第3話

 いったいどれだけ歩いたのだろうか。まるで見当がつかないが、足跡ばかり見つめていると首も痛くなってくる。仕方なく立ち止まって体を軽く捻ったり上を見上げたりして凝りをほぐすと、冬山には貴重な晴れ間が差し込んでいることに気づき、それと同時に時分にしてもう夕刻であるということがわかった。山の実家に着いたのは正午を過ぎた頃だったと思うが、と記憶を思い返してみるも、どうもはっきり思い出せない。日の沈む前に彼らの元へ辿り着かなければ遭難もありうる。わたしはその場で脚の調子を確かめ、まだしばらくは大丈夫なことを心に留め、今度は早足で歩き出した。

 道程を歩めば草木はもはや雪に覆われ緑を視界に入れることも叶わないが、家の裏山は山菜の宝庫で、子どもの頃のわたしもたまに分け入ってはミズやゼンマイ、野生のナメコやシイタケ、スギキノコといったものを手にしたことがあった。秋以外の季節は単に避暑地や遊び場としての意義しか見出していなかったし、当時からくまが麓へ降りて来るようになってきていて、山へ入ることは危険なことと言い付けられてきたから、無用な散策は一切行なっていなかったことが大きい。もしかすると冬山へ深入りするのはこれが初めてかもしれない。そう思うと冒険心に心躍る気もするが、懸念したように遭難の不安もあった。二十余年生きてきた家の裏山という身近な場所であったが、あらためて新鮮な気持ちになるほど遠い場所だったのだとも感じられた。彼らの足跡を辿りながら時たま横にも目を向けて、なにか食べられそうな山菜は無いかと視線を巡らしてみるも、冬山の厳しさには植物など葉茎を伸ばしても押しつぶされてしまうだろう。もし彼らに追いついたら手土産にしようとも思っていたが、それも叶うまい。

 日が山の向こうに落ち始め、ろうそくのように頼りない明かりしか足元に見受けられなくなった頃、ようやくわたしは足跡の向こうに灯火の橙色を見つけた。木々の合間から漏れるその光は松明と同じ明るさで、すぐ近くにある屋根だけの掘っ立て小屋のような建物をちらちら照らし出していた。ちょうど白川郷の合掌造りの屋根の部分だけで地面に建っているといったふうだ。遠目では木を組んだだけの粗末なものと思われたが、近くまで寄ってよく観察してみると、内部の壁は大量の藁で覆われているらしく、隙間から穂が飛び出しており、同様に漏れているおいしそうな煮物の匂いも鼻をくすぐった。中からは人の気配がし、わたしは戸口に立って控えめに叩いてみた。

「だいだ?」

「さっき助けてもらった舟渡です」

「ああ?」

 どたどた音が聞こえると耳をそば立てる間もなく戸が開いた。そこには毛皮の袈裟懸けと笠を脱いだ篝が立っており、奥を見やるとギンガが囲炉裏近くでゆったり寝転んでいた。

で来たじが」

「はい。足跡を追って」

 彼は目を見開いた。そして呆れか感心か、ほおと溜め息を吐いた。

「上がれじゃ」

 わたしはすっかり濡れきって気持ち悪いほどの靴と靴下を脱いでお邪魔した。建物の内部はやはりほっこり温められ、囲炉裏の周りにはたんぽが炙られ、下げられた鍋からはぐつぐつという音とともにいい匂いが漂っている。歩き通しで空いた腹が大きく鳴り、ゆったり寝転んでいたギンガがぴくっと注意を向けた。

「まんつねまってぬぐまれ。あいしかす、なすっておめつでぎだ。危ねってゆったべよ」

 彼の言う通り適当な座布団に座り足をさすった。

「好奇心のせいかもしれません」

 血流が悪くなった足は囲炉裏の近くで温まると途端に痒くなり、わたしは少々間抜けな姿勢になりながらも応えた。

「おぉたまげだ。おめみでなはんかくしぇの見だごとね」

 どうしてそんなに否定的な応答ばかりするのか問いただすと、急に篝は神妙な顔つきになった。

 いわく、このところ山の治安を守る神様の体調が悪く、それをいいことにたちの悪い妖怪や動物らが大勢悪さをしているとのことだった。影響は山のみならず麓の集落にまで及んでいるはずで、最近にあった事例だと、腹を空かせたくまが田畑を荒らし、無法者と化したにほんじかどもが山の一帯を禿山同然に食い尽くしたこともあったという。善良な妖怪や動物たちで自治をしながら山の治安を守っている状況だが、どうやら山神様の体調が良くならねば山は衰えていく一方らしい。特に、元来悪さをするたちである物の怪や妖怪らはこの状況をいいことに山の各地で自分勝手な振る舞いを繰り返しており、重々気を付けなければならず、先ほど出会ったモッケというのもそのうちの一匹なのだという。そしてそうした状況のなか、たったひとりでなんの装備も整えないまま山を歩くということが、どんなにか危険で命知らずでのうたりんな馬鹿者の行ないなのかということを、篝は本当に耳が痛くなるほどつらつらと説き深めてくれた。

