第6話

 注連縄を超えた先へはひとりで行かなければならない。篝もいない、ギンガもいない、まして山神たちの庇護を受けることもままならない。完全に醜女の思うがままの領域で、もしかすると命が危ういかもしれない。

 昨晩、寝る前に篝からそう忠告されたことを胸中で反芻し、手持ちのかんしゃく玉を五個と、マナガミから託された御札を三枚、コートのポケットの上から確認した。これだけあればまずなにかあっても逃げ切れるはずだ、と出発前のナヅガミの言に僅かながら不安も軽くなる。手持ちを確認したあと、付いて来てくれた篝とギンガ、そしてナヅガミに一瞥し、しっかりと一度頷くと、わたしは昨夜のみぞれで水分を含んでたゆんでしまった注連縄を跨いだ。

 突如身体を襲ったぞわりとした奇妙な感覚に「うわ」と咄嗟に声を上げ見渡せば、既にそこは森でも山でもなかった。まして雪景色が広がる静謐な場所でもなかった。

 肌に張り付くような蒸し暑さがあり、腐葉土が嫌な刺激臭を放ち、捻じ曲がってしまったくぬぎが見受けられ、そこかしこで巨大な蜈蚣むかでや芋虫が這い、見たことのない禍々しい模様の巨大蛾や夥しい数の羽虫がぞわぞわ飛び交う――まさに魔界と形容し得る場所であった。

 あまりの世界の変わりようにもしやと思って振り向いても、もう注連縄なども消え去りどこまでも魔界の様相が広がっていた。どこから元の世界へ戻ればいいのか混乱したが、ずっと先のほうを見るとかすかな光の地平線のようなものが見え、あそこを飛び越えればいいのかもしれないと思い、ほんの少し胸を撫で下ろす。

 そして次の瞬間、足下の地面が急にむくむく動き出し思わず身を引いた。茶色い虎模様の一匹の虫が体を這い出てきたのだ。それは鶏ほどの大きさをした足の長い人面大蜘蛛で、突然のこととあまりの大きさに身構えていると、「八束脛やつかはぎ」と眠そうな渋い声で呟き、「付いてこい」と言ってのそりのそりと案外鈍い足取りで先を行き始めた。この大蜘蛛が案内役ということだろうか。わたしは注意深く彼の後ろを付いていくことにした。

 周囲の虫も八束脛も特に襲いかかってくるわけではなく、次第に心に余裕が生まれると周囲の景観に気が向くようになってきた。そうして改めてまじまじ眺めていると、ここはなにやら見覚えがあると思われ、歩きながら記憶を思い返せば、幼い頃、寺での法要で見かけた地獄絵図の内容に似ているなと感づいた。あの禍々しい絵のおかげである種のトラウマを植え付けられたに違いなく、子ども時代のわたしがどれほど心身ともに正しくあろうとしたことか。いま思えばその純情さには笑いが込み上げてくるものだが、かつてはそういうものを心から信じていたのだった。だがいまここでこうして、かつて心から信じていた恐れ場を確かに一歩一歩歩いていることにも気づき、形容し難い不思議な感覚に陥ってしまったのも事実であった。

 やがて八束脛と名乗った人面大蜘蛛がその歩をぴたりと止めた。見ると目の前の崖に巨大な穴が大口開けて構えており、奥から生温かい風がやって来て艶かしく頬を撫でた。じろじろという品定めのつもりか、あるいは本当に舐められてでもいるかのようなその湿った感触で背筋に悪寒が走るが、意識するとふっと消えて、以後はなんの感触も残らなかった。どうやらここが醜女なる者の住処らしい。

 八束脛がこちらを向き「どんぞ」とつまらなそうに言うと、そのまま地面のなかへ潜っていってしまった。ここからは本当にひとりで行かねばならないようだ。わたしは穴のなかへ一歩踏み出した。

 洞窟内は腐葉土の刺激臭が一層増し、蒸し暑さも外とは段違いとなった。天然のサウナとも呼べるほどの暑さだ。ぼんやりと浮かぶ無数の蛍の光で視界の確保は申し分ないが、季節が冬であることを考えると、なおのことこの場が異質な魔界なのだということをまざまざと感じさせてくれた。ましてここは醜女の住処である。ひとりで歩かねばならないことを考えると、気を抜くことは許されまい。

