紫陽花

スエテナター

紫陽花

 蒸し暑い梅雨だった。雨は数日に渡ってしつこく降り続き、体は汗と湿気で両生類のようにべたついた。部屋を埋め尽くす愛読書や障子紙、ベッドの布団まで重くじめついて、そこかしこから雨の匂いが漂った。本を捲っても湿気た紙の感触が不快ですぐに放り出してしまう。雨音を聞きながら窓の外を見ると、硝子を滑る雨垂れの向こうに、花の咲かない葉っぱばかりの紫陽花が見えた。

 この紫陽花は毎年純白の花を咲かせるが、今年新しく家に来たバイトの少年が私の父の言い付けで冬の終わりに株の根元から枝を切り落としてしまったので、今年は花が咲かないのだった。その頃、体調を崩して入院していた古参使用人の鶴音婆やは、顛末を聞いて眉根を寄せた。

「まぁ、不憫ですこと。紫陽花は前の年に伸びた枝の付け根に花芽を付けますのに開花前に全部切ってしまうなんて。むごいことですわ」

 彼女の恨めしい瞳は枝を切り落とした少年本人よりも、彼に指示を出した父の浮薄さを批判していた。

「たとえ旦那様のお言い付けでも、私が付いていればそんなことは絶対にさせませんでしたのに。お可哀想なことでした」

 そう何度も繰り返すのだった。

 事情を知った少年は青い顔をして平謝りに謝ったが、家中誰も彼を責めたりはしなかった。批判の矛先は遊び人でしょっちゅう酒に溺れ、家のことも顧みない人望なしの父にひっそりと向けられた。枝を切った当事者である少年だけはいつまでも気にしているようだったが、他人の過ちに厳しい鶴音婆やですら彼を悪く言うことはなかった。

 前髪を伸ばして目を隠しているこの内気な少年は叶翔かなとといって、当初あまりの陰気さに家中から敬遠されていたが、日々接していくうちに彼の飾らない素直さが周囲に知られることとなり、いつしか用事があれば皆が真っ先に彼を呼ぶようになった。


 しとしとと降り続く雨の中、突然従妹いとこが訪ねてきた。数年ぶりに顔を見せた彼女は周囲が驚嘆するほど艶やかに成長していた。髪を栗色に染めて緩く巻き、目元も唇も鮮やかに化粧を施し、白いカットソーに藍色のガウチョパンツという出で立ちで、すっかり今時の大学生になっていたのだ。鎖骨の間には控え目なペンダントトップが揺れ、耳にはピアスが光っている。つい数ヶ月前まで高校生だったとは思えない。

「まぁ、未羽みはねお嬢様、お綺麗になって。見違えましたこと」

 近頃涙もろい鶴音婆やはグレイヘアを団子に纏めた小さな頭をむやみに縦に振り、未羽嬢の成長に涙ぐんだ。未羽嬢は出迎えに出た私にも頭を下げ、

「どうも従兄にい様、お久し振りです」

 と挨拶をした。意思のはっきりした溌剌とした目元とは対照的に、会釈をする仕草は淑やかだった。

 鶴音婆やが廊下の奥に向かって手を打ち「叶翔さん、お茶の支度をして下さいね」と命じると、どこかから「はい、畏まりました」という繊細な返事が雨音に混じって聞こえた。

 私は何か用事があるらしい未羽嬢を連れて自室に戻った。壁一面本に埋め尽くされた和室の光景は異様に見えたようで、彼女は部屋をぐるりと見回しながら「まぁ、凄い」と呟いた。

「昔から従兄様のお部屋は本だらけでしたけれど、しばらく来ない内に随分増えましたのね」

 本棚に圧迫されて元から狭苦しい八畳間は客人を迎えて更に狭くなり、体感温度も湿度も増した。せっかく来てくれた未羽嬢を汗だくにするわけにもいかないのでクーラーで部屋を冷やす。すっと気持ちのいい冷気が降ってきた。

 座卓に未羽嬢を座らせ、正面に私も座り、用件を聞いた。

「本当にお久し振りですこと。小さい頃はわたくしも無遠慮でずっと従兄様の後を付いて回っていましたけれど、大きくなると滅多にお会いしなくなるものですのね。ところで従兄様、伯父様は近頃妙なことを仰いませんでした?」

 彼女の言う伯父とは私の父のことだが、未羽嬢の説明によると、私の父と未羽嬢の父は酒を呑み交わしながら、何を思ったか、二人で勝手に私と未羽嬢の縁談を進めようとしているらしかった。

