第4話

「起ぎれ」と既に身支度整えていた篝に起こされ外に出ると、強い日差しが目に飛び込んできた。葉の落ちた木々の合間から空を見上げれば、先日と打って変わった快晴のようだったが、山の天気は変わりやすい。数時間もすればやがて雨が降ってくるとわかったのは、顔を戻して山のずっと向こうの峰々の上に厚く暗い冬の雲が広がっていたからだった。

 かつて地元の小学校の山登り遠足があった時、この地域でもっとも標高の高い山に登ったことがあるのだが、出発時は快晴だったのが山の中腹あたりで突然小雨が降ってきて、難所と呼ばれる土の崖で滑り落ちて泥だらけになった記憶がある。たった四百メートルそこらの山は、子どもでも三時間あれば登れるのだ。しかしながら、そんな小さな山でも一時間そこらすれば雨がぽつぽつ降ってくるというのは、幼心にかなり不思議に感じられた。山というのは経験上、そういうものだった。

 小屋に戻り朝の軽食には干し餅を数個いただいた。幼い頃にばあが作ったり、母親が買ってきたりしたのを食べたきりだった。当時食べたものは乾燥してしまった餅を切っただけのような硬いもので、子どもながらに顎の強かったわたしでさえ食べるのを忌避するようになってしまうほどの代物だった。ところがいただいたそれはほのかに甘く、口のなかでぽろぽろと崩れるもろこしのような楽しい食感がし、記憶に残っているものとはまったく別物のように感じられた。それでもどこか懐かしい味わいがするのは、やはりそれがまごうことなく干し餅だからであろう。大きな欠片を五個も食べたあと、わたしはようやく白湯で喉を潤した。

 その後干していた靴下を履き、猟銃の手入れをしていた篝から小屋に備えていたかんじきを渡され、初めてのそれに足を通した。藁で編まれたそれは予想以上に温かかった。

 ふと、左のかんじきののなかでもぞもぞとなにかが蠢く感触を得た。足裏のわずかな隙間を這うようにして蠢くその感触は、よもやわたしの一番嫌いなものではないか。

 一瞬遅れて悪寒が背筋を駆け巡るのを感じたあと、慌ててかんじきを脱いだ。そして、履き口を逆さにして何度か叩いてみると、ぽっと雪の上に黒いものが飛び出してくる。それはすぐに体勢を立てなおし、その無数の足をせかせか動かして素早く逃げていってしまった。案の定、それは肥え太った巨大な蜈蚣むかでであった。

「ううむ」

 おそらく、蜈蚣は滅多に使われないであろうこの温かなかんじきのなかで冬を越そうと思い至ったのだろう。であれば、踏み潰さないだけまだましだったかもしれない。そう思うが、先ほどのぞわぞわした足裏の感触が全身に怖気を呼び起こさせる。

 ずっと幼い頃は好き好んで探したりもしていたのだが、いつの頃からか昆虫や虫といったものが筆舌に尽くしがたいほど苦手になってしまった。だから、たとえ靴下の上からでも虫に触れるのは躊躇われてしまうのだ。それこそ夏場の巨大蛾だとか、稲の栄養を得るため秋に大量発生する茶色い亀虫なんかは、いわば自身の天敵とも言える。自然豊富な田舎ならではの光景なのかもしれないが、ここだけが変に気がかりでしようがなかった。

 出発直前に嫌な経験をしてしまったことで幾分気分が落ち込んでしまうが、ここで猟銃の手入れを終えた篝がわたしに呼びかけてきた。

「うん。そいだばナヅガミさんどごさあべ」

「何時間くらいかかりますか」

「なんもそんなかがんねど。んだな、一、二時間ぐれだべが」

 虫の懸念はそこそこに、それを聞いて安堵した。今日ばかりは里の実家に帰らなければならないと思っていたからだ。先日は歩いている途中で両親に連絡をと思い携帯電話を取り出したのだが、運の悪いことに電波が届いていないエリアだったのだ。集落から少し離れただけで電波が届かなくなるなんてさすが田舎といったところかと、呆れと同時に感心もしてしまった。とにかく、両親に要らぬ心配をかけてはいけないから、今日ばかりは早めに帰らなくてはならない。

