恋か、夢か。

95(kuko)

恋か、夢か。(オニオンスープ)

 遠くの踏切が鳴っている。寝返りをうってスマホに手を伸ばし、画面を見つめる。午前六時。ひんやりと冷たい空気が頬をさす。あたりはまだ薄暗い。アラームはちゃんと切って寝たはずなのに結局いつもの時間に起きてしまった。のそのそと緩慢な動きで布団から抜け出して、昨日の鍋を火にかける。眠い目をこすって少しだけ開けた視界の端にははねた前髪が映った。


*


「明日の朝ごはん、何食べたい?」

「先月、駅の向こうにパン屋さんできたって言ってたよね? 早起きしてそこのモーニング行ってみようか」

「さんせーい!」

 ーーなんて話していた昨日の夜はなんだったんだろう。

 当たり前のように朝ごはんと呼べる時間は過ぎていて、予定していたパン屋さんのモーニングの提供時間はあと十分。お互いの顔を見合わせて、ふふふと笑った。

「残念だったねー」

「オレ、下のコンビニでパン買ってくるよ」

「ありがと。昨日ミネストローネ残っちゃったし、あっためておくね」

 ブランチと言えば聞こえはいいが、ただの寝坊である。適当にコンビニで買ってきたパンと、昨日の残りのカラフルなスープを並べて、隣同士に座る。彼は左に、私は右に。自然と決まった定位置におさまり、大好きな映画を再生しながら二人で手を合わせた。


*


「あ、そうだ。オレさ、来年度から本社勤務になったんだよね」

「え! すごいじゃん!」

 彼の会社では、各地方で経験を積んだ優秀な人間たちが本社に集まってくるという。入社時、彼がお世話になった先輩も昨年の春に本社へ栄転しており、ここ最近はそれなりに大きな案件が終わるたびに「そろそろ本社行けるかも」と嬉しそうに話していた。元々、就職活動をしていた学生時代から本社での業務内容に興味があったらしく、彼は地道に成果を上げながらこの異動辞令が下るのを心待ちにしていたのだった。

「それで、どうする?」

「どうする、って」

「本社、西だけど」

「……あ」

 そうか、そうだった。彼の会社の本社があるのは西側、ここから電車と新幹線を使っておよそ四時間ほど。極端に遠いわけではないけれど、今よりは確実に離れる。

 一方で、私の勤めている会社は大企業ほどではないがそこそこの優良企業で本社をこの地域に置いており、その他の地方には小さな営業所があるのみ。西の方にも拠点となる支社を作ろうという動きがあるが、まだ数年はかかりそうな状況である。それに、

「私も、この間出した企画が通って、次はリーダーを任せたいって言ってもらってて」

 彼に比べると小さい会社かもしれない、けれど、私だって小さい頃から憧れていた仕事に就いて、やっと自分のやりたい企画をすすめることができそうなのだ。

「だから、まだ行けない」

「そうだよな、そう言うと思ってた」

 すこし、困ったように彼は笑った。


 彼が大学生だった頃、高校時代から付き合っていた彼女と遠距離になって結局半年と保たずに別れてしまった、という話を聞いたのはいつのことだったか。私は彼の大学時代を知らないけれど、彼を紹介してくれた友達と飲んでいた時にさらりと言われた気がする。その記憶が、ぐさりと私の心を刺した。


 タイミングが良いのか悪いのか、お互いに仕事が忙しくなってあの日以来しばらく会えていない。そうこうしているうちに、今年のカレンダーもあと一枚になってしまった。

 あの日、咄嗟に「行けない」と言ってしまったけれどふと思い出すたびに心は揺れていた。いま、離れてしまって、たとえ数年後に運良く支社が出来てそこへ行けたとしても、それまで私が彼を好きでいるのか。それ以上に、そんなに長い間彼は私を好きでいてくれるのか。

 いわゆる結婚適齢期。結婚式に呼ばれる頻度もそれなりに高くなってきた。懐かしい面々と会うたびに「次は誰かなぁ」と期待のこもった目を向けられ、私はいつも曖昧に笑って誤魔化した。考えなかったわけじゃない。彼のことは好きだし、恋愛は大事だと思っている。だけど、私の夢だって、大事だ。……そして、私が彼を応援しているように、彼もまた私を応援してくれている。

 ぐるぐるとモヤモヤを抱えきれなくなって、久しぶりの定時上がりの金曜日に友達を呼び出した。グラスを傾けながらまとまらない思考回路をそのまま吐き出す。私に彼を紹介してくれた彼女は、そうだねと頷いて「……でもね、やっぱり距離は魔物だよ」と、ぽつりと零した。


 ーー頭痛が酷い。昨日、きちんと家に帰ってきたことが奇跡なくらい、見事な二日酔いだ。貴重な土曜の午前は跡形もなく消えていた。冷蔵庫から水を取り出そうとして、ふと目に入ったもの。三段目の隅に、玉ねぎがひとつ。そういえば余っていたなぁ、なんて。二人分作ればすぐに使い切れる三個入りの玉ねぎは、最近持て余し気味である。キミ、いつも残るよね、と呟いて、重なった。


*


 そろそろ今年も締めが近い。連日の仕事で疲れ切って面倒くさくなり、夕飯にはお惣菜を買って帰ってきた。あとは何かあるものでスープでもと思って冷蔵庫を開ける。玉ねぎ。またキミか。

 適当に刻んで、ざっくりとはかった水とコンソメキューブをひとつ入れて火にかける。手の込んだことはしない。味はそこそこ。いつも通りのオニオンスープを一口すする。カタンとテーブルに戻したカップには口紅の跡がついていた。


 恋か、夢か。

 どうして、選ばないといけないんだろう。


 遠くの踏切が鳴っている。寝返りをうってスマホに手を伸ばし、画面を見つめる。午前六時。ひんやりと冷たい空気が頬をさす。あたりはまだ薄暗い。アラームはちゃんと切って寝たはずなのに結局いつもの時間に起きてしまった。のそのそと緩慢な動きで布団から抜け出して、昨日の鍋を火にかける。眠い目をこすって少しだけ開けた視界の端にははねた前髪が映った。

 ぐるぐる、ぐるぐる、かき混ぜる。小さな泡が浮かんでは消える。恋か、夢か。

 温めたスープをカップに注いで食パンとともにテーブルへ運べば、そこにあったのは昨日片付けそこねたカップ。ふちに残った寂しげな口紅の跡。ティッシュで軽く拭ったくらいじゃ落ちないかもしれない。

 少しだけ脇によせて、手を合わせる。

 恋か、夢か。スープの香りと、自分のパジャマの匂いが混ざる。隣からは、しない。


 いつも通りのオニオンスープ。なのに、なぜか。

「しみるなぁ」

 ふ、と息を吐くと、真っ黒なテレビの画面に映った私の目からきらりと涙が光って落ちた。

 

inspired by 「オニオンスープ」(詞曲:町田ゆう)

written by 95(kuko)

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