第2話
昔暮らしていた実家一帯は山に囲まれており、わずかな平地には水田が敷かれ、家屋は山の麓のごく限られた位置に密集するように存在していた。また、その実家は西向きで、秋には山の向こうに沈む茜色の夕日を背にたわわに実った黄金色の稲穂が、夕風に揺られ、さやさや冷涼な音を奏で、風の落ちた場所からふわりとやわらかな波紋を描き出す様に、なんとも言えぬ幻想的な情緒を味わったものだった。その風にわたしはまた目に見えない霊的な力の作用をも想像し、まだ親の帰ってきていない家の前のささやかな庭で、ただやさしい風の向くままに幼い意識をゆだねていた。しかしながら、まだ冬。風は顔を打って突き刺さり、あのとき与えたやさしさを返せと言わんばかりに体温すら奪ってゆくのだ。
二台分を停められる車庫があった空き地に父から借りた軽トラックをぞんざいに停めると、マフラーに顔を埋めて車から降りた。案の定、風は痛いほど荒々しく顔を叩きつけた。雪は降っていなかった。鈍色の曇り空が白雪を纏った水田の上に覆いかぶさり、ここは紛れもなく東北の辺鄙な片田舎なのだということを感じさせてやまなかった。道路は少し凍りつき、路傍には凍ってしまった雪がうず高く積もっており、ここでは春の到来など遠い先の季節のように思われた。
家の前には畑があり、そこではばあがよく野菜を作っていた。春はキャベツ、夏はトマトにエンドウ豆にナス、秋はさつまいも、冬は苺と白菜といった具合に。いつだったか隣の家の小屋の脇にある枯れた用水路にうずくまった手負いのからすを見つけたとき、ばあの目をこっそり盗んでトマトやエンドウを収穫し、そのからすの目の前にすっと差し出し置いたものだったが、そのからすがどうなったのかはわからない。ただ、野菜を勝手に収穫しからすに差し出したことをばあはなぜか知っていて、それを問いただされた時わたしはなにも言えることがなかった。しかし、自分は良いことをしたのだと、決して非難されることはしていないと思っていた。飛ぶこともできぬ手負いの者を助けることはわたしにとって自明のことで、それは時として盗みより尊いことだと子どもながら漠然に感じていたのだ。夏だったので家の前に生っているびっくりグミの実を差し出すことも考えたが、家の前に生るびっくりグミは美味しいが酸っぱいことをよく知っていたので、それはやめておいたことも、よくよく覚えている。
さて、とわたしは一頻り家の周囲を見て回ってから、少し急な坂道を上った。目の前にはなにも無い単なる空間が広がっているのだが、わたしはその空虚さに唇を噛み締め、頂上に着くと、自然な流れで思い出の城址跡を見た。父の言うとおり基礎なども残されておらず、長く伸びた強靭な草木が繁茂し積もった雪を貫いてとても歩けたものではない。白い息を吐きながら視線を巡らし、ここが玄関、ここが台所、ここが仏間、ここがばあの部屋……二階のあそこにわたしの部屋、両親の部屋、物置部屋、となにも無い空間に過去の家の様子を思い浮かべた。もはやそれは透けて見え、雪が積もった裏山の光景があるだけだ。振り向くと、真っ赤だったプラスチック製のポストは雨風によって酷く色褪せほとんど真っ白な姿で朽ちようとしており、木に括りつけるためぐるぐる巻かれた針金も真っ黒く錆びていた。つまり、わたしの想像は既に過去のもので、ここでも確かに時は、着実に一歩一歩進んでいたのだった。
ふと、強風の轟音のなかに小さな甲高い呻き声を聞いた気がした。どちらの方向か見当がつかずしばらく身構えて待っていると、再びその呻き声。赤ん坊が笑っているようにも聞こえたが、恐ろしい自然の襲う時期に赤ん坊など野ざらしなわけがなく、それだけで肌がぞくり粟立った。もしも野犬や大人のきつねなんかだとしたら、自分はどうしたらいいだろうか。
――……。