 篝とギンガが歩きだしたのは小屋の裏側方面、さらに山の奥深くへと分け入る方向だった。元より山中での方向感覚が無いわたしにとって、彼らの背を失うことはすなわち遭難と死の可能性を意味するが、彼らもわたしを引き連れていることを自覚しているのか、先日よりずっとゆっくりした足取りで歩いてくれているのが助かる。ときどきこちらを振り向き、呼びかければ声の届く距離を保ち、急な坂道などもわざわざ迂回した比較的ゆるやかな道を辿っていることもわかった。言葉に出さずとも気づかってくれる彼らの後ろ姿は毛皮の猛々しい羽織りものやたてがみの雄々しさも相俟り、とても頼もしいものに見えた。

 しばらく無言で歩き通し、ふと汗の滲み出る感覚とむし暑さを感じて見上げてみると、朝の位置からだいぶ高い所まで日が昇っていることに気づいた。その流れで腕時計を確認してみると既に十一時である。どうやら二時間半ほどは歩いていたらしい。篝は一時間か二時間で着くと言っていたが、少し時間が押しているのは、わたしのことを思いやっての道のりを辿っているからであろう。再び申し訳ない気になったが、おそらくあと少しで目的地に着くはずである。まずはそこまでの道のり頑張って歩こうではないか。

 そこからほんの十五分ほど経って目の前を歩く篝とギンガがふと止まった。見るとその先に神社のような、古く立派な山小屋のような、八の字然とした大らかな末広がりを携えた三角屋根の大きな木造建築があった。

 ひらひら手招きする篝のもとへすぐさま赴き、まずは「ありがとうございます」と礼を唱えておく。すると彼は照れているのか笠を目深に被りついっと視線を元に戻した。

「あいがナヅガミさんどごの家やな」

「山奥だというのに随分と立派な建物ですね」

「おいどが山ん仲間で建でだった。あっこ見でみ」

 篝が指差した方向を見ると、小さな生き物がもぞもぞと土のなかから這い出ようとしているところだった。まさかまた恐ろしい妖怪かと気構えたが、どうやらそれは杞憂らしい。ぽこっと地面から覗かせた頭はねずみかりすのように愛くるしいもので、瞼が半分閉じて実に眠たそうだった。

「においしてもんでふてどご起ぎでみだら、おんやあ、やっぱ篝さんでしたが」

「おう。起ごして悪りな」

「だどもなしたあ。ナヅガミさんどごさ来の珍しね」

 そこでその、やまね、というのがわたしのほうを見て「んん? んんん?」と怪訝な声を出してみせた。

「あいーなんとなんど、こいまだめんけわらしっこつえで来だな」

 するとそのやまね、地面から這い出てわたしのほうへ素早く駆け寄り、ちちちっと体を上って手の平に移り、ちょこんと座してじっと見つめるわたしを見つめ返してきた。そういえば、やまねというのはねずみの一種で、丸い体に細丸い尾が特徴的なかわいらしい動物だったはずだ。それにしても、めんけわらしっこと呼ばれるほどわたしは幼くはないし、どちらかというと小動物である限りめんけさはやまねのほうが上だと思うのだが、ましてわたしの手の平に収まって丸い瞳をくりくりさせるその姿は、ハムスターかなにかに似ていてなおかわいらしいではないか。思わず撫でてみれば気持ちよさそうに目を瞑り、本当にハムスターのようだった。

「篝さん、このやまねというのは」

「やまねだで。ナヅガミさん慕ってら」

 聞くところによれば、四柱の山神様の下にはさらに数匹ずつ系統的に動物が付き従うようになっており、例えばナヅガミにはやまね、マナガミにはふくろう、トツガミにはきつね、ヤシャガミにはうさぎというふうに、その他もろもろの動物たちがそれぞれの神様の保護下に置かれているとのことだった。いわば方位神や四神のようなものに違いない。そのように心得て頷くと、やまねが言った。

