【完結】私は『リーシェ』

空廼紡

私は『リーシェ』

 どうして、こうなってしまったのだろう。


 鳥の声が響く森の中、シルヴィー・オルトロスはあてもなく、さまよっていた。


 元は良いドレスだったのだろう。だが、今ではその面影もなく、泥と葉、そして垢まみれになっていた。唯一婚約者に褒められた、ケアを怠っていなかった自慢の銀髪も泥、葉、フケまみれのベタつきがある不衛生な汚い髪になってしまった。


 美しいと周りの人間に言われた美貌も、ここ五日間水以外、口に含んでいないせいか、窶れており、汚れきっていた。


 そんな姿の彼女だが、元は公爵令嬢だった。第二王子の婚約者でもあった。だが、それは全て過去の事だ。


 裏切られたのだ。濡れ衣を着せられて。


 彼女がこうなった経緯は、笑えぬ喜劇だった。


 婚約者との関係は仲睦まじい、とは言えなかったが、互いを尊重できるくらいには良好だった。


 シルヴィーは婚約者のことが好きだったが、相手はシルヴィーのことを幼なじみとしてか見てなかった。だが、それでも良かったのだ。相手の愛がなくても、夫婦としてはうまくやっていけると信じていた。


 家族関係も友人関係も悪くなかった。


 だが、それはあの日を境に徐々に崩れていった。


 婚約者がとある男爵令嬢に恋をしたのだ。辛くて悲しくて、二人の姿を逸らし続けた。


 シルヴィーは信じていたのだ。あの二人は身分が違いすぎる。大丈夫、あの人は私を選んでくれるはずだと。


 目を逸らし続けた結果、シルヴィーは罠にはまってしまっていた。


 身に覚えのない冤罪をかけられたのだ。婚約者を含む、男爵令嬢の取り巻きに。


 男爵令嬢に対する虐めをした、として、これもまた身に覚えのない証拠を突き立てられて、婚約を解消された。


 違う、と訴えた。だが、婚約者は信じてくれなかった。君には失望した、と突き放されて、男爵令嬢と婚約すると宣言したのだ。


 その後のことは何も覚えていなかった。気が付くと、馬車の中にいた。


 絶望が胸に染みていき、烈しい痛みが胸を裂いた。痛すぎて、涙すら流れない。


 信じてもらえなかった。数十年間一緒にいた婚約者よりも、あの令嬢を信じた元婚約者。


 なにが君に裏切れただ。裏切っているのはそっちじゃないか。


 屋敷に帰り、厳格な父に怒鳴られた。


 お前はなんていう事をしたんだ。

 良い子だと思っていたのに、こんな事をするような子だっただなんて。


 親にも信じてもらえなかった。シルヴィーは愕然として、父に反論できなかった。


 部屋に戻り、シルヴィーは顔を両手で覆い、大声で泣いた。


 どうして。なんで。


 幼なじみも父も信じてくれないの。私がそんなことをするわけがないって、言ってくれないの。


 悲しくて、虚しくて、憎くて。


 落ち着いても感情が浮上し、また涙が溢れての繰り返しで、シルヴィーがようやく泣きやんだのは、夜中だった。


 静けさの中、星空を虚ろな目で見上げていると、心にある想いが浮かんだ。


 もう、ここに居たくない。死にたい。


 そう思った直後の行動は早かった。

 探さないでください、と置き手紙を残し屋敷を飛び出した。


 そして、死に場所を探すうちに、五日も経っていた。



(死ぬために家を出たのに、今も生きているなんて馬鹿馬鹿しいわ)



 歩き回る気力すらなく、シルヴィーはうずくまった。

 ここで死ぬことにした。もう、死ぬ場所を探すことすら諦めてしまった。



(私はここで、一人さびしく死ぬんだわ。冤罪とはいえ、なにもかも失った私にはお似合いね)



 寒くはなかった。程良い気温は心地よい。それが救いだった。



(私にとっては悲劇でも、あの二人からしたら喜劇ね。ほんと、笑えない喜劇)



