第7話

 尻餅を付いて、切れた注連縄の前で呆然としていた。ようやく我に返ったあと周囲を見るが、いるのは心配そうなナヅガミが立っているばかりで篝やギンガの姿はなかった。

「わたしは、なにを」

「落ち着け。まずは私の住処へ戻ろう。向こうでの詳しい話を聞きたい」

 一体なにが起こったのか判然としないまま、わたしは溜め息を吐いて立ち上がった。

 覚束無い足取りでナヅガミの手を借りながら住処へ着き、出された三茶を一息で飲んで大きな溜め息を吐くと、ようやく穏やかな世界に戻って来られたことを実感した。蒸し暑い魔界とこの世の冬との厳しい寒さの差が身に堪えて、向こうですっかり汗を吸ってしまったシャツもまるで役には立たず、代わりにナヅガミの召し物を借りて羽織り、囲炉裏に手足を差し出していた。

「落ち着いたか」

「はい。もう大丈夫です」

「では、向こうで一体なにがあったのか教えてくれないか」

 わたしは一度頷くと、コートのポケットにしのばせておいた巻物をナヅガミに手渡した。

「これは」

「マナガミにかけられていた呪いの呪文だそうです。醜女さんはナヅガミさんの推測通り、マナガミに呪いをかけていたようです」

 ナヅガミはその巻物を広げなかに書かれていることに目を通し始めた。初めは無表情だった彼の顔がだんだんと険しくなっていった。

「いかにも、これは対象に死をもたらす禍いの呪文だ。これほどまでに強力な呪い、何者にも集中力を邪魔されぬあの空間に閉じ込められていた醜女なればこそ記し得るもの。最後まで書かれてしまえばマナガミは確実に命を落としていたであろう。これは私が丁重に焚き上げておく。舟渡よ、本当に有難う」

 神様に頭を垂らされるという貴い機会だったが、不思議と深い感慨は抱かなかった。相手が神様であっても、どこか、取るに足らない行為のように思われてしまった。

 神様からの感謝の意をそこそこに、わたしはさらに続けた。

「それと、これは醜女が言っていたことなのですが」

「話せ」

 わたしはあの洞窟内で醜女が思っていたこと、広い山において傍若無人ともいえるマナガミによる厳しい規則のことを打ち明けた。マナガミという者の真面目さや、柔軟さの欠如が、醜女のみならず山の多くの者たちの反感を買っていたことを話したのだ。このように言うと、ナヅガミは目を閉じ、しばし思案するかのような沈黙を保った。そして、息を細く吸い、しっかと目を開いて言った。

「なるほど事情はわかった。一度は人間たちが手を加えた山で、故に人間の論理を用いて治安を保とうとしていたのだが、それだけではどうにも上手くいかない、ということだな」

「そのようです」

「うむ。巻物の焚き上げ後、今回のことは快復したマナガミにも進言しておこう」

 ナヅガミは巻物を召し物の内へ入れ早速とばかりに立ち上がった。しかし、まだ明らかになっていないことがあった。

「お待ちください」

 ナヅガミが振り返る。「なにか」

「わたしがあちらへ行っているあいだ、こちらではなにがあったのかお聞かせください。なぜ入ることのできない領域に、山で生きているはずの篝やギンガは入れたのですか。それに、彼らはあのあとどうなるんですか。きちんと帰って来られるのですか。注連縄を切ったそうですが、あの魔界のような場所はどうなってしまうんですか」

 ナヅガミは決まりが悪そうに向こうを向き、黙ってしまった。

「こちらを向いて、きちんと教えていただけませんか」

 もう一度強く言うと、彼は観念したように溜め息を吐き、座りなおした。

「決して、怒ることなく聞いて欲しい」

 わたしはしっかと頷いた。

 そしてナヅガミは語り始めた。


 * * *


「やっぱ心配しんぺだ」

「なにがか」

「舟渡どごな」

 言葉少なに突然そう言った篝に、私は驚いた。

「なにゆえ」

「ナヅガミさんだば知らねどもな。おれ、いづんだったがあいがさ会ったごどあるよな気いすんたもんなあ」

「まさか」

 私は彼の言葉を信じることができなかった。滅多なことではこちらと現世との境界が交わることはなく、それ故に篝が舟渡と出会うことなども考えられなかった。まして、ひとりの人間が二度同じ場に迷い込むなど信じられなかった。

「なんもな、ほんっどにうろおんべだども……。おれ、あいの小っせけ背どごべでらっだ。山んながで、なんかさ逃げるよな背どごな」

 そいでな、と篝は続けた。

「最初だば突っぱねでっけど、なんぼか舟渡ど話っこすっどな、今度こそおめどご守っでやんねばなって、そんた気持ちさなでいったった」

「なるほど」

 なにか他に思いあたることはあるのかと問うと、篝はまた、こう言ったのだ。

「おいだばなんも怖えぐねごど、舟渡だばはがはがしでな。ろぐすっぽでぎねごど頼まいでけっぱるでなんとなんど、なしてそんたがじぇねえふりごぎすっでなと思っで」

 おれな、と篝は続けた。

「おれ、ほんどだばあいのなんが、友達っつうが、なんつが、あんどぎ大事なもんどご攫ってしまったんでねがなって思うようになったっけな。そんでおれ、もしかすっどそれ返さねばねんだべがなあって」

 あまりにも取り留めない篝の言葉は、正直なところ私にもよくわからなかった。それほど彼は自分が考えていることで頭がいっぱいで、私になにかを語るというより、ほとんど独白のように感じられた。

 そして、篝がその由縁をうんうん唸っているちょうどその時、注連縄の向こうが妖しい雰囲気に包まれていることに気づいた。見ると多数の虫がざわざわと向こうから注連縄を超えてきており、どうやら舟渡が醜女に追いかけられていることを知った。

