朝飯抜太郎

 

 ある朝、お婆さんがいつものように川に行くと、川上から大きな桃が流れてきた。お婆さんはザブザブと太腿まで冷たい川の水に浸り、水草にひっかかっていたその桃をとり上げた。桃はバスケットボールくらいの大きさで、何とも言えぬ甘い香りを放っている。お婆さんは、その桃を持って、家に帰った。家に帰るともうお爺さんは起き出していて居間でめざましテレビを見ていた。星座占いを注視したまま、お爺さんはお婆さんに声をかけた。

「なんじゃ、また川に行ってたんけ」

「ああ。幸二はおらんかったわ」

「そうけ。残念やったな」

「ああ」

 幸二とは30年前に川に遊びに行ったきり行方不明となった息子の名である。お婆さんは、サンダルを脱ぎ、台所にあがった。

「ばあさんよ。朝飯は何にするかね。卵焼きか目玉焼きか……」

「ああ、今日は桃でええか」

「デザートやがな……まあ、なんでもええわ。好きやし」

「じゃあ、わたし切るで待っとって」

 お婆さんは桃を水道水で軽く洗い、まな板の上に置くとおもむろに包丁を押し当てた。ギチリと皮が破れる音がして、そこから汁と甘ったるい匂いがあふれ出した。台所と開け放しでつながっている居間にも桃の匂いがたちこめる。だが桃からあふれたのは匂いだけではなかった。


「おぎやあ、おぎやあ」


 唐突に赤ん坊の泣き声が響いた。お婆さんの持つ包丁の下で、刃を怖がるように赤ん坊が泣いていた。お婆さんは、時間が止まったように、動きを止め、じっと赤子を見つめていた。声に驚いてお爺さんが居間から台所に顔を出す。

「ばあさん」

「幸二」

 お婆さんの両眼からは涙が溢れ出していた。


 桃から子供が生まれた話は直ぐに村中に広まった。お婆さんが赤子を抱きながら村中を歩き回りふれ回ったからだ。お爺さんはそれについて何も言わなかった。だが認知症の進んだお婆さんの言うこと……というようには収まらなかった。そこには実際に赤ん坊がいたからである。すぐに警察がやって来た。

「婆ちゃん~。だから、その子供はどこにいたんよ~」

「この子は昔からうちにいました」

「だから、それは30年前の話よね」

「だから、昨日帰ってきたんです」

「百歩譲って帰ってきたとして、少なくとも30歳以上じゃないと話が合わないよね。赤子だよね。それは」

 いつまでも要領を得ないお婆さんの話に巡査は困り果てていたが、事態はその困り果ての果てに向かって進んでいく。赤ん坊を包んでいた桃は、まだ冷蔵庫に入っていて全く腐った様子もなかった。おじいさんの昼のデザートにもしたのだったが、そこからまたも赤ん坊が生まれた。新しい赤ん坊は冷蔵庫を押し開け、しばらくはいはいすると、すぐに立ち上がり、巡査が頭を抱えて座り込んだ玄関の上がり端を通り抜け、外に出て行った。さらに冷蔵庫の桃からは、あと1ダースの赤ん坊が生まれ続け、縦列をなして歩いていったのである。巡査とお爺さん、お婆さんは妖しい香り漂うその桃を手にしたまま忘我の表情で後を追い、その様子は複数の村民達に目撃されることとなった。

 やがて赤ん坊の列は川に到着した。しかし行進は止まらず、赤ん坊は次々と入水していく。そのとき川上からは、大小様々な桃が流れてきた。そして、一旦見えなくなった赤ん坊は浮かび上がるとめいめい流れてきた桃につかまり浮き輪代わりにして流されていくのだった。手を振る赤子に、巡査は手を振り返してしまった。家に帰ると、最初に生まれた赤ん坊だけがすやすや眠っていた。