 自嘲気味に笑おうとする。だが、笑えなかった。

 もうすぐ死ねる。そっと目を閉じた時だった。



「大丈夫?」



 少女の声は聞こえたのは。


 気怠げに瞼を上げる。声をした方向に重い頭を動かすと、自分とそう歳が変わらぬ可愛らしい少女が、無垢な瞳でシルヴィーを見つめていた。


 少女の後ろにイノシシの死骸があること以外、少女の身なりは普通の市民のように思えた。



「林檎、あるけど食べる? 水もあるわよ」


 水筒を渡される。

 死ぬつもりだったのに、無意識に水筒を受け取っていた。



「飲み干してもいいわよ。もう一本あるから」



 お言葉に甘えて、水筒に入っていた水を飲み干した。一滴一滴が、からからに乾いた喉に染み渡っていく。



「ほら、林檎」



 次は林檎を渡された。いつも、使用人に剥かせていた皮ごと食べる。甘酸っぱいそれは、胃を満たしてくれた。なんと、林檎とはこうも美味しかったのか。お行儀悪く、かぶりつく。


 芯を残して完食。



「あ、の……あり、が、と」


「どういたしまして」



 少女がにっこりと笑う。



「ねえ、どうしてこんな所にいるの? 迷子?」



 少女の問いにシルヴィーは言葉に詰まった。



「うむ。訳ありか。ごめんね、いいわ」



 シルヴィーは安堵する。



「行く当てあるの?」


「ない、わ」


「ほうほう。これもなにかの縁ね」



 少女が笑みを深くし、シルヴィーの瞳を見据えた。



「ねぇ、あなた。うちで働かない?」


「え?」



 突拍子のない誘いにシルヴィーは、目を丸くする。



「住み込みで働いてもらうから、家を探す手間も省けるし、給料も休暇も保証するわ。従業員も訳ありが多いけど、悪い子ばかりじゃないから、悪い話じゃないと思うんだけど」


「え、いや」


「あ、突然のことで戸惑っている? だいじょうぶ、だいじょうーぶ! 怪しい企業じゃないわよー」



 にこにこ笑う少女に警戒する。



「……内容、は?」


「動物のお世話」


「動物?」


「うちは動物の保護活動を行っているの。虐待された犬とか猫、飼い主がいなくなって引き取り手のない犬や猫、怪我をした野生動物の治療に親を人間に殺された動物の赤ちゃんの育成、その他諸々。要は訳あり動物を、訳あり人間がお世話するお仕事」


「訳あり、人間?」


「一種の治療よ。心の治療。訳ありの皆は心に大きな傷を負ってね、それを癒すために雇っているの。訳あり人間は、たいてい人間に傷を負わされたから、人間じゃない動物と接して心を開いてくれたらなぁと。お互いの傷を舐め合っていると言われたら、否定はできないけど」



 慈善企業らしい。少女は続けて言った。



「動物は増えるけど、人間の方が増えないの。だから、あなたが来てくれたら助かるわ。動物の世話をしたことがないとしても、大丈夫よ。先輩たちは経験豊富だし、わたしもサポートする。最初は誰だって分からないものだしね」



 まあ、悪いところでもなさそうだ。それに元々死ぬ予定だった命だ。たとえ、そこが地獄だろうがどうでもよかった。


 シルヴィーは頷いた。



「ありがとう! わたしはフェンガリー。あなたは?」


「わ、たし、は……」



 名乗るのは躊躇った。素直に本名を言ったら、公爵令嬢だとばれてしまうかもしれない。

 もうあそこに戻る気なんてなかった。これからは。



「一から人生をやり直したいの?」



 心を見透かす言葉に、シルヴィーは強く頷いた。



「うむ……それなら、念のためにあなたが死んだことをアピールしないとね。あなたの周りの人があなたを探さないとは限らないから」



 そう言うとフェンガリーはナイフを取り出して、イノシシを捌きはじめた。なまぐさい肉と血をあたりにまき散らす。殺人現場、否、凶暴な野生動物に襲われたのように装っているようだった。