 しばらく注意深く歩いていると、不意に開けた場所に出た。目を凝らして闇を見通してみると、向こうになにか蹲った人のようなものがうっすら見えた。

 醜女――瞬時に悟ったわたしは恐る恐るその人影に近づいた。

「あの……醜女さんでしょうか」

 ぎょっとした。近くまで寄って気づいたが、その醜女という者、どうやら人間とも神様とも違う。

 縮れた白髪かと思えば、糸のように細く白い蚯蚓みみずのようなものが無数に蠢いて髪の毛となっており、垂れた前髪の合間からちらと見える目には黄金虫こがねむしがはめ込まれ、蛍の光を反射してぎらぎら輝きを放っている。眉はさながら蛾の触覚、にやにや怪しく笑う口からは蛞蝓なめくじ蝸牛かたつむりの体を用いたぬらぬらした茶色い模様の舌が見え隠れしていた。そして、繊細で見事な染め色の召し物かと思ったものは、玉虫や蝶や蛾、蜻蛉とんぼ天牛かみきりむし、そのほか名も知らぬであろう鮮やかな虫の羽で装飾された羽衣であった。

 なんとおぞましい――その感覚が足下から、それこそ虫が地からぞくぞく駆け上がってくるような悪寒が全身を駆け巡った。

「たしか、舟渡、といったかねえ」

 その舌によるものか、湿っぽく舐め回すかのような調子と酷くしわがれた声に、ひく、と一瞬喉が引きつって咄嗟に反応できなかったが、なんとか一言「はい」と答えることができた。

「なんでも知っているよ。この山のことはなんでも。さあお聞きよ。答えてあげるよ」

 一体どこから声を発しているのか――わたしは落ち着いて、すべき質問をした。

「マナガミという山神様に呪いをかけていると聞いたのですが、それは本当ですか」

「ふふ、まあそれさね。そのとおり。呪いは本当さ。ご覧よ」

 そう言うと、醜女は昆虫の脚のような茶色をした細い腕をひと振りし、目の前の中空に巻物を広げて見せた。そこには長い文章がしたためられており、確かに呪文のようだった。なんと書かれているのかはわからないが、その文字の筆致の禍々しさから推測するに、どうやらマナガミは見聞どおり呪いをかけられていたらしい。

「醜女さんはマナガミになにかされたんですか。なにかされたために、こんな復讐のようなことをしているのですか」

「それは違うね」

 醜女はその蛞蝓か蝸牛の舌でひび割れた唇をひと舐めした。銀糸の跡が妖しく輝いた。

「あいつは山の治安を守っているだろう。それが気に入らんのさ。必要でないことまで他の者らに守るよう言いつけるのが煩わしくてたまらない。この山の支配者はあたし、あたしなんだよ。あいつがしゃしゃり出ていいのは優しく諭すことだけさ……」

「しかし、マナガミが倒れてから山の治安は悪くなる一方だと篝から聞きました。それに、直接マナガミにも尋ねたところ、彼自身そのことについては承知していたと」

「ふん」

 醜女が鼻で笑うと、あの生温かい風がわたしの体を舐め回した。

「当たり前さ。強情なやり方でうまく山の治安を守れると思っているのかい。そうさね。復讐といえばそうかもね。なんてたって、あいつの山の守り方は些か人間の傲慢なやり方に似ているからね。それであいつは多くの山の者の反感を買ったのさ」

 それにねえ、と醜女は続けた。

「あたしがここにいるのもあいつがあたしを危険視してのこと。こんな場所に閉じ込めて、蒸し暑いし、腐葉土なんて環境は絶好だけれどね。年中ひっきりなしにそんなもんだから、あたしの生き方なんてなんにもできない。おかげで生活が乱れてお肌も酷い有り様さ……」

