第5話
山小屋への帰路、ぽつりと頭に降ってきたものに気づけば、自然と歩みは速くなった。そのうち本降りになってきてしまったので一層足早に駆けようとすると篝から諫められる。
「
彼の頭の笠を手渡され、篝の頭こそ濡れないかと問うてみるも「慣えでら」と呟いた。
一応濃い紺色の頭巾をしているが、それでも濡れてしまうのは憚られてしまうらしく、少し進んでからなにかに気づいた篝が、そちらへ向かって雪の上でしばしごそごそとした後、手に持っているのは皿のような茶色いものだった。
「とぢの木の枯葉っこさ切れ目いで瓦みでに編めば笠だ」
彼はそう言って茎の部分を手に持ち掲げた。
山小屋に帰ってきてから囲炉裏に火を焼べる作業を手伝い、ようやくひと段落ついてはたと我に返ったが、自分はなんと無鉄砲な返事をしてしまったのだろうか。今にして冷静に考えれば無謀とも取れそうな要求であった。
「篝さん」
「あ?」
「その、醜女というのはどんな方なのでしょう」
あぐらを掻いていた篝は寝転がり、片肘で頭を支えた。随分と面倒くさい話のようだ。
「醜女さんだば、もうおいだどが山神さんがだよりずっと
「わからないんですか」
「んだ。この山さずうっと住んでるっけな。だどもいろいろ対処法みでのはあっで、例えばおこぜどご供えればなんとでも機嫌取れだり、はら
「では、おこぜや札を用意して交渉に臨めば、まず問題ないということですね」
「そんたふうになっかなあ。おいだば醜女さんさ見たごどもねもん。滅多に現れねし、この山さ居るもんだば会うど思って
山を支配し、他の山神すら支配してしまう神様、醜女。
そういえば、日本神話では黄泉から帰ってくる道程でイザナギノミコトのことを追いかけてきたのがヨモツシコメという者だったとぼんやり覚えている。そして彼が黄泉から逃げ帰るとき様々な道具と手段で逃げ果たせたのだ。似たような話で、人食いの鬼婆に追いかけられ、三枚の札で無事に逃げ切ることのできた小僧の話も曖昧だが思い出すことができた。そう考えると札を持って行くというのは効果があるのかもしれない。しかし、いかにこの不可思議な場所にいようとそれだけというのは心許ない気もした。必要であるならなにか他の自衛の手立てを打っておく必要もあるだろう。
「篝さん。わたしにもなにか篝さんの猟銃のような、自分の身を守るための簡単な道具や技術やなにかを教えていただけませんか」
すると、篝はじろっとわたしの顔を見て「おめみでなやめなるはんくたものさ
一体なんだとその場に茫然と取り残されたわたしは、すやすや寝息を立てているギンガを見た。ギンガは篝のああいった突飛な行動には慣れっこになっているのだろうか、と思ってしまった。篝がモッケからわたしを救い出してくれた時、篝とはだいぶ離れた場所で行動していたようだったが、もしかするとあれは強い信頼の証なのかもしれない。現に、篝が遠吠えのような声を鳴らした後、すぐに駆けつけてきたではないか。
それだけでなんとなく、わたし自身救われたような気持ちになってしまうのはなぜなのだろう。わからないが、かつてわたしもそうした不可視の、強い連帯のようなものを信じていた時があったのだろうか。今となってはバラエティ番組で笑える両親の内心などもよくわからなくなってきているのだから、そうした気持ちはまるで遠い過去を哀れむがごとくのもので、大したものではないのかもしれなかった。つまり、これは単に郷愁なのだ。そこで思い描かれる故郷の風景はもはや蜃気楼のように朧げなものばかりとなって、実質ではないに違いない。わたしは子どもではなく、両親ももう老いるばかりの身なのだ。あたたかく強靭な力強さに包まれたわたしの過去は、今や力無く萎んでいく一方なのだ。そうしていつか、見るに堪えないものとなってしまう。
「舟渡い。こいだこい」
声に気づくと篝が立っていた。手にはピンポン玉大の茶色い不格好な玉がころころ弄ばれていた。これはなにかと問うと、かんしゃく玉だ、と篝。
「子ども騙しだども、もし逃げっとぎには醜女さんさ投げつけで目ぐらましぐれにはなんべ」
「かんしゃく玉」
かつて子どもの遊び道具として有名だったとされるかんしゃく玉だが、わたしの子ども時代でそんないたずら道具は一度たりとも使った覚えはなかった。火薬で遊ぶものなどせいぜいが手で持って遊ぶ花火やねずみ花火の類だったのだ。