「あなただって分かる物は持っている?」


「こ、れ……」



 シルヴィーはペンダントを差し出した。それは、元婚約者が誕生日に贈ってくれた物だった。特注品でこの世に一つしかない。



「それを捨てる覚悟はある?」



 一瞬躊躇ったが、それを頭で払いのけてペンダントを渡す。

 フェンガリーはそれを受け取ると、猪の血をペンダントに付けて、それを放り投げた。



「あなたはここで死んだ」



 フェンガリーは不敵に笑う。



「今日からあなたは、リーシェと名乗りなさい。古い言葉で振り返らないっていう意味よ」


「リー、シェ」


「そう。リーシェ。あなたはただのリーシェ」



 ただの、リーシェ。その言葉は、貴族という壁の中で生きていたシルヴィーにとって、心が波打つものだった。嵐のように荒狂うものではなく、穏やかで包まれているように心地良いものだ。


 オルトロスでも、第二王子の元婚約者でもない。自分はただのリーシェ。


 眦から一粒の滴がこぼれ落ちる。


 この瞬間、彼女は今まで築きあげたものたちとの離別を受け入れた。



「さあ、行きましょう」



 少女がシルヴィーに手を差し出す。


 柔らかくて小さく、けれど大きくて暖かい手に触れた瞬間、彼女はリーシェとなった。





 動物愛護施設、エレスト。


 それがリーシェの新しい居場所の名だ。


 フェンガリーが言っていた通り、そこは心に傷を負った動物と人間が身を寄せ合って生きている、施設というより家のような場所だった。


 そして、動物の数に対して人員が不足していたのも事実だった。

 職員は以下の通り。


 親を目の前で殺され声を失った少女、エリィ。


 虐めが原因で人間不信になった少年、ナグ。


 母親の虐待が原因で、人に触れられるのが恐ろしい青年、シャアト。


 元兵士。戦争で片腕を無くし、毎日のように悪夢を視る老人、イグナ。


 訳ありの妖艶な美女獣医、ただし経歴は一切不明、マリア。


 エリィ、イグナ、マリアはすぐ打ち解けたが、苦戦したのはナグとシャアトだった。


 ナグは誠意を持って接したら心を開いてくれたが、シャアトとは中々打ち解けることができなかった。


 彼が心に傷を負った原因は母親のせいか、女性に対して恐怖心が拭えないらしい。同姓でも触れると怯え、女性に触れるとパニックになってしまうのだ。彼に触れるのも触れられるのも許されるのは、動物だけだった。


 幼いエリィはまだ平気だが、マリアになるとフラッシュバックが凄いのだという。


 年が近いこともあり、近寄れなくても仲良くなりたいと思ったリーシェは、付かず離れずの距離を取りながら、徐々に彼に近づいていった。


 初めは遠くから話しかけ、決して触れず、短くても言葉を交わし、それを積み重ねていった。


 努力の甲斐もあって、今はフェンガリーを除いてリーシェだけならば触れられるようになった。



(触れられるのようになったけど、私が触ると相変わらず身体がびくんってなるのよね。これは恐怖心からじゃないから別にいいけど……マリアさんに対しては、パニック状態にならないけど恐怖心があるのよね……でも、時間を掛けないといけないってフェンガリーは言っていたし)



 ちなみにフェンガリーに対しては、比較的平気である。彼女が母親の虐待から救ってくれたから、というのもあるとか。


 まだまだ先は長い、とため息をこぼすと下から、わん、と鳴き声がした。



「あ、ごめんね。遊んでいる途中だったのに」



 足元にいる三匹の犬に謝り、三匹が取って帰ってきたボールを投げる。三匹は尻尾を振りながら、ボールめがけて走っていった。


 三匹は兄弟で、元飼い主に虐待されていた。暴力を振る舞われ、その後遺症が残っている。分かりやすいのは、下半身麻痺になっている茶色の犬、マビィだ。マビィがこうして走れるのは、シャアトの懸命なリハビリと、シャアトが作ってくれた犬用の車椅子だ。


