小話十、引っ越し

 八月中旬、諸々の手続きも終了し、引っ越し当日になった。ボクらは朝早くに荷造りした荷物を詰め込み、引っ越し先に向かった。新居は今までいたマンションよりも駅より遠く、築年数の経ったアパート。エレベーター無しの三階建ての三階という少し足に疲労を感じそうな部屋だ。しかし、各人に部屋があるため広さはあるし、母が楽器を弾くので防音性は高いところを選んだため、騒音問題は起こりにくいと思う。

 引っ越し業者の人に手伝ってもらい搬入完了したのは丁度お昼に差し掛かるころ。そこから段ボール箱に入れた荷物と格闘開始。

 幸いボクはそもそもの荷物が少なかったため夕方ごろにはある程度荷解きは終わっていた。お昼を食べてから何もつまんでいないため二人に声をかけることにした。まずは姉の部屋を覗いてみることにした。

「姉さん、そろそろ休憩しない?」

「おー、そう、する、かァ…」

 疲れ切った声でこちらを振り返る姉さん。表情からも疲労がにじみ出ている。

 部屋は全然整頓できていなかった。そもそも手付かずの段ボール箱がまだある。ガムテープを切ってまだ中身を出していない段ボール箱の中身を不可抗力で見てしまった。男と男が抱き合っている表紙の漫画本。こんな漫画の表紙、前の姉さんの部屋で見たことがない。ボクの目につかない場所に隠してあったのだろう。見なかったことにしたい。

「あーそれかァ、もうちょい後で見せよ思うとったんやけどなァ」

 見なかったことにしたかったけれど見たことを把握されてしまった。仕方なく話題に上げる。

「姉さん、そのぉ…こういうの好きなの?」

「おう」

 愚問、とばかりに即答する姉さん。

「あ、普通にNLも好きやし、最近百合もええなと思うとる」

「なんて?」

「そのうち分かるようなるわ」

 分かりたくない。こういうのは分かりたくない。なんだか危険な香りがする。

「いや、いいや、興味ないから…」

「沼に嵌るのは一瞬やで?それに、遺伝子的にはアタシも行人もほとんど同じや。ハマるやろ」

「それは…どうかなぁ…?」

 どうすれば逃げられるだろう。そう思って後退りしている傍から姉さんが寄ってきた。

「まァ、後のお楽しみや」

 姉さんの邪悪な笑顔を見たのは初めてではないけれど、ぞっとしたのは今回が初めてかもしれない。

「あ、あとで、ね?今はとりあえず一息入れようよ…」

「せやな」

 この場で講義が始まったらどうしようと思ったがちゃんと止まってくれた。この後が怖いことには変わりないが。

 姉さんと共に母の部屋に向かうが母は部屋にいなかった。手付かずの段ボール箱が転がっているばかり。姉さんと顔を見合わせていると玄関から母が姿を見せた。

「なんや二人して」

「お母ちゃんこそどこ行ってたん?」

「ご近所さんに挨拶や。おらん人んところにはドアノブにひっかけてきた。こういうのが大事なんよ。ま、両隣と真下真上の四か所だけやけどな。声かけて行ったんやけど、気づかへんかったか?」

「うん、残念ながら」

「さよか。ま、丁度ええから茶ァしばこか?」

 雑然としたダイニングキッチンで、ペットボトルのお茶で一服。母の部屋が手つかずだったのは、母はまずこちらから取り掛かったからだったようだ。中途半端に開いた段ボール箱があちらこちらにあった。新しい環境で整っていない部屋の中、まだまだ落ち着かない。

 お菓子をつまんで作業再開となったところで母に声をかけられた。

「ちょいと手伝ってくれへんか?」

 ついていくと母の部屋で楽器の梱包を解くのを手伝わされた。梱包するのは姉さんが手伝ったらしい。と言ってもボクらが手伝ったのはキーボードだけ。アコースティックギターや三味線には専用のケースがあるのだ。梱包の必要はない。キーボードは外箱を捨ててしまったと母が言う。足を点け組み立て終わると母が早速コンセントをつなぎ、鍵盤をたたいた。音量を抑えた滑らかなメロディが鼓膜を揺らす。愛おしそうにキーボードで音を奏でる母がぽつりと言う。

「やっぱり、触りたくなってまうなァ」

 母の様子を見ていてボクは無性にスケッチをしたくなった。片付いてからと思っていたが、耐えられそうにない。

「母さん、もういい?」

「ええよ。ありがとうな」

「ん」

 ボクは自室に戻るとスケッチブックを開いた。姉さんにもらった時は新品だったのにあっという間にページが埋まってきたスケッチブック。窓を開け、外の景色に目を凝らす。固さの違う鉛筆を手探りで選んで早速描き始めた。

 まだ母が弾いている。それに合わせて姉さんが歌い始めた。キーボードの旋律だけでは分からなかったが姉さんの歌で僕も曲が分かった。合いの手を入れつつ描く。スケッチが完成する頃にはキーボードの音も姉さんの歌声も聞こえなくなっていた。

 翌日、ポストの中に「また聞かせてほしい」とだけ書かれたメモが入っていた。どこのだれか分からないけれど、このメモの主とは仲良くなれそうな気がした。

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烏は翔ける 小話 星河未途 @hoshikawa_mito

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