第8話

 現在時刻は午後七時ほど。途中、東北の冬の最後の悪あがきが容赦なく新幹線を襲い、停車を余儀なくされたことから二時間ほど遅延が生じてしまった。

 遅延のアナウンスが聞こえた時、「もしやこれは醜女の執念によるものなのだろうか」とか「あの吹雪のなかに雪女かなにかが潜んでいるのではあるまいな」とか「あの雪はきっと、渡り鳥のように北へと向かう雪の虫の群れに違いない」とか、楽しい想像を繰り広げられるほど気分が退屈に飲まれることはなかった。車内の他の乗客はうんざりした様子でその二時間を過ごしていたが、周囲の乗客ほど時間を持て余すことがなかったのだ。

 わたしは今、日々の生活へ戻ろうとする新幹線の車内で一連の摩訶不思議な出来事のことをパソコンでしたためている。東北の片田舎から東京まで遅延込みでの執筆時間はおおよそ五、六時間ほどだ。ほとんど集中していたため用足しと飲食以外はすべてパソコンに向かっていた。

 あれからのことを書き留めておくべきだろう。

 暗くなる前にナヅガミと別れ麓に戻ったわたしは、コートの内ポケットのなかにおかしな感触のするものが入っているのを感じた。生温かくもぞもぞ動くそいつに少しだけぞくっとしたが、勇気を出してそっと取り出してみると、なんとやまねが丸まって寝ていた。いつの間にわたしのコートに、と思ったが、そういえばギンガの毛のなかに入って寝た後のことは分からずじまいだったような気がする。帰ってから寝床を変えたのだろう。もしかすると魔界にまで付いてきていたかもしれない――そう考えると、とんだお気楽なやつだと思った。

「おんやぁ?」とそこで目を覚ましたやまねが「舟渡さんでねが……さいっ、こごどごだべか」と飛び起きたのでそれまでの次第をつらつらと説明した。やまねはなるほどと頷きながら聞いていたが、そこでふとわたしが気になったのは、篝はこの後どうなってしまうのかという事だった。

「篝さんだば大丈夫でねが? 醜女さんきがねひとだども、篝さんもそいだば同じだ」

「しかし、醜女はその気になれば神様をも殺すことができる呪いをかけることができるのでしょう。やはり篝さんが心配です」

「いんやぁ、醜女さんもそんた大層な呪いだばしったげ時間かげねばなんねよ? 篝さんそいで病む頃ってば舟渡さん生ぎでねびょん。なんも気にすな」

「そうですか……」

 やはり彼らはみなわたしとは違う存在なのだろう。

 そろそろ土に埋めてけれ、眠ふてじゃあ、というやまねを適当な木の虚に下ろし、雪の下から掘り返した腐葉土を丁寧にかけてあげた。雪が解ければ自然と目覚めて、自分でナヅガミたちのもとへ帰ってゆくだろう。

 はからずもやまねを見たことで実にさまざまなことを経験したような気が途端に胸の内から湧き上がってきた。あそこでの多くの経験はわたしの記憶のなかに深く刻み込まれたはずだ。それに、まるで非現実的な冒険譚のような出来事だったが、おそらくそこでの経験はこれからの人生のなかで、また幾度となく奮起しなければならない出来事があるたび思い返されることでもあるのだ。

 しばらくやまねの眠る虚を見つめたあと、携帯電話でどれほど時間が経ってしまったのか見てみたら、驚くべきことに六時間ほどしか経っていなかった。どうやらこの世界とあの世界では時間の流れる速さがまったく違うらしい。父への通話履歴を見ても、山の実家に来てから二時間しか経っていない頃にかけていたものとわかった。わたしはもう一度電話をかけ、やはりそちらに帰ることを告げた。そのときの父親の声は大して不思議に思っている様子もなく、「んだが、気い付けで帰って来いな」とだけ言うものだった。そして帰宅したわたしを見るなり、両親はコートやシャツや革靴やわたしの顔のひどくくたびれた様子に驚いたものの、どうせ久しぶりに会った友人と羽目を外して馬鹿遊びしてきたのだろうと思い込み、なにも不審に思うことはなかったようだった。ただ、あまりの汚れようになにを思ったのか、「あんまりきだねぐしぇば、風呂さるのかな」という気まぐれな母のひとことにより、その日の夜は両親と近くの銭湯で風呂を済ませたのは、なんとなく昔の家庭を思い出したかのような気がした。

「最後にもうひとつ書くことがあったな」

 わたしは車内販売で購入していた残りわずかなコーヒーを飲み干した。

 地元の駅で見かけたあの白い片開きドアは帰り際も存在していた。日曜日、つまり今日という休日に市内へ遊びに出かける若者たちがいたが、やはりホームの向こうにあるそのドアには誰も気づいていなかった。本当はわたしにしか見えていないのではないかとも思われたが、やがてひとりの杖をついたお年寄りが改札からやってきて、その人がじっとドアのある方向を見ていたので、どうやらまぎれもなくそこにあるものだということに内心ほっとした。

 電車の到来まで時間もあったので、もう一度くらい通り抜けてみようか、とふと思い立ち、連絡橋を使って向こう側に行くことも考えたが、それはやめておいた。そんなことをしなくとも、似たようなものならばこれから幾度となく潜り抜け、その都度、框を跨いでゆく。

 優雅なメロディーのあと、五分後の到着を知らせる車内アナウンスが響いた。そろそろ目的の駅へと到着する頃合だ。

 これを書いている途中で何度か、「もしかして裏山での出来事はすべて夢や幻だったのだろうか」と頭をよぎってしまったが、そうではない。あれは確かに現実だったと思う。しかし、わたしがあの出来事を経験したことの証拠は、もはやここに書き残している一連の出来事の記憶、文章しかないのだ。その上でこれを書いていて不思議に思うのは、まるであの経験を追体験するようにわたしがこれを書き残そうとし、キーボードに指を打ち付けるたび心の奥底からなにかが奮い立たされ、そして湧き上がってきたからだった。

 ここに書かれていることが、日々の仕事に追われ心身ともに凝り固まり、疲れきった中年の見た幻覚や幻想だというならそれでも構わない。だが、わたしはあの世界のやわらかな雪と土をしっかと踏み、山での寒さ暑さも、鍋のうまさも、篝や神様という存在も、魔界で感じた嫌な汗の感触も、そして、篝に胸を押された時の拳の力強さも、すべて確かに感じ得た。

 新幹線が失速を始めたのを感じた。窓から駅のホームが間近に見え始めた。パソコンを閉じて降り支度をせねばなるまい。本当はもう少ししたためていたい気もするが、これで最後にすることとしよう。

 春がようやく追いついた、と。


   了

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とっぴんぱらりのぷ 籠り虚院蝉 @Cicada_Keats

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