 醜女の美的感覚は置いておくとして、聞く限りでは悪いのはマナガミということになってしまう。

 マナガミが実践した山の守り方が人間に似ているとの言葉が気になったわたしは、そのことについて問いただしてみることにした。

「マナガミが行なっていた、人間に似た傲慢な方法とは」

「簡単さ。規則を定めて、守らなければ罪と称して執拗に罰を加える。そう、あんたらの世界では情状酌量とかいったかね、それすらも薄情で。マナガミは真面目で根は優しいやつだけれど、規則が絶対でそれに厳格すぎるきらいがある。そんなのが、いろんな者が住まう山で通じるはずないじゃないの」

 しかたちが草を食べ過ぎてしまうのは縄張りで暮らすことを余儀なくされ、なお増えた小じかを養うために仕方なく縄張り外に出向かなければならなくなったのであり、くまが里に降りてしまうのは、割り当てられた場所に木の実が生らなくなってしまったからだという。それでもマナガミは、自分たちが定めた場所ならば自分たちでまずなんとかするよう努力すべきだと言って憚らなかった。それぞれがこの山に住まう者として共通の良心を持って生きていたはずが、意図しないものによって引き裂かれてしまったのである。

「しかし生きる以上規則は必要だと思います。人間として、ですが」

「それは違うね。規則を厳格にし過ぎたのさ。あいつは山の安定を意識しすぎて山の者たちひとりひとりの生き方を酷く蔑ろにしてしまった。そうして端に追いやられた何者かがそれでも山のなかに踏みとどまろうとして、他の山の者たちを蹴散らしてまで、なんとか生きようともがいた。言ってしまえばそれだけのことなのさ。でもそんなの、ここじゃ窮屈。あんたら狭量な人間の論理でどうしてあたしを説得できると思ったんだい」

「それは……」

 まずい状況になってしまった。醜女の情報と、ナヅガミを筆頭に山の者たちの言わんとしていることを総括すれば、わたしが招かれた意味など自ずと判明するというものだ。つまりわたしはあちらの山神を代表してこのような無理強いを要求されたのだ。そして、その要求は中立としてではなく、紛れもなく人間の論理として説得せよとの意味を成していた。まさにその人間の論理にこそ、醜女の怒りはあったのだ。

 深い思念に頭を垂れていると、その上から強い視線を感じ、わたしは顔を上げた。そこには黄金虫の目をぎらぎらに輝かせこちらを睨みつけている醜女の姿があった。蛞蝓か蝸牛の舌をだらしなく口から垂らし、今すぐに襲いかかろうかといった様子で腰を浮かせ、身を乗り出していた。羽衣が怒りに満ちた雀蜂すずめばちの羽音のように唸っている。

 わたしは咄嗟に逃げるための方便を繰り出した。

「醜女さん、申し訳ありませんでした。わたしはただ彼らに頼まれ、なんとか話し合えないものかとここに来たばかりで、決して醜女さんを言いくるめようとしに来たわけではないのです。もし気に障ったなら謝ります。今すぐ帰ります。今度はわたしが醜女さんの意思を伝えます。ですから、どうかお見逃しください」

 なんということだろう。長いあいだこちらの都合で閉じ込めておいてのうのうとやってきては話し合えないかなどと、それすら彼女にとっては許しがたいことなど、人間であるわたしとてわかっていたはずなのに。

 許さぬ……と地の底から呪詛を唱えるがごとく響く声色がわたしの全身をぶるりと震わせた。ここにいてはいけない。すぐに踵を返し帰るのだ。帰らなければならない。これ以上ここに、山に、いてはならない。いつの間にか歯ががちがちと打ち鳴らされ、わたしは腰を抜かしていた。目の前には醜女の恐ろしい形相が迫っていた。

 万事休す――そう思われたが、コートのポケットあたりに違和感があった。御札とかんしゃく玉だった。

 とっさにくしゃくしゃの御札三枚を取り出すと、わたしはそれを醜女の顔に強く押し付けた。

「ぎゃああっ」

 水が急に蒸発するような音とともに悲鳴を上げてのたうち回る醜女。その隙に立ち上がり、わたしは先ほど現れた巻物を握り締め素早く丸めた。そしてのたうち回る醜女の近くにかんしゃく玉を二個投げつけた。立て続けに破裂したかんしゃく玉の衝撃が醜女の体を打ち付け、もがく醜女。わたしは洞窟を出て光の地平線に向かって全速力で走り出した。


