第3話
次の日は朝から気温が上がり、外に出るなり肌が汗ばんだ。峰川先生はいつ甲突川沿いの公園にいるか分からない。だから、こまめに様子を見に行かなければならないと公園に向かう。
「あ……」
まだ九時だというのに、峰川先生は公園のベンチに座っていた。ぼんやりと流れが緩やかな川を見つめているが、あまり覇気があるようには見えない。
チャンスだと思ったけれど、やはりいきなり話しかけるには勇気がいる。
「せめて何か手土産を」
私は公園に背を向けて、コンビニに駆け込んだ。
コンビニの袋をぶら提げて再び公園に向かう。峰川先生はまだ同じように川を見つめていた。
「あ、あの」
私は思い切って声をかけた。柔らかな文体の小説を書く人だ。きっと、優しい人に違いない。
「なに?」
しかし、予想と反して鋭い眼光を向けられた。邪魔をされて苛立っているようにも見える。
「え、えええ、と、峰川遥先生ですよね」
「……違うよ」
私は一瞬、視線をさ迷わせたのを見逃さなかった。この人は間違いなく峰川先生だ。あまり顔を出すことは少ないが、インタビュー記事ではいつもこの顔が出ている。
「峰川先生ですよね。実は私、先生のファンなんです」
微かに峰川先生の肩が震えた。
「そうですか」
急に敬語になる峰川先生。
「隣、座ってもいいですか」
「どうぞ」
峰川先生の視線も多少和らいだ気がする。私は少し落ち着いた心でベンチに座った。
「よかったら、これ食べながら話しませんか」
買ってきたのは氷菓子。カップに入った鹿児島の有名なかき氷、しろくまだ。
飲み物にしようかと思ったけれど、ペットボトルを渡した途端に居なくなってしまうかもしれない。それに間が持たないかも。ならばと、食べるのにある程度時間がかかるしろくまにした。
「……悪いですよ」
「でも、二つも食べたらお腹を壊してしまいます」
峰川先生は仕方なくといった風に、カップを受け取った。二人で、木でできたスプーンでシャクシャクと白い練乳の氷をつつく。私はしろくまに入っている蜜柑が好きだ。甘く煮詰めてあって、甘酸っぱい味が練乳の氷と程よくマッチする。
「久しぶりに食べたな」
峰川先生はポツリとつぶやいた。
「美味しいですよね。しろくま。お店で食べるのも美味しいけれど、カップのも棒状のもあって手軽に食べられるのがいいです」
「ああ。昔、ばあちゃんがよく買ってきてくれていました」
「鹿児島出身ですものね」
そう言いながらちょっとファンだからって気持ち悪いかなと思った。それに、ほのぼのしろくま談義をしている場合じゃない。
「あの、単刀直入に言います。作家、辞めないでください」
「うん。そのことだと思いました。だけど、もう決まったことなんです」
「でも! 今回の新作は絶対にヒットします! ファンはみんな、もう大騒ぎなんです! だから、編集さんがもう出さないって言っても、絶対次も……!」
私は峰川先生の方を向いて力説する。
「違います。全くプライベートのことなんです」
プライベートと言われると、二の次が言えなくなってしまう。それにやはり峰川先生はこれ以上の傑作は書けないと思っているのかもしれない。
私は暑さでじんわりと汗ばむ手を握り込む。
「私、実は東京で働いていたんです」
峰川先生のプライベートに踏み込めなければ、自分のことを話そう。
「経理の仕事をしていたんですけれど、毎日つまらなくて灰色でした。クラブとかに誘われて行っても全然楽しめなくて」
あの頃は家と仕事場の往復だけで毎日が終わり、友達もほとんど居なくて休日でも家に閉じこもっていた。
「峰川先生に出会ったのは偶然なんです。ふらっと寄った書店で、店員さんがおすすめポップを書いていたんです。毎日が退屈だと思う人におすすめって書いてあって。ああ、私のことだなと思って買ったんです」
「もしかして、『月下の冒険』?」
「そうです、そうです! 奄美を舞台にしつつもファンタジー要素があって、児童文学のようなんですけれど、大人にもワクワクさせられました」
「そっか」
峰川先生は薄っすらと笑みを浮かべた。
「それから峰川先生の作品に夢中になって。既に出している本は全て読んで。それから、島にも遊びに行くようになったんです。どんな所か実際に見てみたくなって」
「そういえば、ファンの子が泊まりに来たって民宿で言っていたな」
思い出すように峰川先生は腕を組む。私は嬉しくなって、さらに口を動かした。
「きっと私やみーたん以外にも居ますよ。あ、みーたんっていうのは、同じ峰川先生のファンで私の友達です。で、東京じゃ島に行くにはちょっと不便なんですよね。だから、鹿児島に越してきたんです」