 しかしむろん、そのような情報をつい先日帰郷したわたしが知っているはずもなく、まして妖怪だの神様だのよくわからない非科学的な話をどうして信じることができようか。懇切丁寧に説いてくれた篝には非常に申し訳ないことだが、話半分で聞いて流してしまったのは無理もない話だった。

 そうして時間も経つといい匂いを察知していた腹がぐうぐう連続的に鳴り始め、それがまるで化け物の嘶きのようにも聞こえたのか、とうとうギンガが立ち上がりわたしに対して牙を剥き「うううう」と唸り始めてしまった。さっさと腹に住まう妖怪を鎮めなければギンガに腹を食い破られてしまう。そんな切迫感でわたしは篝と囲炉裏の鍋をすばやく見比べ目で訴えると、彼はまた呆れた様子で口をひん曲げ、鍋の木蓋を取り外した。すると、味噌の香りをした芳醇な湯気がわたしの顔を覆い、ひときわぐうっと腹の虫が鳴いた。咄嗟に飛びかかってくるギンガ――「ギンガっ」と篝が吠えるとびくっと体を震わせすごすごとその身を下げた。

「しつけなんもなってねぐで悪りな。ごめんしてけれ」

 心臓を鎮めるため細い息を繰り返していると、お椀に鍋をよそってくれた。それはどうやらかやき鍋のようで、秋の間に備蓄しておいていたであろう山菜と、なにかの動物の肉と思しき大きな塊が所狭しと詰め込まれ煮込まれていた。

「け」

「ありがとうございます。いただきます」

 受け取った箸で椀の中身のひとつであるセリの根の束をつまんで頬張ると、非常に歯ごたえの良いしゃきしゃきした食感にセリ独特の苦味と甘みが乗せられやって来て、それだけで腹の虫が幾分か鎮まった。食品店などで売っているわけではない天然セリに舌鼓を打つと、先ほど一瞥したなにかの肉を摘んでみた。訝しながら口に含むと、少々の臭みが舌を覆った。いの肉やくま肉だったのであろう。弾力のある肉は噛めば噛むほどじわりと旨みを滲み出し、腹の虫もそれでひとまず満足したのか、ようやく鳴き止んでくれた。

 するとここで篝が、小屋の隅にあった壺から茶色いものを笹の葉に乗せて手渡してきた。そして、囲炉裏に並べていたたんぽの一本をわたしに差し出す。

「うめ具合ぐえに焼けだで。こいもけ」

 味噌は上さ乗っけてけな、と彼が言うので、言われた通りに味噌を塗りたくって先端からかぶりついた。しっかり炙られ表面にちょうどいい塩梅の焦げ目が付き、ふっくら熱々のたんぽは口に入れた途端に蓄えた熱さを発散し暴れまわるが、口のなかで転がすことでうまく冷まし、ついにひとつ奥歯で噛むとぱりっとした皮目から溢れる米のふくよかな甘味、豊かな香ばしさ、そして味噌の甘辛さが絡まり合い、至福のひとときを感じさせてくれる。

 すっかり心身満たされた心地になったわたしは深々と頭を下げた。勝手に付いてきていながら、丁重なもてなしをどうもありがとう、と。しかし篝はわたしも山の善良な者たちと同様ふと迷い込んできた客人なのだということを話してくれ、客人ならばもてなさないわけにはいかないということだった。山奥では食糧ひとつ得るのに大変な労苦を伴うであろうと自分勝手な振る舞いに申し訳なさも感じられた。

 食べ終わる頃には夜も更け、冬山の夜はもはや降りるにも危険になってしまったので、雑魚寝になってしまうが今日はここに泊まっていけと篝。少々複雑な感情を抱きながらも彼の厚意に甘えることにした。

 夕飯の後片付けをしながら、一晩火の番をしなくても済むよう、彼が手製らしい薪くべのからくりを設置しているあいだ、たったひとりここでなにをしているのかとふと問いただすと、彼は酷く怪訝な表情をしてみせた。ギンガも寝そべりながらぴくりと耳を震わせ、あまり芳しくない質問だったようだ。薪くべのからくりを設置し終え動作確認してみると、囲炉裏の薪が一定程度燃えかすとなったとき、蓄えておいた薪が数本からころと囲炉裏を滑り落ちた。塵となった燃えかすが火花となって宙に舞い、それで篝は満足したのか小さく頷くと、藁の敷物に寝そべり先ほどの問いに答えてくれた。