「ナヅガミさんだばついさっき祈祷終わったでな。入ってもいんでねが」

「んだが。だば、ささっと挨拶すべ。付で来い」

 篝に手招かれ、わたしはやまねを地に下ろした。やまねはふわっと一度大きな欠伸をし、今度は既に腰を下ろしてゆったりした様子のギンガの毛のなかに入っていった。

「はああ。やっぱギンガの毛んながあったげなあ……あいみじゃ……」

 気持ちよさそうに微睡み声を出し、玉のように丸まると、そのまますぐに寝てしまった。




 階段を上がって特に合図などもせず篝が観音扉を開けると、すぐ先に大きな影があった。大仏像でも座しているのかと思ったが、なにやら袈裟懸けを召し、相当に毛深いのが見て取れた。

「入れ」と昨日出会ったモッケよりもさらに険しく荘厳な声色が直接頭に届いたかのように聞こえ、自ずと姿勢も正される。篝は立ち膝の姿勢になって一礼すると一歩室内に足を踏み入れた。わたしもそうすべきかと思い、篝と同じ所作をしてから足を踏み入れた。入ってすぐお線香のような鼻に付く臭いが刺さり、しかしそれが厳密にはお線香などではないことがわかった。どことなく高級な煙草のような臭いではあるが、あまり好ましくはない。そして、ついにその仏像らしき影のもとまで行くと、その存在に圧倒された。まるで大河のようにその背は広く、また体躯は山のように大きかったのだ。

「ナヅガミさん。山さ迷いこだ人だ」

「舟渡、です」一礼するとその大男がこちらをゆっくりと振り向いた。「猿?」

 その姿はまごうことなく猿であった。そして、まるで高級な銀糸のような真白い毛に覆われていた。歳を取っているのか顔には皺が目立ち、目は甚だ鋭く、射殺されそうなほどであった。

「舟渡、か。平凡な名だ」

 しかし故に人の世もまたたいらだということなのだな、と意味深なことを呟き、ナヅガミは言った。

「して篝よ。今日は何故ここへ来た。その者の現世への帰参を手助けせよと言うのか」

「なもだ。挨拶だげな」

「それもよかろう」

 そう言って篝はさっさと踵を返し、背中越しに目で合図した。「せばるべ」と。

「もう帰るんですか」

「んだ。用だば挨拶だげだし」

「そうですか」

 などと素直に篝の言うことに頷いたわたしであったが、正直なところ、まだこの不可思議な空間に留まっていたかった。単に興味深いだけでなく、まだ少し冒険心のようなものが燻っていたのだ。もちろん両親に連絡せねばならないことを忘れてはいなかったが、麓にまで辿り着けば電波は復活し連絡も付くようになるのだ。それならば話は早く、まずは一旦麓に戻り、そこで両親に友人の家に少々の間お世話になるとでも方便しておけばまず問題はなかろう。

 ひとまず篝を呼び止め、わたしは携帯電話を取り出した。まさか電波などここいらにあるはずもないが、麓まで戻るのは相当骨が折れるし、また靴や靴下を濡らして歩くのも面倒であったので、まあ奇跡でも起きない限り電波を感知するなどありえないと――。

 わたしは目を疑った。携帯電話の電波が三本しっかりと立っていたのだ。三つの棒は一本も減ることなく、不安定というわけでもなかったので試しに電話帳から父親の番号にかけてみると、すぐ小気味良い音が聞こえ、そして父が電話に出た。