 まあああああああああああああ

 てええええええええええええええええええ。


 耳元で地響きのような嗄れ声が聞こえ思わず体が竦み、その際にかんしゃく玉をひとつ落としてしまったが、振り返ってもなにも来ていなかった。諦めてくれたのか、そう安堵したが、次の瞬間また恐ろしいものが目の前に広がっていた。

 虫の大群である。黒い壁となった虫の大群がぶんぶん不愉快な音で威嚇しわたしの道を阻んでいた。しかし、この期に及んで――虫ごときで――足を止めるわけにはいかない。後ろでぱんっという音と醜女の悲鳴とともに転げ倒れる音が鳴り、いつの間にか彼女がすぐそこまで迫ってきていたことに気づいた。ままよ、とかんしゃく玉を虫の大群の下に投げ込み、駆け抜けると同時にそれを踏んづけた。一瞬だが破裂の衝撃で虫たちが吹き飛び道が開ける。わたしは切り開いた道を必死で走り抜けた。

 虫の大群の壁は抜けた。しかし後ろには硫酸でもかけられたように爛れた顔の醜女がわたしを飲み込まんばかりの気迫で追随していた。わたしの足が遅いわけではなく、醜女の足が速いわけでもなく、ただこの場では醜女の味方をする存在ばかりなのだ。泥濘ぬかるむ土、長く繁茂した草木までもが、走りにくくなるよう足に絡みついてきたのだった。

 距離はどんどん狭まってゆく。醜女の猛獣のような息遣いがすぐ後ろに聞こえる。もうすぐ目の前に光の地平線が見えるというのに、それまでにたどり着ける気がしなかった。もう駄目だ、わたしは捕まって食われてしまうのだ――そうとばかり思われて、だんだん足から力が抜けていった。

 こんなことになってしまうとは思っていなかった。興味本位で迷い込んだ場所がこんなにも恐ろしい場所だとは思ってもみなかった。くだらない正義感などに身を委ねるなどしなければよかった。死んでしまうことになると幾ばくかでもわかっていれば、篝に付いていくなどという愚かな真似などもしなかった。すべて自分が悪かったのだ。

「ああ、ああ……助けて、誰か助けて、助けてえ……」

 その時、光の地平線の近くに見慣れた輪郭の人影が見えた。

「あいだばおぎだにしょね悪りとしょりだな」

「ああ、あ」

 光の地平線の前にギンガと、中腰でしっかり猟銃を構えた篝が立っていた。入って来られない場所のはずではなかったのか。

 必死の思いで彼らの背後に回ると篝から言われた。

「注連縄切ってしまったでな。今ならまだ戻れっども、すぐこごもこわいで閉じでしまうがら、ささっとそっから帰れ」

 帰れ――そう言われたわたしは反射的に放った。

「そんな。篝さんがいればわたしだって醜女に……」

「じょさねがらまんつかんしゃく玉寄ごへ」

 言葉の中途で遮られて後ろ手を差し出されたので言われるがまま残りのそれを渡すと、彼はこちらを向いて言った。

「おいど戦っでくれるその熱意だば嬉し。ほんっどに嬉し。だども、そんたごどよりも今度はおめがちゃんど自分で自分のごど守ってげればそんだげでえった」

「え?」

 言われると、不意に堅い拳骨を作った篝に強く胸を押され後ろに大きくよろめいた。全速力で走った足ではもはや踏ん張ることもできず、わたしの体は光のなかに溶けていく。

「篝さんっ」

「おいだば心配しんぺすな! 大丈夫でじょぶだ! ――っ!」

 一瞬、篝が振り返った。笠の影できらめく精悍な瞳に、光のなかに吸い込まれるわたしの姿をしかと見た。

 光の地平線に飲まれ最後の言葉は聞こえなかった。そして、残り数個のかんしゃく玉と猟銃をしっかと握り、ギンガとともに迫り来る醜女に立ち向かっていった――その勇姿が、わたしが見た篝の最後の姿だった。

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