「山っこ守ってら」

「山を、たったひとりで」

「ギンガもな」

 あっ、とギンガを見ると大きなあくびをしていた。殊更興味がないようだった。

「最近ではひとりでこういうことをするものなんですか」

「最近がなあ。もうずっと山さ籠りっきりで外のごどなも知らねし」

 わたしもここらでの情勢などまるでわかっていない。しかし、齢六〇とも七〇とも取れそうな篝の容貌からは、「もうずっと」というのがどれほどの年月のものか測りかねた。

「失礼ですが、篝さんは一体いつからこの山に住んでいるのですか。わたし自身この山の麓で二十年ほど過ごしていたのですが、篝さんの姿は一度も見かけなかったと思います」

 とはいえ、それから二十年以上離れていたことを考慮すると、それから山に籠り始めたとしても納得がいく。

「ああ。大体三十年どが、そこらでねがな」

 やはり、と納得がいくも、様々な生活上の物資など必要なときはどうするのだろうか。

「麓へは一度も降りたことがないんですか」

「弾だばたまにしか撃だねし、まだいっぺ残ってっから麓さ補充しにぐ必要もねし。食うもんもわらびっこだのちょろぎだの採ればなんとでもなっしな」

 つまり、本当に篝は山から数十年ものあいだ降りたことがないということになる。数十年、ギンガがいるとはいえ、たったひとりで山を守ることにやるせなさや孤独感など覚えなかったのだろうか。そうは思うが、もう数十年と山を守り続けてきた身では、そのような感情もとうの昔に消え失せてしまったのに違いない。でなければ、たったの一度も麓に降りたことがないなどと、当然のことのように話すことはできまい。

 しかし、なぜひとりで住み込んでまで山を守ろうとするのだろうか。

「なぜひとりで。ほかに仲間は」

「なんも、仲間だばいねで」

「もしかして、亡くなられた、とか」

「なんもなんも。おれひとりで山さ残ったっだ。おいだば山で生まいだようなもんでし」

「そう、ですか」

 少しばかり篝に同情の念を感じ、同時に無神経な質問を立て続けに繰り出した己を恥じた。どんな人にでも探られたくないような事柄のひとつやふたつはあろう。まして初めて出会った人になぜひとりなのかを問うなど、好奇心が先行して不躾にもほどがあった。

 なにか話題を逸らせないかと考えたところで、ふと先ほど述べていた物の怪や妖怪、果ては神様というものの存在が気になったので、それについて尋ねてみた。

「ひとつ尋ねても」

「もうなんぼか尋ねられでっども」

「いや、申し訳ないです。少なくとも麓では妖怪だとか神様だとか、そういった類の存在は信じられていません。信じるにしても漫画や小説といったフィクションのなかのことです。篝さんは現にそういうものを信じてここにずっとおられるのですか」

 ほんの一瞬、「ふいくしょん?」と疑問を呈して見せたが、わたしが解説する間もなく気を取りなおし、質問に答えてくれた。

「おめえ、モッケどご見でながったじが。見だべ。しゃべっどごも」

 そう言われると沈黙で肯定せざるを得ない。確かに元実家の裏庭で小さな黒い猿のような化け物が「貴様」だとか「我に手を伸ばすとはなんたる無礼」だとか厳つい声色で言い放ち、挙げ句「食うぞ」と鋭く睨まれた。あれがすべて幻覚や幻聴なのだとしたら、決算期の多忙極まる日常生活で相当心身堪えているなと思わずにはいられない。とにかく、幻であったかもしれないという可能性がある以上、わたしはまだ妖怪や神様などといった類の存在を信じるわけにはいかなかったのだ。しかし半信半疑な様子を察したのか篝が呟いた。

「なんも信じでねえみでだし、しだら明日ナヅガミさんどごさ行くべ」

「それは神様ですか」

「んだ。この山だば一番位の高え神様には白客はっかって名前なめ付でら。ほかんどごは知らね。そのうちの一柱だ」

 山の神様に会う――突飛な物言いに思えたが、これほどまでに自分の認識が正しいか間違っているか確認する手立てもないだろう。

 篝いわく、もっとも温厚なマナガミに会わせるのがてっとり早いが、今まさに体調が優れず寝込んでいるのがその神様であり会うのが難しいとして、次点で山の季節や天候を司るナヅガミがふさわしいのだという。マナガミやナヅガミのほかに、トツガミとヤシャガミがおり、彼らはまた山の別のものを司っている神様だという。

 次から次へと知らない情報やにわかには信じ難いことが彼の口から放たれるが、囲炉裏の傍らで篝の穏やかな語りを聞いていると段々とそれが子守唄のような心地に思われた。重い瞼をなんとか持ち上げようとするも、しまいには力尽き、瞼の裏には囲炉裏の炭火の暖かい赤が見え、その揺らめきと篝の声が相俟って、とうとうわたしは意識を滑らせ暗い深淵の彼方へとふんわり落ちていったのだった。

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