『おう、なした』

「あ……その、こっちを歩いてたら小学校時代の旧友に声をかけられて。少しの間こっちに泊まるつもりだけど、車、大丈夫かと思って」

『ああ。車だば大丈夫だ。軽だべ。庭いじりの肥料ももう運んであってな。しばらく大っきなものも運ばねがら』

「ああ。まあ、久しぶりだし楽しんでくるよ」

『んだが、いがった。だばまだ後で』

 たった二言三言の会話であったが、しっかり繋がって連絡が付いたことには未だ驚きの余韻も衰えず、心の内に後引いていた。ナヅガミのほうを見るとじっとわたしのことを見下ろし、それで気づいたわたしは再び携帯電話を見やった。すると、先ほどまでしっかり立っていた電波受信のマークはもはやひとつも立っておらず、強調された「圏外」という言葉が表示されているばかりであった。もしやこのナヅガミなる山神様がなにかしてくれたのではあるまいなと眉間に皺を寄せ、目を向けて問うてみると、そんなことはしていないと答えるかのように首を振るナヅガミ。不思議なこともあるものだなと彼が言うも、それ以上のことはついに問いただすことができなかった。偶然であろうと彼の為業しわざであろうと、もはや人知を超えた不思議であることに変わりはなかったのだ。

「舟渡よ。ひとつ私から頼みごとがあるのだが」

「は、はい」

 思わず篝を見れば、彼はやれやれといったふうにどっかとその場に座り込んでいた。話は長くなるらしい。そう予感してわたしも座った。

「マナガミの体調が優れず、自らの務めを果たせず寝込んでいることは篝から聞いたな」

「はい」

 ナヅガミは続けた。

「彼の不調はどうやら醜女しこめまじないをかけられているからだと、見聞役のふくろうから聞いたことがある。その醜女の呪いを解除することができれば、マナガミの体調も元に戻ると私は踏んだ。しかし、醜女は山全体を支配する異形の存在。言うなれば私たち以上に神聖で邪悪な存在であり、私たちは彼女に近づくことが許されない。現世の者は私たちよりもそうした聖邪の感知力に疎く、故に貴様ならば醜女に頼み、呪いを解いてもらえるかもしれないのだ。私が言いたいことは、貴様に醜女の元へ行き、マナガミへの呪いの有無を訊ね、そしてもしそうであるならば、彼女に事訳ことわけを問いただし、呪いを解いてもらうよう説得してはくれないだろうか、ということなのだ」

 わたしは生唾を飲んだ。神様からの頼みごとなど大変なことだと思われたからだった。

 しかし、さっさと潔く断ればよいものをどうしたものかと考えあぐね、困って篝に目をやると、彼もまた信念ある目つきをわたしに向けこうべを小さく傾けた。わたしは唖然とするほかなかった。彼の表情は笠に隠れてしまったが、どのように捉えてもあれは「おれからも頼む」という依頼の動作そのものではないだろうか。

 心のなかで頭を抱えた。わたしはただ山の実家に戻り懐古に心ゆだねようとしただけで、思いがけず妖怪などというものに襲われ、好奇心のままに篝に付いてきたまでなのだ。こんな大ごとに巻き込まれてしまうなど露とも思っていなかったし、まして神様からの願いなど、ただの人間であるわたしが叶えられるはずもない。

 しかし、そこまで考えて気づかされたのは、半信半疑ではあるがこの場にいることをわたし自身が受け入れ始めているということだった。考えてみれば人語を話す妖怪も動物も神様も、その一切が非科学的であるというのに助力を請われ、そしてその可否を真剣に考えるなど、それこそ馬鹿者の所業ではないのか。それをこうして真剣になって考えているというのは、やはりわたしはこの不思議な状況を多少なりとも馬鹿正直に受け止めたいと思っているからではないのだろうか。それに篝に対しても、まだ助けてもらったことの感謝らしい感謝はしていない。

 あにはからんや災難の場を助けられ、ゆくりなく厄難の場で助けを請われ、それが自分にできるかどうか考えるということ自体が馬鹿げていたのだ。

「……わかりました」

 堪えるように目を瞑っていたナヅガミがゆっくりと息を吸いながらその目を開き、「有難う」とそれだけ応えた。

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