また聞こえた。風に紛れてやって来る呻き声はどうやら裏庭からのものらしく、わたしは積もった雪をかき分け、そちらに向かってみることにした。赤ん坊と言わずとも、りすやうさぎやきつねの子どもが手負いあるいは母親を求めて鳴いているのだとしたら、これほどまでに悲しいこともないはずである。まだ実家で過ごしていた頃、家でひとり留守番などしていると、家の周りではしばしばりすやたぬき、きじといった山の動物が家の前に生った栗やどんぐりを目当てにうろちょろしていたものだった。されば、か弱い野生動物が鳴いていることも考えられなくはなかったのだ。雪を靴のなかに侵入させることを許しながら苦心して歩くと、ようやくかつて裏庭だった場所まで着いた。椿の木や薔薇の木や柿の木が残っており、そこばかりはまったく変わらずわたしを束の間タイムスリップした気分にさせてくれる。しかし次の瞬間には、またあの呻き声が聞こえた。だいぶ近くなったようで今度は強風に吹かれようと明瞭に聞こえてきた。あともう少しと心に決め、そちらに向かって踏み出した。
そして、しかとこの目に映った、黒く小さな影。
わたしはその影に近寄った。もぞもぞと蠢く小さな影はそれだけで赤ん坊であるという可能性を閉ざし、同時に野性動物であるということを強く主張してくれる。息は相変わらず白だが、わたしは確かにその息が湿り温かいことを感じ取った。
さらに近寄るとどうやら山うさぎかなんからしく、黒く長い毛に覆われたそいつはまさにうさぎのように縮こまってふるふる震えていた。おーい、と風音に紛れようかという小さな声量で呼びかけてみると、そいつの体が一際ぶるっと震えた。よもや人間であろうかとも思われそうな挙動にこちらが面食らってしまったが、小動物とも呼べそうなその小ささはまったく脅威ではなく、震えて動かないままのそいつを抱き抱えようと、わたしはついに手を伸ばした。
「貴様」
風に紛れてどこから聞こえてきたのは、険しい人間の声だった。しかしどこから。
「我に手を伸ばすとはなんたる無礼」
小動物が――。
威圧感か、不思議な力に弾き飛ばされたような感覚によって尻餅をついた。雪の深さに尻が埋まり、手を着いて起き上がろうにも雪のやわらかさに取られうまくいかない。よく見るとその小動物の足元には灰色の野うさぎが静かに横たわっており、体は真っ赤に濡れ瞳からは生きる輝きが失われていた。
震えていたその化け物がぴくりとこちらに向きなおった。恐らくどんな動物の様相も呈しておらず、またどんな特徴をもさやかに捉えてはいないであろう。その異形の姿に、妖怪、という言葉が咄嗟に浮かび、爬虫類か猫の特徴をした細い瞳の目をぎょろりと光らせたそいつの表情は一心不乱で血肉に飢えていた。体重が軽いのか雪の上を沈まずにじり寄って来るも――もう腰が抜けて動くに動けない。もがくうちにもじりじり距離を狭め、にたりと笑い、ぬらぬら血に濡れ怪しい光を放つ無数の細かい牙がわたしの味を愉快げに想像していた。手も足も喉も唇も、もはや恐怖に支配され、ぶるぶると身悶えするばかりでまったく思い通り動いてくれなかった。万事休すであった。
ところが、そこで遠くからがさがさと音が聞こえてきた。雪や藪を走りながらかき分けるような激しい音で、それは山のずっと向こうからだんだんこちらに近づいて来た。気づいたのは化け物も同じで、畳んでいた大きなきつねのような耳を思いきり立て、ぴくぴくレーダーのように四方八方へ向け一点の方角へ定めると、今度はその方角を向いてねずみのように小さな鼻をすんすん鳴らし始めた。この間にも音は近づいてきており、もう十歩もすれば姿を現す距離まで近づいてきていた。しかし、あと一歩というところでその音がぴたりと止み、藪の陰で息を潜める。また恐ろしい獣かなにかかと気が気でなかったが、どうやらそうではないと直感したのは目の前の化け物がわたしそっちのけで音の主を警戒し始めたからだった。体は既に音のほうに向きなおっており、陰から唐突に飛びかかってきたとしても対処できるといったふうだった。気を取られている今なら逃げられるかもしれない、そう思うが、不意に化け物がわたしを横目で睨みつけ「食うぞ」と鋭く呟き、それだけで全身が硬直し、もはや逃げる気力を失ってしまった。物陰に隠れる者は依然姿を現さず、両者とも互いの様子をつぶさに窺っているようにも感じられる長い相剋であるが、緊張感は揺らぎない。この張り詰めたなか動けずじまいで、なにが起こっているのかも判然とせず、どちらにしろ自分は食われてしまうのだとばかり、心のなかで意味不明な経を唱えるがごとく支離滅裂な辞世の句を紡ぎながら、荒い息を繰り返していた。