 思えば、犬用の車椅子を開発したおかげで、シャアトとの距離を縮められたのだろう。開発には、リーシェも手伝ったから。



「ふふふ……最近、シャアトのことを思い出してばっかりね」



 満更でもなさそうに微笑み、じゃれている兄弟を見守る。



「リーシェ姉ちゃん!」



 ナグの声が聞こえ、リーシェは振り返った。



「どうしたの?」


「フェンガリー姉ちゃんが、全員集合だって!」


「あら。フェンガリー、帰っていたの?」



 この施設は国の補助を受けていない。完全な個人経営だ。この施設はフェンガリーが外で稼いだ金で回っている。彼女は名の知れた冒険者らしく、ここには滅多に帰ってこない。一応館長だが、実質館長はイグナでフェンガリーは支援者に近い。



「とりあえず来て!」


「わかったわ。すぐに行くわ」



 リーシェは頷き、兄弟達も連れてナグと一緒に館長室に向かった。





 館長室には既に全員揃っていた。



「やっほー! リーシェ、久しぶり!」


「元気そうね」


「元気も元気! さて、土産話をしたいところだけど、大事な話があるからとりあえず座って」



 フェンガリーに促されて、リーシェはソファーに腰掛けているシャアトの隣に座った。ナグもリーシェの隣に座り、犬の兄弟達はソファーの隣で伏せる。



「フェンガリー。どうしたんだ? 全員を呼び出して」



 さっそく本題に入ろうと、イグナがフェンガリーに問いかける。



「本題をまず言うと」



 一拍置いて、フェンガリーは至って普通の表情を浮かべ、さらりと言いのけた。



「この施設に第二王子が視察することになったから、接待よろしく!」


「………………は?」



 あまりにも衝撃発言に、職員全員が目を丸くし、口を開いた。


 リーシェも色んな意味で硬直した。


 第二王子。つまり、元婚約者だ。



「いやさ、たまたま盗賊に襲われていた貴族がいて助けたら、第二王子の側近でして。その側近君にちょこっとここのことを話したら、えらく興味を持たれたのよ。なんでも動物が大好きとかで」



 第二王子の側近で、動物好き。おそらく、ティエールだ。幼い頃から見知っているが、友人というほどでもなかった。だが、よく猫を拾ってきては、里親を捜していると王子から聞いたことがあった。



「その側近君が王子にここのことを話して、視察するって。それで場合によっては、国認定の保護施設になるって」


「そんな旨い話があるかい」



 イグナが眉間に皺を寄せながら、吐き捨てる。



「イグナおじいちゃん、フェンガリーがそう旨い話を軽く受けるわけがないでしょ。怪しいと思ったら、王子相手でも断るわよ」



 マリアが言う。



「別に国指定の保護施設になる件については、期待していないわよ。まあ、私がいなくなった時のことも考えてはいるけれど」


「はっ! そんなほいほい死ぬタマじゃないくせに。その側近が本物っていう証拠はあるんかい」


「まあ、身分は本物だって証明するわ。登城したから。その側近が動物好きっていうのも本当よ」


「と、いうと?」


「マニアックな犬種、描種クイズしたら、見事に全問正解した」


「生粋ってことは確かね」



 マリアが呟く。



「ということで、来月の始めの朝に視察することとなったから、準備とかよろしく! あ、ここに泊まらないから安心してね」


「たく、とんだ土産話だ」



 イグナが大きく溜め息をついた。



「接待役は……リーシェはいいか」



 イグナの呟きに、リーシェの心臓が大きく高鳴った。


 会いたくない。元婚約者と、顔も見合わせたくない。


 顔を思い出すだけで、身体が竦んでしまうというのに、本物と会ったらどうなるか。倒れるかもしれないし、元婚約者が自分の顔を見て蔑む上、ここには援助しないと言い切る可能性が高い。皆にも自分の過去を知られてしまう。それは嫌だった。



「イグナ爺」



 ずっと黙っていたシャアトが、口を開く。



「リーシェよりも、マリアのほうがいいと思う」


「何故だ?」


「マリアのほうが冷静に対応できると思うし、それにあまりリーシェを表に出したくない、というか……」



 口籠もるシャアトに、イグナは軽く目を見開く。そして、ニヤニヤと笑い出した。



「ほ~う? お前もいっちょ前に、独占欲を出すようになったんかぁ。フェンガリー、王子の年齢は?」


「リーシェと同じくらいよ」


「なーるほどなぁ。たしかに歳が近いとなると、気に入られる可能性もあるわな。リーシェは美人さんだからそりゃ心配だわな。気に入られても適当にあしらうことができる、マリアが適任やな」