 それからのことは早かった。篝はほとんど無意識だったのか猟銃で注連縄を撃ち落とすと、無我夢中といった様子でそのなかへ入っていってしまったのだ。ギンガも立ち上がると無言で彼の後を追った。注連縄を撃ち落としたせいで境界が曖昧になり、侵入が容易になってしまったのだ。しかしいくら境界が曖昧になったところで、私が入るには躊躇われるほどの妖力が充分に立ち込めていた。彼らはそのなかへなんの憂慮も無く飛び込んだのだ。舟渡を助けたいがために。

 その後すぐに注連縄の向こうから舟渡が現れ、すぐに立ち込めていた妖力は雲散霧消した。恐らく舟渡の言う魔界とやらが再びこの世との邂逅を果たし打ち解けあったのだろう。醜女の妖力は今や山中に散らばっている。しかし、彼らは――篝やギンガや醜女は――恐らくもう同じ世には留まってはいない。一度切り離したが故に、互いの世界で力を及ぼし合うだけの世界になった、といえば理解は早いだろうか。とにかく、醜女はあちらの世界でなんらかの形を以てこちらに影響を及ぼし続け、篝やギンガがこちらへ戻ってこられる望みはどこにもなくなった。


 * * *


 ナヅガミの話は終わった。しかし、わたしが怒ることはなかった。

 恐らく何十年と篝とともにあったものだ。そして、篝が話していたわたしとの記憶。その時のことをわたしは話の途中でおぼろげながら思い出していた。

 あれはたしか四歳か五歳頃の夏の終わりのことだった。その日は共働きだった両親と友人の家へ用があって出かけていた祖母という取り合わせのため、ひとりで家の留守番をしていた。テレビを見たり、絵本など読んで時間を潰していたわたしであったが、次第につまらなくなってくる。そこでわたしは思いつきで裏山へ入ることにした。滅多に入らなかった裏山だが、ひとりで分け入るのは初めてではなかった。ひとたび入ってしまえば山と森は楽しい場所で、わたしはずんずんと奥深くへ向かってしまった。

 やがてひらけた場所に出た。草ばかりで木々が生えていない場所だった。気持ちのいい場所で、近くには沢があり小さな川も流れている。さらさらと流れるかすかな音に寝転んでみたい気もしたが、さすがに服が汚れてしまうためそのような真似はしなかった。その開けた場所の真ん中に立ち、森緑によって切り取られた青い空を見上げていた。

 しばらくすると、不意に遠くから鳴き声が聞こえてきた。赤ん坊の鳴き声のような、か細くか弱いものだった。気になってそちらへ歩いて行ってみると灰茶色の影が見えた。縮こまってふるふると震えているように見え、りすか子うさぎのようだった。怪我をしているふうにも見えたので、恐る恐る手を伸ばして触れてみた。すると、そこには――。

「あのときモッケが……」

 ここへ来た時襲ってきたモッケよりもずっと小さなそいつが、茶色い子うさぎの喉元に今まさに牙を突き立てようとしていたところだった。

「こっち見るな、食ってやるぞ」と餓鬼のような高い声で威圧され、わたしは二歩ほど後ずさりした。喋る動物だったことよりも、そのモッケの手や口が既に赤く濡れており、下手に手出ししてはいけないことを瞬時に悟ったのだった。しかし、よく見るとその子うさぎはまだ生きていて、しっかりと息もしていた。きちんと手当てすれば助かる命だった。

 葛藤はした。幼いながら勇気と恐怖がせめぎあった。たとえ小型でも犬が嫌いだった当時のわたしからしてみれば、モッケの小さいながら唸る声はまさしく獰猛な動物のもので、すっかり怖気づいてしまったのだった。しばらくそのせめぎあいは続いた。しかし、いつまでも立ち去らないわたしに対し、モッケはついに大きく吠えた。

 かつて、わたしは――大事なものを、その場に置きざりにしてしまった。

「かすかに覚えていることは、走り去る時に後ろで、怒号のような、音か……声のようなものが聞こえたことだ」

 もしかすると、それは篝が怒鳴り散らしたか、猟銃の音でモッケを退治してくれたものなのかもしれない。

 そのあとのことはもうまったく覚えていない。そこから山を降りるまでのことは覚えておらず、気づけば家のなかにいて、テレビを点けながらずっと蹲っていた。

「魔界での別れ際、たしかに篝は言った。今度はおまえが山を守れと。お前の熱意を嬉しく感じた、と」

 どうしてこんなにも、こんなにも大事な記憶を、わたしは何十年ものあいだ忘れていたのだろうか。

 それを考えて、ふと恐怖とは違う違和感を覚えたわたしは堪えきれず嗚咽を漏らした。意図せず涙が溢れ出し、引き攣った喉から上手く言葉を紡ぎ出せない。

 しばらくして、幾分落ち着いた気分から自然と出てきたのはこんな言葉だった。

「すまなかった。本当にすまなかった。本当に、ずっと……」

 この言葉を、篝に直接言いたかった。

 やがてその昂りは収まり、わたしは凪のように穏やかな心情を取り戻した。

「……ありがとう」

 そんなわたしを見守っていたナヅガミが問いかけた。

「これからどうするのだ」

 大丈夫だ、とそう思った。

「山を降りて普段の生活に戻ろうと思うよ」

 だが、そこから先は今一度考えたい。

「彼らは失くなったんじゃない」

 もうなにも恐れることはない。

「戻ってきてくれたんだよ」

 心が奮え湧くようだった。


 ナヅガミが驚き、次に笑んだ。

 そして、わたしは――。

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