 川上には何かがある。それは明白だった。その次の日曜日、巡査と村の若者数名が川上に向かったが、夜になっても、次の日になっても誰も帰らなかった。さらに一週間たって、町から県警とその他のたくさんの人が来た。たくさんの人はお婆さんとお爺さんを質問攻めにしたが、お婆さんはニコニコと微笑んでいるだけだった。やがて川上への捜索隊が編成され、マスコミを含んだ大勢の人間が川上に向かった。それを眺めていたお婆さんとお爺さんの指を、桃から生まれた赤ん坊がきゅっと握った。驚くことにその赤ん坊もいまや自分で歩けるようになっていた。お婆さんとお爺さんは、こっそり捜索隊の後について歩き出した。興味本位の村人たちも、それに続いた。


 村人たちが捜索隊を見失い、2時間程程歩いたところで、辺りの様子が一変した。山の様子など熟知しているつもりだった村人達はその光景に驚き目を見張った。川の両岸には同じ種類の背の低い木が群生している。辺り一面に薄桃色の花が咲き乱れる桃の林が広がっていたのだった。むせかえる程甘ったるい匂いが、喉に鼻腔に、濃密にまとわりつく。それらのすべてが人の世と隔絶した雰囲気を醸しだしていた。その桃の木々の間に、真っ裸で踊り続ける捜索隊の姿があった。彼らは酔っ払ったように、幹に身体を打ちつけ、地面を転げまわっている。正気ではなかった。男たちは頬を上気させ、ぶつぶつと何か呟き、幸福そうに笑う。そして、徐々にそれは目をみはり、ドン引きする村人たちにも伝染していく。狂気が共起されその場にいる人の心を塗りこめてく。


「みんな、どうしたんや。なにを」

 正気を保ったお爺さんが狼狽して叫ぶ。お爺さんも何かが壊れそうだった。これまでに感じたことのない不安と、何かに対する期待が背中を押そうとする。いけないと思いながら飛び込めと誰かが叫ぶ。今にもはち切れそうなお爺さんを、それをすぐ近くから冷静な声が押しとどめた。


「無駄だよ。皆、匂いにやられてるんだ。この匂いが強力な幻覚を見させるんだ」

 言葉は、お爺さんが手を握る赤ん坊から発せられていた。お爺さんは息が止まりそうになる。

「おまえ」

「桃の精でも見てるんだろうね。すごくきれいなんだろうな。幸せそうな顔。でも、やがて、ああなる」

 赤ん坊が指差した方向を見て、お爺さんは小さく悲鳴をあげた。そこには行方不明の巡査と若者達の姿があった。皆、倒れ伏して死んでいるように見える。そして、その服の破れた背中や腹から、桃の若木が生えているのだった。

「さあ、行こう。もうすぐだよ。しっかり手を握って」

 お爺さんは、赤ん坊に手をひかれるまま、再び歩き始める。もう、何も考えまいと思う。お婆さんは微笑んだままだった。狂乱の中、ふたりの周囲だけが静かだった。まるで何かがふたりを守っているように、またどこかへ導いているように。


 やがて川が小川になり、小川はさらに小さな流れとなって、岩と草の中に続いていた。まだ辺りは桃の林である。しかし、不思議なことに桃の匂いに混じり、栗の花の匂いがした。お婆さんとお婆さんは途方もなく大きな桃の木の前で立ち尽くしている。ふたりと赤ん坊の目の前の、群を抜いて大きなその桃の木には、毒々しいピンクの花と、大きな実がなっている。そして、そこには、大樹の幹に抱きつくようにして腰をうちつける男の姿があった。髭も髪も伸び放題に伸びたその男は、一心不乱に腰を振り、幹に打ち付けている。その姿は、修行する修験者のようでもあり、熱弁を振るう独裁者のようでもあり、魂を削りぶつける芸術家のようでもあり、ただ一匹の獣のようでもあった。


 高まり張り詰められた緊張が破れるように、赤ん坊とお婆さん、二つの声が発せられ重なった。


「幸二」

「パパ」

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朝飯抜太郎 @sabimura

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