「お姉さん、頑張るわよ~。リーシェちゃんは裏方のほうをお願いね」


「は、はい」



 リーシェは頷きながら、内心安堵した。これで元婚約者と顔を合わすことを避けれそうだ。


 その後も会議が進み、粗方決めた後は解散となった。


 フェンガリーと擦れ違う際、フェンガリーに肩をぽんっと叩かれた。



「いい? あなたはリーシェ。だから、大丈夫」



 と、耳元で囁かれた。その言葉の意味を汲み、振り返った頃にはフェンガリーの姿はすっかり消えていた。


 リーシェは過去のことを、フェンガリーに話していない。フェンガリーのことだから、聞かなくても色々と察しているのかもしれない。フェンガリーは情報通で、とても鋭い。だからリーシェの過去を知っていても、おかしくない。それでも何も言わずここに置かしてくれるなんて、彼女はなんだかんだで心が広い。



「リーシェ、大丈夫か?」



 隣にいるシャアトが、心配げにリーシェの顔を覗き込む。リーシェは笑ってみせた。



「大丈夫。シャアト、さっきはありがとう」



 シャアトには、過去のことを話している。だから接待をリーシェに任せる、という発言に口を出してくれたのだ。



「いや……本当のことだから」


「え?」


「リーシェを王子の前に出したくないし、表にもあまり出したくないから……」



 前髪が長いせいで、目元は見えない。だが、顔を真っ赤にしているのは丸分かりだった。

 それが可愛くて、リーシェは手を伸ばして恋人の頭を撫でた。





 月始め。

 第二王子を乗せた馬車がやってきた。それを遠目で見たリーシェは、首を傾げる。



「お付の人があまりいないわね……」



 第二王子が領地を視察する際、同行したことがあるのだが、あれだけ少ない数ではなかったはずだ。



「ああ、第二王子、やらかしたからね」



 返答したのは、横に居たフェンガリーだった。



「やらかした?」


「元婚約者を冤罪で断罪したうえに、その元婚約者を死に追いやったとかで」


「え……」



 リーシェは目を瞠った。


 いつの間にか、自分の名誉が回復していた驚きと、リーシェの過去を察しているはずなのに、他人事のように教えるフェンガリーに唖然としたのだ。



「それ、本当!? ひどいわね!」



 マリアがぷんすかと怒る。



「よく廃嫡にならんかったな」


「元婚約者を嵌めた男爵令嬢を早々見限って、自分の行いを深ーく反省して、平民になることを強ーく希望したんだけど、自分の尻は自分で拭いな、ということで、結婚をしないという誓約したうえ、継承権はなくなったけど、王子として自分のせいで落ちに落ちた王家への信頼を取り戻すために奔走しているとかなんとか」


