店じまいにしようかしら。」


 次の日の朝。晴助は河川敷で落ち葉に埋もれて目を覚ました。最初は少し混乱した晴助だが、昨日の夜の事を思い出し立ち上がり、体に付いた落ち葉を払いながら、悪態をついた。


「なんだよ、結局こうなるのか……」


 昨日の店は思った通り、廃屋だった。晴助はその廃屋の前でしばし立ち止まって、帰ろうと歩き出す。


「まてよ、じゃあ昨日のビールは……?」


 晴助は口に手を当て、ぶつぶつ言いながら、家路についた。

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