張り詰めた雰囲気が変わったのは目の前にいた化け物が消えるような速さで動いたからだった。消えた、と思ったら次の瞬間には腹の底から突き上げられる爆音とともにその場に小さな穴が空いた。これはなんだと考えたのち、二回目の音とともに今度は後ろ手に伸ばしたあたりに小さな衝撃が加わったのを感じ、首を捻って見るとそこにも小さな穴。弾痕のようだった。状況確認のため視線をぐるぐる差し向けると、化け物が持ち前らしい素早さを活かして物陰の主を撹乱している。素早い動きの後には必ず弾痕が残り、物陰の主が人間であることも同時に理解した。とすれば、あの化け物の動きを止めてしまえば物陰の主はあいつを上手く仕留めてくれるのではないだろうか。わたしはすっかり気の抜けた足を痛みに涙が滲むほど叩き、二、三度大きく深呼吸して全身に力を入れた。すると、まだ足が震えるもなんとか中腰になることができた。化け物が目の前に来たとき、隙を見てその無防備な体を捕まえてやるだけでいいのだ。わたしはその姿勢のまま機会を窺った。じっと観察していると、発砲されない無音の時間は銃に弾を込めているからだろうか。少しすると再び銃声が轟き、激しい動きによって荒れた息を整えていた化け物も同時に動き始めることがわかった。あの弾薬充填の時間がわたしにとってのチャンスのはずだ。必ずその時は訪れる。
幾ばくかの時間が流れ充填時間を数度経たあと、未だに両者の間は埋まらず膠着状態が続いていたが、ついに満願の一瞬が訪れた。先ほどまで背後を逃げ回っていた化け物がわたしを食おうとにじり寄った場所で息を整えたのだった。今しかない、そう思ったわたしは咄嗟に大きく踏み出して疲労で鈍いそいつを勢いよく抱き込めた。そして大きな唸り声を上げ猛禽のような鉤状の爪を腕に突き立てようともがくが、厚手のコートに阻まれている手前簡単には貫けない。小柄な体躯の割に力強い抵抗を感じるが、自分の命ならばこれまで、決死の覚悟で離すまいとこちらも力いっぱい抱き抱えた。物陰の主が様子に気づき、藪を蹴散らし姿を現すと、手に持つ長い銃の口を暴れる化け物に精確に向けた。
「おのれ」――。
問答無用で引き金を引くと、腕のなかの化け物から途端に力が抜け、と同時にわたしの緊張感もどっと抜けていった。至上の緊張と命を懸けた力比べの終焉によって脱力感もひとしおに感じたわたしは、息を整えてからようやく化け物を体から離すことができた。気づけば手の平から腕にかけて大量の血糊によって真っ赤に濡れそぼっており、まるで途方のない経験をしたと深い溜め息を吐いた。
無言で差し出されたぼろの手拭いを取り、厚意に感謝しながら血を拭き取ると、再び無言で差し出されたのは彼の手で、ぐっと握ると節くれ立ったそれ特有の硬い感触が伝わった。そのままの調子で手を支えに立ち上がり物陰の主を見ると、齢六〇代ほどの爺さんが目元に深い皺を刻んでわたしを睨みつけていた。その容貌たるや先ほどの獣の眼光と寸分違いないほどである。思わず全貌を眺めれば、被った笠には雪を薄く積もらせ、くまらしき毛皮と藁で編まれた羽織りものを召し、脛には武将の鎧のような形状の防具が覆っていた。持っている猟銃は随分古い物らしい。黒ずんでしまっている木製部分が見て取れた。
「ありがとう。助かりました」
「なあにが、助かりました、ってえ。おめ、あいつがどんな危ねっけ奴かわがって手え出したんだが」
「え、いや」
「あいつぁモッケつってな。いんづも腹へらして獣でも根っこでも食う妖怪だった。