どうやって使うのか尋ねると、案外なんのことはなく、投げつけたり踏んづけたりして衝撃を加えれば良いだけだという。試しに外に出てひとつ思い切り踏んづけてみると、足裏に強い衝撃が伝わり、同時に「ぱあんっ」と運動会の時の号砲のような甲高い破裂音が山に響いた。休んでいた遠くの鳥が一斉に飛び立ち、やまびこして返ってくるほどの凄まじいものだった。火薬の分量が通常のものより多いのか靴の裏を見てみると少し焦げてしまっていたが、このくらいの程度なら充分すぎるとも思えた。
万が一の時はこれを醜女に投げつけるらしいが、これほどの威力のもの投げつけて撃退するというのは、いかに自らの身が危険だとしてもなんとも言えぬ複雑さが胸中に渦巻いた。ともすれば、この威力によって醜いとされる醜女の顔がさらに醜くなってしまうのではないだろうかとか、そういった通念的な配慮が身に染みてしまった。とはいえこれを投げなければ自身の身が危険に曝される場合もある、ということは念頭におかねばならない。
「ああ、ひとっつ言っとくどもな」
「はい」
「山さ住んでるもんがだ醜女さんさ近寄れねっけし、途中まではおれも付でくけど、そっから先はおめひとりで行ぐごどなっから今のうぢさ道っこ教えどぐでな」
「えっ」
ひとりで行かなければならないことを唐突に教えられ、ますます不安になってきた。確かに山に住んでいる者の間では、醜女というのは神聖過ぎてどうにも近寄り難い存在とのことだったが、それを言うならば篝も充分里や村出身の存在であるから醜女に近寄っても大丈夫なのではないだろうか。
そんなことを聞いてみると彼はあからさまに嫌なことを聞かされたという顔をして、「なんも
その後、再び山の天気が変わり太陽が頭上で燦々と照りつける頃、わたしは篝が付いて来られる途中までの道を教えてもらうことにした。そこまでの道のりは小さな谷や沢をいくつも跨ぎ、厳しい地形を避けるが故に複雑で、篝がいなければ到底遭難してしまいそうなほどのものだった。しばらくしてようやく立ち止まったのは注連縄のようなものが木から木へ結び付けられている場所で、それが森のずっと先まで張り巡らされており、どうやら醜女の存在している一帯をぐるりと囲っていることが窺えた。ここをくぐり抜けてから先は醜女の使役している生き物が案内してくれるというので大丈夫だという。ではその動物とやらはなんなのかを問うと、明日ここくぐってみればわがんべ、とつっけんどんな答えで返され、それ以上聞くことはできなかった。
「ああ、忘いでだ」
注連縄のあたりを調べていると不意に篝が言った。
「醜女さんさ効く御札っこマナガミさんさ取りに行がねばなんねな」
「マナガミさんのところへ?」
聞くと、醜女を封じ込めている手前ここからそう遠くはない場所で静養しているのだという。そして、彼がこの注連縄で区切られた空間を管轄しているということで、念のため彼の同意も取り付けておく必要があるとのことだった。
「もうちょい歩でぐげど、えっけな」
「はい。問題ありません」
頷くと篝は早速そちらの方向へ歩き始めた。わたしは注連縄から発せられる妙な気を感じながらも、調べるのをやめ篝に付いていくことにした。
時計を見て三十分ほど歩いたところにマナガミの住処らしき建物があった。ナヅガミと同様、神社や大きな山小屋のように末広がりの屋根を備えた立派な建物だった。建物の前に一歩踏み出すと、なかから現れたのは、二本足で立ち、流麗に歩き、薄桃色のたおやかな羽衣を召した白いかもしかの姿だった。その表情はどことなく人のようにも見えた。
「マナガミが来るとおっしゃっていたものですから」
「わざわざ悪りな。舟渡、ヤシャガミさんな。マナガミさん看でら」
「舟渡です」
お辞儀しながら名乗ると、かもしかのヤシャガミが目を細めた。
「お上がりなさい」
落ち着き払った流れるような動作とやわらかな口調は、さながら女性のもののようだとも思われたが、神様に性別など存在するのだろうか。そんな疑問を抱きながらもわたしは建物に入るヤシャガミの後ろを付いていった。
なかはナヅガミの住処と同様の作りで、真ん中に囲炉裏があり、奥には座敷のような空間があった。ヤシャガミはそこまで歩くと帳を開け、二言三言なかにいる者と言葉を交わす。そして、わたしたちに視線を向け、招き入れてくれた。
