青は藍より出でて藍より
長尾たぐい
# 1
朝テレビのスイッチを入れると、ニュースキャスターが「おはようございます。世界の終わりまであと七日になりました」と言う。ついにあと七日になったか。
――
呼んでもいない声が脳裏を過ぎった。そうだね、じいちゃんと口の中で呟く。右腕の端末からウィンドウを呼び出した。新着メッセージ1件、差出人は父。「先ほど話は全て聞いた。兄さんの頼みを聞いてくれてありがとう。(希和が本気で兄さんに詰め寄っていて少し怖かった)おそらくそちらはあと七日に入るころだろうが、無理はしなくていい」
本当に怒った時の叔母さんの冷やかさがこちらの首筋まで冷やすようだ。一昨日、あるいは2日と六十一日前の憔悴しきった伯父の顔はさらに悪化したに違いない。
「――で、探偵の捜索は上手くいかなかったと」
連日の煩雑な手続きの上に、実父の家出というイベントでとどめを刺された伯父は、この数日で明らかに老け込んでいた。
「父さんのカプセルドックと端末の接続許可を出して、侵入していそうな
「じいちゃんのことだから、外部ログに出ないよう
空になった湯飲みに緑茶を注ぐ。湯冷ましはしていない。
「俺もそう考えて、方々に頭を下げたあげく、探偵には追加料金を払って潜ってもらうつもりでいたんだが……」
その歯切れの悪さから、伯父が訪ねてきた理由はおおよそ察せられた。
「叔母さんにバレて、そんな無駄遣いをするんじゃないとか言って怒られた? で、俺にただ働きをさせようってところかな」
「いや、勿論お前には探偵に出すのと同等の……お小遣いをあげようと思っている」
いかにも研究者らしい伯父の俊彦な顔に似つかわしくない単語に俺は思わず吹き出した。
「高校生ぶりだな、伯父さんからお小遣いもらうの。楽しみだ」
懐が温まるという一点で伯父の依頼に二つ返事で頷いてしまったが、中橋家の今の
律義に全国の天気を告げるテレビを切って、スニーカーを履いて外に出る。ニセモノの太陽が眩しい。ここはdev-0259-ccm-Wharton。あと七日で経済理論の実験が終了し、停止することが決まっている支脈、そして支脈による社会シミュレーションの基礎となる技術を開発した俺の祖父、中橋星郎の家出先だ。
端末に追加した
「探偵が言うには、父さんは決まって停止の七日前には別の支脈に移動しているらしい」
「ナノカ、ってあちらそれぞれのだよね?」
「そうだ。今いると思しき支脈は……今おおよそ削除の六か月前だな。これから準備して、明日の午後には潜ってもらえたら、あちらの流れで二か月は捜索できる」
量子を利用した計算技術と、脳をはじめとする神経回路の再現技術の発達は、それぞれ人類に多くの恩恵をもたらした。その両者を合体させた高精度かつ高速のシミュレート空間は、さまざまな社会科学理論の妥当性、あるいは施策の実効性を確認する実験場として使われている。データバンクから取った思考パタンを組み合わせてNSCを生成し、必要ならば実験に協力してくれる被験者にカプセルドックで数時間か数日横になっていてもらえれば、ある程度精度の保証された年単位の実験データが得られる。俺が今いるこの支脈上に作られた『町』には、四十万のNSCとその1%に相当するヒトの思考が蠢いている。
祖父が外側からはNSCにしか見えないようにこの都市に紛れ込んでいるなら、LRVPMで片っ端からスキャンして、祖父と一致する思考パタンを見つけるしかない。俺は『人』の移動が起きない夜の時間帯、スキャン精度を保つために時速三十キロメートル以下で体感面積八〇〇㎢の『町』をひたすら移動し、時には建物の中を上下運動してスキャンを繰り返した。住宅と工場が広がる『町』を覆う夜空はいつも溶かれた藍の色をしていた。海や川で魚を漁獲していた時代の漁師はこんな思いをしていたのだろうか。確か魚群探知機という機械があると聞いたことがある。食べられない魚の中から食べられる魚を探すのは大変な苦労だったろう。単調な夜の捜索は考え事をするには向いていた。