「もしかしたら従兄様にもそういう話を持ち掛けているのではないかと心配になって様子を見に来ましたの」

 私は、寝耳に水でそんな話を聞いたこともないし、父達が隠れてそんな話をしようとは思いもしなかったと答えた。わざわざ血縁関係のある私でなくても、未羽嬢にはもっと相応しい人がいるだろう。そう話すと、未羽嬢は気不味そうに微笑んで肩を竦めた。

「そうだったらいいんですけれども、なかなか上手くいかないのよ。この間も半年付き合った方とお別れしたばかりで……」

 そんな話をしているところへ、お茶を持った叶翔少年が「失礼します」と言って部屋へ入ってきた。緊張しているらしく、盆を持った細い体が震えていた。もうこの家では使用人中、最も誠実な人物として知られているが、初対面の未羽嬢も一目見て彼の奥底に潜む貞実さを見抜いたようで、慣れない手付きでお茶を運ぶあどけない少年の所作を凝視した。ちょっと怪訝な顔をしたのは叶翔少年が前髪で目を隠しているからだろう。視界を遮る不便そうな前髪を、何か問い掛けたいような視線で観察していた。

 叶翔少年は盆を畳の上に置き、まずは未羽嬢に湯呑みを差し出した。

「どうもありがとう」

 叶翔少年の前髪に対する問い掛けを隠しながら未羽嬢が微笑んで頭を下げると、叶翔少年はあたふたして「いいえ、そんな……」と千切れるようなか細い声で首を左右に振った。それから私の前にも湯呑みを置いてくれたが、その間に未羽嬢が窓の外の紫陽花を見て「あら」と首を傾げた。

「こちらの紫陽花は開花が遅いんですのね。もうあちこちで咲いているのに」

 それを聞いて、叶翔少年はびくりと肩を震わせた。

「ご、ごめんなさい。それは、僕が枝を切り過ぎたから、今年は咲かなくなってしまって……」

 青褪める叶翔少年に代わって私が事情を説明すると、未羽嬢はすぐに優しい同情の眼差しを叶翔少年に注いだ。

「それはあなたのせいではありませんわ。来年には咲くでしょうし、あまりお気になさらないようにね」

「あ、ありがとうございます……」と、叶翔少年は俯いて縮こまった。

 それから軽く身の上話をするうちに、叶翔少年が未羽嬢の通っている大学を目指しているという話になり、情に疎い私にも二人の距離が急速に縮まったことが分かった。

 未羽嬢は持ち前の好奇心で叶翔少年に色々な質問をぶつけ、家族構成や趣味、食べ物やテレビ番組の好みまで聞き出した。いつしか彼女は私の正面から叶翔少年の傍らに座を移し、もっとあなたのことを知りたいとでも言うように至近距離で彼を見つめた。ただ、未羽嬢の興味は最初から前髪に隠された彼の瞳にあったようで、彼女は首を傾げながらそっと手を伸ばした。

「叶翔さん、目を出した方が素敵なのに、隠してしまうなんてもったいないわ」

 湧き立つ好奇心に操られた白い指先がそっと叶翔少年の黒髪を掻き分けると、奥から人形のように大きな愛くるしい瞳が現れた。驚きのために見開かれたその黒い瞳は、ありとあらゆる感情の水滴を集めて作られた美しく複雑な深い海のようにも見え、それが隙間なく並んだ豊かな睫毛の下できらりと光り、息もなく未羽嬢を凝視した。

 未羽嬢にとってもこの濁りない瞳との邂逅は予想外だったようで、二人は一瞬、時の止まったように見つめ合った。

「あの……僕は……隠してた方が落ち着くんです……」

 掻き分けられた前髪を元に戻すと、叶翔少年は私達に丁寧に頭を下げ「そろそろ仕事に戻らないといけないので失礼します」と挨拶をして部屋を出て行った。

 叶翔少年の去った部屋に、雨の音と匂いが満ちた。

「とてもいい子でしたわね……」

 未羽嬢は花の咲かない真緑の紫陽花を眺めながら呟いた。


「旦那様は呑み歩いてばかりでちっともお帰りにならないで、あれでは奥様が不憫ですわ」

 鶴音婆やは毎日のようにそうぼやいた。息子の私ですら父を擁護しようとは思わない。先の未羽嬢との縁談話もどうやら泥酔の末の冗談だったようだが、私や未羽嬢には迷惑極まりない話だった。

 梅雨が去り、かんかん照りの真夏になると、叶翔少年の切った紫陽花は夏の空気を吸って生き生きと新しい枝を伸ばした。叶翔少年も気になるらしく、しょっちゅう庭に来て紫陽花の様子を眺めた。