帳のなかには布団が敷かれ、そこに一人の巨体なくまが横たわっていた。毛はやはり白かったが、北極熊のように見た目硬そうな毛質や黄色みがかった白さではなく、端的に形容するならば「雪」とも呼べそうなそれであった。ここにきてようやく、なぜ彼らが「白客」と呼ばれているのかわかったような気がした。
「あなたがマナガミさんですか」
マナガミの傍らに正座して言うと、ゆっくりと口を開いた。
「さようだ……」
人間のわたしが見てもわかるほどにマナガミの顔は窶れきり、その声はひどく弱々しく、彼の目に本来備わっているであろう精悍さもすっかり失われてしまっているふうに感じ取れた。
「マナガミさん。わたしはあなたに呪いをかけていると言われている醜女さんに会いに行こうと思います。そこで、あなたや山の異変について醜女さんの仕業なのか否か、その真偽を尋ねに行きたいと思います。注連縄を跨いでよろしいでしょうか」
マナガミはおそらく注連縄でのわたしと篝の会話を知っていることだろう。彼は二度おもむろに瞬きして、静かに答えてくれた。
「もし醜女が我が行いに為せん方ない怒りや不満を抱えていたなら、このように伝えてくれ──どうか話し合えないか、と」
「それは、一体どのような」
「双方の均衡を欠いた思惑が、このような事態を招いているのだ」
どうやらマナガミは、伝えるべくを手短に伝えようとしているようだった。
「もともと人間たちの植林事業によって、このあたりは四座と二九山の規模となった。しかし、自然植生による山野と比べると、明らかな土壌的脆弱性が生じてしまう。自然の成り行きによって、なるべくしてなった環境ではないからだ。故に、何者かが管理せねばならない環境となってしまったのだが、本来の支配者である醜女が新たな手入れを頑なに拒み、その間にも環境は悪化するばかり。このままでは埒が明くまいと彼女を一時的に山と隔絶し、我が一存で山の者たちの生活をも規則立ったものにさせた。山の環境が戻るまでの辛抱だと己にも言い聞かせた」
ここで篝が反応した。
「だども、山さ見回り行くど荒れだ動物っこ多ぐで、なんぼごしゃでもちょこっと目え離せば戻っで来でいい加減うだでな」
いくら怒っても目を離せば戻ってきていい加減いやになる、そのように篝が言うと、マナガミは強く歯噛みした。
「反動だ。荒廃しつつある山野で生きていた者たちが、我が愚かな判断でさらに厳しい日々を生きることを、余儀なくされているのだから」
現状を改善するためにさらなる苦痛を強いられたすべての山の生き物たちの心境とは、一体如何ほどのものなのだろうか。そんなことを思うもにわかにすべてを汲み取ることはできなかった。彼らが感じているほどの不安をたった五十年ほどしか生きていないわたしが理解できるはずもないのだ。おそらく、それほどわたしの生きる世界と彼らの生きる世界は違う次元の話なのだ。
しかし、だからこそ、わたしにしかできないことがあると彼らは言ってくれた。
「マナガミさん。わたしに醜女から身を守るための御札をくださいませんか。わたしがあなたがたのお役に立てるなら、精一杯力になりたいのです」
すると、マナガミはヤシャガミに視線で合図した。ヤシャガミは頷いて一旦
受け渡しの様子を見てマナガミは瞼を固く閉じた。そして悔しそうに言った。
「できれば我が直々に向かいたい。だがこの体では、それも……」
そこでマナガミは突然目を見開き、胸のあたりを強く押さえ、喉から苦しみを搾り出すように呻き始めた。布団のなかで激しく悶えるその様は目も当てられず、危険だとヤシャガミに言われ、わたしたちは急いで帳から身を引いた。すぐにヤシャガミの呪文のような声が聞こえてきて、帳に写るマナガミの暴れる影は次第にその動きを収めていった。そして、なかから険しい表情のヤシャガミが現れた。
「このままだとマナガミの体が持たないかもしれません。とにかく明日にでも醜女のもとへ向かってくれますか」
ヤシャガミから強い切迫を感じたわたしは確かな危機感を覚え、大きく頷いた。
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