もういいよ

ふさふさしっぽ

もういいよ

「わたしね、小学生の頃、いじめっこだったの」


 隣で一緒に校庭を眺めている妻が、唐突にそう言った。その顔は、ブルーの日傘に隠れていて、僕の方から表情を読みとることはできない。


「へえ、意外だな」


 なぜ妻が突然そんなことを口にしたのか分からなかったけど、暑さに参っていた僕は雑談の一種ととらえ深く考えず、思ったことをそのまま述べた。妻は大人しいタイプだ。人によっては暗い性格だと思われるだろう。いじめっこだったなんて、ちょっと想像がつかない。




「三十年ぶりに小学校に帰ってきて、昔のことを思い出したのかい」


 僕はそう言いながら首に引っかけたタオルで汗を拭う。


 もう日が傾きかけているというのに、気温は一向に下がらない。妻の故郷は盆地だと聞いていたけれど、ここまで暑いとは思わなかった。


 盆休みを利用して妻の実家に帰省したのが昨日。聞けば妻の母校、小学校が今年で廃校になるという。少子化の影響により、隣の学区の小学校と統合するのだ。


 そこで今日、せっかく帰って来たのだからと、僕と妻は午後になってから娘の理奈りなを連れて、妻の子ども時代の学び屋を散歩がてら見に来たのだ。


 妻がかつて通った小学校は、田舎の小学校だから小さいのでは、という僕の予想に反して四階建でコの字型をしているなかなか立派な小学校だった。もちろん木造ではないし、現在理奈が通っている横浜の小学校とあまり変わらない。


 一人娘の理奈はさっきから地元の子どもたちと校庭で鬼ごっこをしている。妻とは正反対の性格で、はきはきしていて誰とでもすぐ打ち解けられる子だ。僕自身も社交的とは言い難い性格をしているし、いったい誰に似たのだろう。僕と妻はそんな理奈を、二人並んで校庭の隅っこの木陰から見ていた。すぐそばで蝉が大合唱している。校庭を挟んで向こうに、例の四階建ての校舎がソメイヨシノとともに見える。四十代後半の僕は座るところが欲しかったが、あいにくベンチのようなものはなかった。それに比べまだ四十ちょっとの妻は涼しい顔をしている。


 そういえば出かける際、妻はどこか乗り気じゃないような、考える風のような、沈んだ表情をしていたような気がする。妻は喜怒哀楽に乏しく、感情が表に出ないタイプだからあのときはあまり気にしていなかったけれど。もしかしたら、小学校にあまりいい思い出がないのかもしれない。




「彼女は、仮に、そうね、まゆりちゃんとでもしましょうか。四年生の時に同じクラスになったの。何をやっても上手く出来なくて、口下手で、おどおどした子だったわ」


 僕の質問にだんまりしていた妻が再び口を開いた。もう飛べなくなって地面すれすれに這っている蝉をなにげなく僕が目で追っていたときだった。


「彼女は、暗黙の了解でクラスの女子から仲間はずれにされていた。いつのまにか、そういう存在になっていた。わたし、新しいクラスになったとき、そんなことになるなんて思わなくて、最初はけっこう彼女としゃべったりしていたの。新しい友達になれるかなって、考えてた。けど……」


 彼女、まゆりちゃんは、いじめの標的になってしまった……。妻の言わんとすることが、なんとなく僕には分かって来た。僕は余計なことは言わずに、妻の次の言葉を待った。


「わたし、自分がいじめられるのが怖くて。ある日クラスのリーダー格の女子に命令されて、放課後、校舎裏の土手に彼女を呼び出した。そう、あの校舎のすぐ裏よ。そこには、当時たまったゴミなんかをまとめて燃やす穴がぽっかり空いていて、わたし、「もういいよ」っていうまで、ここから出てきちゃだめだよって、彼女をその穴につき落としたの」


 妻の口調は不自然なくらい淡々としていた。僕は妻が無理やり感情を押し殺しているのではないかと推測した。


「そうしてわたしは穴の中に彼女を置いて、リーダー格の女子のもとへ行き、ご機嫌をとるかのように結果を報告した。……本当に卑怯者だった」


 相変わらず妻の表情は日傘で分からないが、彼女の心情を慮ることは僕にも出来た。きっと友達を裏切ってしまったことを後悔しているのだろう。そして、権力に屈してしまった自分の情けなさをかみしめているのだろう。


 意外な告白をした妻に、なんと言ってやればいいだろう。「自分はいじめっこだった」というのも、いじめに積極的に加担したわけではないが、彼女を裏切ってしまった自分も同罪だという自責の念から出た言葉だと思う。妻は今も、その三十年前のことを悔いている。


 どうしようか。誰にでもそのような、後悔している過去はあるよ。それより今は前を向いて、同じ失敗をしないように過去を乗り越え……いやいや、なんか芝居じみてるな。しかも説教くさい。「そうか」とただ同調してやるのがいいのかもしれない。だけど僕は彼女より六つ年上だ。何か元気づける、気の利いたことを言ってあげたほうがいいのかもしれない。