 夏休みに入ってから彼は夏期講習で忙しいようだったが、幼いきょうだいもいるのでこのバイトは続けるつもりであること、この家の人たちは皆優しくて大好きだということを話してくれた。

 意図せず傷めつけてしまった紫陽花には特別慈悲深い視線を注ぎ、新しい枝の成長を喜んだ。

「この紫陽花が枯れてしまわないかずっと心配だったんですけど、元気そうで良かったです。純白の花が咲くところ、僕も見てみたかったけれど、受験が上手くいけば来年にはここを離れるでしょうし、もしかしたら見られないかもしれません。未羽様も――」

 未羽嬢の名前を口にした途端、彼ははっとして首まで真っ赤になり、

「あの……その……大学の話を色々と聞かせてもらってて……その……少し遠い大学だから、未羽様もアパートを借りて一人暮らしをなさっているそうで……そんな話を聞かせてもらったので……」

 と、言い訳でもするようにしどろもどろに言った。さらさらした黒髪の合間から恥じらいに染まった耳がちらちら見えた。

 未羽嬢とのことはそっとしておいた方がいいんだろう。話を逸らすため、暑いから中に入って冷たいものでも飲もうかと誘うと、彼は大人しく頷いて付いてきた。


 季節は静かに過ぎていった。その中で叶翔少年は密かに前髪を短くしていき、暑さの落ち着いた十月頃には丸いくりくりした瞳をすっかり顕にした。

「叶翔さん、前髪がすっきりしましたね。そっちの方がいいですよ」

 鶴音婆やに言われて過度に頬を赤くしたのは、容姿の変化を指摘されたことへの含羞があっただけでなく、その変化の理由に未羽嬢が絡んでいるからでもあったのだろう。重量感のある豊かな睫毛を戸惑いがちに伏せて、怯えるように肩を竦めてしまった。

 彼は口では何も言わないが、代わりに剥き出しになった瞳で多くの感情を仄めかした。わざわざ訊ねなくても、言動を見ていれば恥じらいも喜びも手に取るように知れた。

 叶翔少年の前髪は時折元のように瞳を隠すほど伸びたが、すぐにさっぱり切られてまたくりくりした瞳を現した。そんなことが彼の大学入学の直前まで繰り返された。


 無事受験を終えた叶翔少年が新生活のためにこの家を離れなければならなくなった頃、未羽嬢から電話が来た。私の思った以上に二人は親密になっていて、叶翔少年の新生活の準備も一緒に整えていたらしかった。

『新しい生活も上手く始まりそうです。いいアパートも見つかりましたし、引っ越したら早速バイトも探すんですって。叶翔君も従兄様のことを随分慕っていたようですから、時折連絡を入れるかもしれません。そちらの使用人のバイト、叶翔君は本当に楽しかったみたいで、辞めたくないとずっと言っていましたから』

 叶翔少年もこの家では漏らさなかった本音を、未羽嬢には色々と語っていたんだろう。ほとんど毎日一緒に過ごした私よりも、未羽嬢の方がよっぽど彼を理解していた。

 叶翔少年はバイトの最終日まで心を尽くして働いてくれた。彼の教育係だった鶴音婆やは涙を零して別れを惜しんだ。


 叶翔少年の去った数ヶ月後、紫陽花は二年ぶりに花を咲かせた。

 ただ、私の記憶していた花の色とは微妙に違い、微かに赤味掛かっているように見えた。鶴音婆やに、あの花は昔からずっとあんな色だっただろうかと訊ねると「そうですとも。あんな色でしたとも。坊っちゃん、もうお忘れになられたの?」と笑われた。

 私は開花した紫陽花の写真を未羽嬢に送ろうと思い立ち、スマホを持って庭に出た。未羽嬢に送れば、きっと叶翔少年にも届くだろう。

 どういう風に撮ろうか迷いながら紫陽花にスマホを向けた時、ふと去年の夏にこの紫陽花の前で、叶翔少年と他愛ない雑談をしたことが思い返された。本当に何でもない時間潰し程度の会話だったが、彼の見せた恥じらいの仕草や表情が存外深く記憶に刻まれて、意味ありげに蘇るのだった。

 彼の見たがった純白の花は、やはり私の目には微かに赤味掛かって見えた。目の錯覚なのか本当に色が変わってしまったのかは定かではない。長年この家に仕える鶴音婆やが変色はないと言うのだから、元からこんな色だったのかもしれない。

 紫陽花の丸い花は微笑むように咲いている。私は仲良く寄り添う二つの大輪をスマホの画面に収め、軽くシャッターボタンを押した。

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