鹿児島に住んでいた方が離島に行きやすい。奄美大島には夜のうちに大型のフェリーで運んでくれるし、種子島にはトッピーという高速船で一時間半、屋久島なら二時間半でつく。東京からでは倍以上の時間とお金がかかってしまう。確かに転職で給料は安くなったけれど、その分物価は安い。お肉も美味しい。
福岡住まいのみーたんと一緒に行くロケ地巡りは、これまでのどんな遊びよりも楽しかった。
「私、島に行くようになって本当に良かったです。海はどこも綺麗で、ご飯は美味しいし、奄美大島のマングローブ林でカヌーを漕いだときは本当に冒険隊の隊員になった気分でした。満点の星空の下で飲むビールは本当に美味しくて、みーたんとずっと眺めていられました」
私が持つカップのしろくまの氷は溶けて白い液体になっている。それでも、止まらない。最初は辞めるのを止めるつもりだったけれど、峰川先生にお礼を伝えないといけない。そう思った。
「だから、先生。ありがとうございます。私に変わるきっかけをくれて。本当にありがとうございます」
私は峰川先生の方を振り返った。峰川先生は腕を組んだまま俯いている。
「峰川先生?」
肩が震えている。やがて、黒いシミがズボンの太ももに出来る。
「こちらこそ、ありがとうございます。ハルカのことをそんなに思ってくれて」
ハルカのことを? 自分のことを名前で呼ぶことに違和感を覚えた。
「君には話そうかな。実は自分は峰川遥ではありません」
峰川先生は目元を拭いながら、私の方を見つめた。突然のことに私は一瞬思考が止まる。
「どういう? だって、雑誌とかでは……」
間違いなく目の前の顔が載せられていた。
「本当の峰川遥は自分の妻のことなのです。彼女は恥ずかしがり屋で、メディアに出たくないからと自分が代わりに」
私はやつれた顔を見つめて、ざわざわと胸が騒めくのを感じる。そう言えば、最近は二人で散歩している姿を見かけない気がする。
「自分の妻。ハルカは二か月前に亡くなりました。彼女はとっくに筆を置いていたのです」
「そんな……」
嘘だと大声で言いたかった。けれど、それよりも熱いものが瞳にこみあげてくる。
「元々、自分たち夫婦はもっと田舎に住んでいました。そこで自分が畑作をして、彼女は執筆をして。でも、彼女に病気が見つかって大きな病院に通うために越してきたのです」
街の中心であるこの辺りは大きな病院も多い。
「妻は命を込めて、最後の作品をかき上げました。そして満足して筆を置いたのです」
「そんな……、そんなぁ」
こんなことなら、もっと早く話しかけるのだった。遠慮して話しかけずにいた自分が本当に悔やまれる。言葉にしてしまった今だから分かる。心からあふれる感謝を先生に間接的にでも伝えたかった。
「うぅ、うっ!」
私はしゃっくりを上げながら涙を流す。峰川先生の旦那さん。峰川さんは何も言わず、私が落ち着くのを待っていてくれた。
「すみません。取り乱してしまって」
「いいえ。ハルカのことを想ってくれて、ありがとうございます。それじゃ、そろそろ」
「あ、あの!」
立ちあがって去って行こうとする峰川さんを私は呼び止めた。
「何か?」
「その。失礼ですけれど、ご飯食べていますか?」
無言ということは、食べていないのだろう。そして、峰川先生はやはりすごい先生だ。作家として想像力にあふれている。
「その服、昨日も着ていましたよね。お風呂は入っていますか」
「……何が言いたいのですか」
「その。奥さんが無くなって、無気力になるのは仕方ないと思います。でも、ちゃんと生活しないと、そのままだとセルフネグレクトになってしまいますよ」
峰川さんは目を見開く。ネグレクトは峰川先生の遺作の一つのテーマでもある。
「セルフネグレクト。つまり自分で生活環境を整えられないことを言うんだったと思います。もしかしたら峰川先生は旦那さんがそうなることを予測していたのかなって」
すごく勝手な憶測だ。それでも、このままではいけないと思う。
「きっとひとりじゃない、か」
峰川さんが何を思っているかは分からない。けれど、峰川先生の優しさに触れていることは間違いなかった。
「ありがとうございます。それでは」
深々と頭を下げた峰川さんは去って行った。
私は家へ帰りながら、みーたんに説得は無理だったとだけDMを送る。
その数時間後だった。
『実は皆さんに伝えなくてはならないことがあります』
峰川遥先生のアカウントだ。峰川さんが真実を全て伝えていく。SNSは大騒ぎだったが、ほとんどが亡くなった峰川先生を悼むものだった。
その数か月後、新しいアカウントで峰川さんが情報を発信し始める。峰川先生の本の中に出てくるシーンや場所を紹介していた。
思い出と共に生きている彼はきっとハルカさんと一緒にいるのだろう。そう、思った。
了
推し作家、筆を置く 白川ちさと @thisa-s
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