「甘くない? それ」


「王子一人で土下座祭りしているから、そこまで甘くはないんじゃない?」


「土下座祭りって……どれだけ迷惑掛けたんや」



 ああ、たしかに周りに迷惑を掛けまくっていた。心当たりがありすぎて、正確なことが上がらない。



「元婚約者を死に追いやったって、元婚約者は自殺したの?」


「探さないでください、と置き手紙を残して、屋敷を出たらしいわよ。元婚約者が冤罪と分かって行方を捜したら、その元婚約者が猛獣に襲われた痕が残っていたんだって」



 あの時の工作が、ちゃんと生かされたらしい。両親と弟には悪いが安心した。つまり、自分は完全に死んだことになっているということで、連れ戻される心配はない。



「さて、リーシェ、シャアト、ナグ。いつも通り、仕事をしてきてちょうだい」



 全員が出迎えるわけにもいかない。そろそろ動物たちの朝御飯の時間だからだ。



「分かったわ」


「私たちの分もお願いね~」


「そっちこそ、ヘマすんじゃねーぞ!」



 ナグが笑いながら去って行く。イグナは溜め息をついた。



「たく、生意気になりおって」


「いいじゃない。牙を向かれるよりか全然可愛いわよ」


「では、私たちも行きますね」


「ああ。頼んだぞ」



 遠くにある第二王子の馬車から視線を外し、リーシェはシャアトの腕を引っ張って犬舎のほうに向かった。






 視察はお昼頃には終わる。それまで描舎に籠もっていれば大丈夫だ。


 第二王子は猫アレルギーなので、ここには近寄ろうとしないだろう。第二王子は昔、猫アレルギーのせいで呼吸困難に陥ったことがあるのだ。


 第二王子が我慢して描舎に行こうとしても、フェンガリーが止めてくれるだろう。


 お昼が過ぎた頃、そろそろいいかな、と描舎を出ようと立ち上がる。


 すると、にゃあにゃあ、と子猫が寄ってきた。



「だめよ。外に出るから」



 犬舎もそうだが、猫舎も脱走防止のため、二重玄関になっている。内側の玄関で猫が扉からすり抜けて出て行っても、外側の玄関で足止めするためだ。それでも外に出ようとする子は出ようとするので、ここでの足止めが大変だ。


 仕方なく、毛糸を手に取ってコロコロと転がす。すると、子猫がそっちに向かって走って行ったので、その隙に内側の玄関を出た。猫がすり抜けて出ていないことを確認し、外側の玄関から外に出る。


 新鮮な空気が鼻腔を掠める。換気はしているのだが、それでも臭いはなかなか取れないものなのだ。


 深呼吸をしていると、声を掛けられた。



「シル、ヴィー…………?」



 呼吸が止まる。


 懐かしい声が、自分が捨てた名前を紡いでいる。


 心臓がバクバクと打ち付ける。振り返るのが、怖い。



『いい? あなたはリーシェ。だから、大丈夫』



 フェンガリーの言葉が蘇る。呼吸が戻ってきて、リーシェは瞼を閉じた。



――大丈夫



 自分に言い聞かせる。



――私は、リーシェ



 シルヴィーでもオルトロスでもない、ただのリーシェ。


 呼吸を整えてから、ゆっくりと振り返る。


 そこには、瞠目し、こちらを凝視している第二王子がいた。



(ああ……)



 思っていたよりも、動揺がなくて安堵する。声を聞いたときは、動揺したが、今は顔を見ても意外と平気だ。


 前まで、顔を思い出すだけでも怖かったのに。実際はなんてこともなかった。



(大丈夫、私は、リーシェ(振り返らない))



 魔法の言葉を口の中で呟いて、リーシェは首を傾げる。



「あの……どうかされました?」



 貴方のことは知らない風に、話しかける。あくまで初対面として、公爵令嬢として培われてきた演技力を発揮する。



「あ、いや」


「もしかして、王子様の護衛の方でしょうか? 迷われましたか?」



 護衛という格好ではないが、腰には剣を下げているし王子が一人うろちょろしている訳がないので、そう訊ねる。



「あ、ああ。そう、迷ったんだ。君はここの従業員かい?」


「はい。リーシェと申します」



 ぺこっと頭を下げる。



「そう、か……そうだな……彼女が生きているわけが……」



 この人も、シルヴィーが死んでいると思い込んでいるらしい。



「その……君は」



 王子が近付いてきた。が、王子が急に顔を顰め、大きなくしゃみをし始めた。


 ああ、そういえば猫の毛、叩いてなかった。


 そう思いながらも、リーシェはおろおろとした様子で、くしゃみを繰り返している王子に話しかける。



「あの……大丈夫ですか?」


「きみ、はっくしゅいっ! 猫くっしょい!」


「ここ、猫舎なので、猫がいますが」



 猫がいる、と聞いて王子の顔が強張った。



「す、くっしょい! 道をはっくしょい!」


「道を訊いているのですか? それでしたら、この道を真っ直ぐに行ったら、本館に行けますよ」



 この施設の敷地はとても広い。


 馬何頭もいるし、犬も駆け回らないといけないから、これくらいが妥当、とフェンガリーがどんっとこの敷地を買ったらしい。


 初めて来た人が迷ってしまうのも無理もない。



「ありがへっくしょい!」



 御礼とは言えない御礼を残し、王子は急いで本館へと走って行った。相変わらず、猫が大の苦手らしい。


 王子の姿が見えなくなり、リーシェは扉にもたれ掛かった。動揺はしてなかったものの、緊張はしていたのだ。



(大丈夫、バレていないわ)