「そうしたらね、この辺ではたまにあることなんだけど、その日の夜、急に天気が荒れて、その穴は、崩れた土手に埋まっちゃったの」


「えっ……」




 まだ話の続きがあったんだと思った途端、僕は意表をつかれて言葉に詰まってしまった。


「え、そ、それって」


「ゴミを燃やす係のおじさんが行方不明だって言って、崩れた部分が念入りに捜索されたけれど、何もでてこなかった。おじさんは流れる土砂に巻き込まれて、問題の穴から遠く離れたところで遺体で発見されたの。おじさん以外は、何もでてこなかった」


「あ、そ、そうなの。じゃあ、まゆりちゃんは」


 それを聞いて僕はほっと胸を撫で下ろす。そうだよな、いくらなんでも夜まで女の子一人でいつまでもそんなとこいるわけないもんな。


「彼女は……その日から行方不明になった」


 ほっとしてついゆるんだ頬がひきつった。背筋に冷たいものがはしる。え? なんだって? 妻は何と言ったんだ?


「クラスの女子はみんな事情を知っていたけれど、いじめの発覚を恐れて誰も本当のことを口にしなかった。それどころか、責任を土手に呼び出した張本人のわたし一人に押しつけようとした。自分たちは何もやっていないと。リーダー格の女子はこう言ったわ。あんたがもういいよ、って大声で言ってやれば、どっかから出てくるんじゃない。もういいよって言うまで出てきちゃだめって、あの子に言ったんでしょ。ほら、あんたあの子と結構仲良かったし、って。……自分の命令だったくせに、まるで他人事だった」


 妻の声音にくやしさが滲んでいる。と、思ったら、突然妻がこちらを向いた。


「わたしね、それでももういいよ、って、言えなかった。怖かったの。そう言ったら、本当にまゆりがあの土砂の中から現れるような気がして。だから、今でもあの校舎の裏の土手に彼女がいるような気がするんだ。そうして、ずっと三十年間、わたしのひと声を待ってるんじゃないかって」


「まさか」


 思わず僕はそう言ってしまった。現実的に考えてそんなことあるわけない。まゆりちゃんは、全く別のところで行方不明になったか、あるいは不運にも未だ土砂の中から発見されないままなだけだ。その場合、とっくに亡くなっているだろう。だけど僕を見上げる妻の目は真剣そのものだった。まゆりちゃんが自分のひと声を待ち続けている、本気でそう思っているかのような眼差しだ。妻はオカルトの類は信じない性質だと思っていたが、三十年経った今も、まゆりちゃんの呪縛から逃れられないのだ。無理もない。考えようによっては自分が殺したともとれてしまう。だけど……。




「パパー!」


 小学校三年生になる理奈がはしゃぎながらこっちへ駆けてくる。鬼ごっこは終わったのだろうか。


「いっぱい遊んだか? 理奈」


「うん」


 理奈は僕のポロシャツの裾をつかみながら僕を見上げ、満面の笑みを見せた。自然と僕の顔もほころぶ。


「まゆりちゃんがどうなったのかはいくら考えても結局分からない。それよりも、今は大切な理奈を僕と二人で守っていこうよ」


 僕は理奈の頭を撫でながら、妻に向かって言った。妻は僕を見つめたあと目を伏せ、少し何か考えるようにしてからそのまま、「そうね」と呟いた。同時に下校時刻を知らせるチャイムが鳴り響く。こういうのは夏休み中でも鳴るものらしい。




「もういいよー!」


 甲高い声が響いた。




 え? と思って声がした後ろを振り返ると、理奈が僕の背中に隠れるようにして「しぃーっ」と人差し指を立てた。隠れているつもりらしい。


「今度はね、かくれんぼしてるの」ささやく理奈。だからわたしをしっかり隠してね、とでも言わんばかりだ。


 僕は反射的に妻を見た。こちらを向く妻の目は見開かれ、その体は傘を持ったまま硬直している。


「もう、いいよー!」


 さっきよりも大きな声で、もう一度、理奈が叫んだ。校庭を見ると鬼役の男の子がうろうろと皆を探し始めている。


 大丈夫、言ったのは理奈だ。妻じゃない。


 たとえよく義母が「理奈は性格は正反対だけど、顔と声は当時の娘そっくり」と言っていたとしても。


 そもそも、現実的に、そんなこと、起こるはずないんだ。


 だけど。


 ふいに妻がブルーの日傘をどっ、と地面に取り落とした。そして、学校の校舎の方を指さす。僕もつられてそちらを見た。校舎の前に、ふらふらとこっちに向かってくる黒い枯れ木のようなものがいた。右に揺れ、左に揺れ、ゴミのようなものを引きずりながら、それは近づいてくる。理奈と同じくらいの背の高さ。


「ああ、あ」


 僕は声にならない声を出し、逃げなければ、と思った。だけど、とっさに手をとろうとした妻は、落とした傘もそのままに、微笑んでいた。そして、


「やっと、見つけてあげられた」


 と、僕や理奈の存在を忘れたかのように、まるでどこか遠くを夢見るような目で言った。


 僕の後ろに隠れる理奈だけが、きょとんとして、「あれなあに?」と僕と妻を交互に見ている。


 蝉の声がやけに遠くに聞こえる。


「ごめんね、……ちゃん」


 妻の呟く声がかすかに聞こえた。きっとまゆりちゃんの本名なのだろうが、僕には聞き取れなかった。

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