まともにばあのきつい訛りを聞いてきた自分にとってその言葉は苦もなく理解できるものであったが、どうやらこの人は生粋の地元民らしい。しかしながら、彼のような人物など生まれてこの方見かけたことは一度もないし、いくら人語を話そうとモッケと呼ばれる妖怪などにわかには信じがたかった。
「おめ
「舟渡です」
「ふなわだりい? ふうん。おれあ、んだな……ここだば篝って呼べ」
少しの思案ののち、ここでは篝と呼べ、そう言うと篝は遠く響く遠吠えのような声で喉を鳴らした。突然何事かと思いしばらく待っていると、また遠くから雪を蹴散らし勢いよく走って来る音が聞こえてきた。そちらへ顔を向けると大きな白い影が崖の上から飛び出し、雪に埋まることなく篝の目の前で綺麗に着地した。その生き物はひと目見て真白く、大型犬とわかった。しかしながら、首周りに生えた逞しいたてがみのような体毛から察するに狼の類に見えなくもなく、さらに穿った見方をすれば、子ども時代に観た映画かなにかに出てきた巨大な犬の神様の子と言われても信じてしまいそうであった。
「相棒のギンガだ」
名前を呼びながら頭を撫でたためか、ギンガ、という名の狩猟犬が「ヲン」とひとつ吠えた。思いのほか体を震わせる雄々しい鳴き声は、山の頂でも麓でも遠吠えさえすれば、四荒八極三々五々、幾重もの峰々を飛び越え主人である篝の耳まで届くことだろう。精悍な瞳や大きな鼻はどんな悪天候や匂いの立ち込める状況でも確実に篝のことを捉えるはずで、またいかにも強靭そうな顎を具えた口は、どんな大物さえ一息に仕留めてしまいそうである。ふと自分があの大きな口と牙によって喉元を噛み付かれ、そのまま食いちぎられてしまう様を想像してしまったが、ぶるっと身震いするとわたしを見つめる精悍な瞳に朗らかな優しさが宿ったような気がした。ややもすると、そのような不埒な真似を行おうものなら自分はお前に対してこの身の脂を捧げようと言わんばかりであった。
篝は我々の交流がうまくいったことに頷きギンガの頭を軽く叩いた。それは帰りの合図らしく、篝は一度にっと笑って踵を返すと、わたしは自身が認識するより早く「待ってくれ」と声に出した。彼らは既に歩き出していたが、声に促され怪訝な表情で振り返った。
「あんな不思議な化け物は見たことがないんだ。獣の見た目でありながら人語を話す――篝は妖怪と言った。そんなのどうして信じられる。どうか詳しく教えてくれないだろうか。あの化け物はなんだ。君たちは何者だ」
彼は言わんとしていることをとっくり理解したようだった。しかし、理解と了解はまったく違う話だと、顔を背け、また背を向け、「危ねがらつでぐな」と一蹴し、わたしの願いを聞き入れてはくれなかった。
それでもわたしが食い下がらなかったのは、人語を解す化け物のことは至極もちろんのこと、それ以上にあのような化け物をごく自然の存在として受け入れている彼らその人となりにも未だ感じ得たことのない奇妙さをこの身に覚えたからだった。それに、篝の一見軽薄でそれでいて冷静な立ち振る舞いにも、わたしは今まで出会ったことのない人を感じていた。この場が、この人らを取り巻くすべてが、かつてわたしの生家があった場所にもかかわらず、まるで長い時を超えたかのようにまるきり違った場として感じられてやまなくなっていたのだった。
唇を引き締め食い下がらないわたしに踵を返し、再び歩みを始めようとしたのでわたしはまた呼びかけるが、雪深いなかをずんずんと進んでいき早くも距離を離されてしまう。無視して山を登り奥深くへと向かう篝だが、どうにも逸る好奇心を抑えきれなかったので負けじと後ろを付いていった。一歩踏み出すごとに靴のなかに雪が侵入し体温で解けるので、もう靴下も中敷きもぐずぐずに濡れきっていることだろう。痛いほどの冷たさはやがて霜焼けによる痒さとなり、今すぐ脱いで掻きむしりたい衝動にも何度か駆られたが、それは偉大な好奇心の前にはまったく無力な抵抗であった。とにかくわたしは手足その他、頬の霜焼けも振り切って、篝とギンガの足跡を辿っていったのであった。
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