 その場で腰を下ろし、深呼吸をする。


 どれくらいそうしたのだろうか。いきなり、頭上から声を掛けられた。



「リーシェ、大丈夫か!?」



 慌てている声色が彼のものだったから、おもむろに顔を上げる。案の定、シャアトが心配そうにリーシェの顔を窺っていた。



「大丈夫……ちょっと、安心しただけだから」


「安心……?」


「さっき、王子と会って……」



 その言葉を聞いて、シャアトの顔が青ざめていった。



「大丈夫、バレていないわ。シルヴィーが死んだって、信じ込んでいるから」



 小さく呟かれた言葉に、シャアトが安堵した表情を浮かべる。



「すごく緊張しちゃって……王子が行ったから、安心しちゃって」



 しどろもどろになりながら説明していると、そっとシャアトに抱き寄せられた。


 意外と逞しい胸板と優しい腕に包まれて、やっと肩の力が抜けた。



「頑張ったな……リーシェ」


「うん……」



 リーシェは小さく頷く。


 胸板に擦り寄ると、頭を撫でられた。


 ああ、自分の居場所はここなんだと、改めて思った。





 王子が本館に戻ると、護衛達とティエールたちに、勝手に出歩くな、と説教された。


 その様子をフェンガリーとマリアは、呆れた様子で見ていた。エリィとイグナは動物の世話に戻っていて、この場にはいない。


 一度ヘマをやらかしているのか、護衛達とティエールは王子に容赦がない。その方がいいかもしれないが。


 落ち込んでいる王子が、ふいにこちらを振り向いた。



「館長殿、一つ聞いてもいいか?」


「なんでしょう?」



 落ち込んでいる様子から一変、なにやら真剣な面持ちをした王子に首を傾げる。



「先程、リーシェという女性に会ったのだが」


「あの子がなにか?」



 と、しらばっくれる。


 リーシェと王子の間になにかあったのか知っているフェンガリーは、警戒した。それを面に出すことはしないが。



「いや、その……あの女性は、今、幸せなのだろうか、と」



 フェンガリーは目を丸くし、マリアは不思議そうに首を傾げた。他の護衛達とティエールも似たような反応をする。


 それに気付いた王子が、慌てて弁解する。



「ほ、ほら! 訳ありの人間達が従業員だと言っていたから、あの子もそうだと思うと、その、ここの従業員は今、ちゃんと幸せなのか、と!」



 わたわたとしている王子に、ティエール怪訝な顔になる。

 察したフェンガリーは、口を開いた。



「マリアは幸せかしら?」


「ええ、とてもやり甲斐があるから、私はここが好きよ。子供達もイグナ爺もそうだし、あの子達だってそうよ。皆、ここに来てよかったって言っているわ」



 心の底からの言葉に、フェンガリーは破顔する。



「ええ。皆、生き生きとしているわね。リーシェもここに来てから明るくなって、恋人も出来たし」


「こ、恋人?」


「そうですよ。しかも、その恋人、近いうちリーシェにプロポーズするらしくて」


「あら、ついに?」


「ついによ」



 フェンガリーはくすくすと笑う。


 母親の虐待から救ったあの子が、プロポーズするほど大きくなるだなんて、感慨深いものだ。

 それに、女性と結婚するだなんて大分進歩したんだな、と嬉しくなる。


 リーシェもここに来た頃は、過去を引き摺っていたのに、今はそれほど引き摺っていない。


 きっと、リーシェはこの王子のことが好きだった。けど、一方通行に過ぎなかったことだろう。だが、今は好いた男と好き同士でいる。やはり、こうでなくてはいけない、とフェンガリーは思う。



「そう、か……恋人か……」



 そう呟いて、王子が笑みを刷った。



「ここは、とても良い施設のようだ。父上に国認定の施設と認めてくれるよう、説得してみよう」


「ありがとうございます」


「至極光栄でございます」



 二人は頭を下げる。


 きっと、土下座してまでも国王を説得してみせるだろうな、と確信してフェンガリーはほくそ笑んだ。

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