玄関脇に置いたスクーターのマップを表示させ、移動先を設定する。もともと目算でギリギリだった『町』巡りは案の定予定を少しはみ出てしまった。『町』の『東北部』に広がる準中山間地域。祖父の性格を考えるとここにいるとは思えなかったので、最後まで後回しにしていた。
スクーターにまたがる俺の前を、おはようございます!と元気な挨拶をしてランドセルを背負った小学生が駆けていく。反射的に挨拶を返してしまうが、未成年は被験者になれないので、当然彼らはNSCだ。彼らの家のテレビに世界の終わりを予告する挨拶は流れない。
今日のどこで祖父がこの支脈から移動してもおかしくはないし、もしこの地域から市街区へ定時的に移動するタイプのNSCに扮していた場合、ここを訪れるのは意味がないだろう。でも、市街地を闇雲にスキャンするのはもっと意味がない。半ば諦めの気持ちを持ちつつ、スクーターを発進する。ご機嫌なバナナ色のボディが日差しを元気よく反射した。温い風が頬を打つ。現実で俺の横を通りすぎつつあった夏は、ここでは今まさに迎え入れられようとしている。
遠い記憶がこちらに向かってやってくる。インクの匂いを連れて。
「夏休みの宿題くらい! すぐできるでしょう!」
寝っ転がっていた俺から写真集をひったくって、顔を真っ赤にして怒る姉ちゃんのTシャツの肩から、白い糸がぴこっと飛び出ているのがすごく気になる。
「そんなんじゃ6年生なのにまた留年して、中野の大叔父さんに『聖くんは朝日くんと一緒で梨乃さんの系統なんだね』って笑われるじゃない!」
姉ちゃんはぼろぼろと泣き出してしまった。大叔父さんにそう言われて俺はけっこう嬉しかったのに、あの時の姉ちゃんはすごく怒っていた。今度は泣いている。高校生になっても涙が出ることってあるんだ。涙の雫が畳の上で丸く光って、それからしぼんで消えた。染みが残る。それもゆっくり消える。畳の織り目ってよく見てみたことなかったな。草と草の間、影――。
「ついにお前は畳の目でも数えることにしたのか」
いきなり大きくて濃い影が落ちてきた。俺は畳についていた肘を上げて姿勢を直す。じいちゃんは行儀が悪いのが嫌いだ。
「あれ、じいちゃん、姉ちゃんは?」
「知らん。――おまえ、また宿題を放り出して
また宿題の話が出てきた。あれ、なんか腕がヒリヒリする。なんでだろう。
「よし、今から1週間以内に残りの宿題を終えられたら、本屋で好きなだけ本を買ってやろう」
「無理だよ、俺、書道と絵以外全部残ってるもん。姉ちゃんだったらすぐできるんだろうけど、姉ちゃんと俺は違う人間だってじいちゃんは知ってるでしょ」
姉ちゃんも、
「聖、7日もあったら世界がもう一つ作れるぞ」
それ、神様の事じゃなかったっけ。ああ、でもじいちゃんのこと何だったかの
「俺にとっては世界を作るより宿題の方が大変だよ」
じいちゃんは眉間にシワを作ってしまった。まずい、本格的にお説教が始まってしまうかもしれない。
「――なら、余計に挑戦し甲斐があるんじゃない?」
「……梨乃」
扉の向こうから現れたばあちゃんは、今日も刈上げたショートカットがばっちり決まっている。
「聖、まずは残りの宿題の量を7日で割って、毎日どれだけやればいいのか一緒に考えようか。で、毎日その日の分が終わったら、印刷室に入れてあげる。聖の絵でポスターを作ろう」
ばあちゃんがにっかりと笑う。やった、それって最高だ。じいちゃんがでっかい溜息をつくのが聞こえたけど、無視する。ばあちゃんが差し出した手を俺は握る。
俺はスクーターのグリップから手を離し、スタンドを立てる。手動車道脇の木漏れ日の落ちる石段に腰を下ろした。思っていたより低い温度を尻に感じる。両脇にある石柱の「神社」の上に彫られている文字は読めなかった。そもそも読めないものなのかもしれないけれど。
市街地からスクーターを走らせること二十分。そのあと三つの地区を巡ってスキャンをするのにかかった時間、四時間半。現在昼の十一時。もし代謝のモックを設定していたら、山間とはいえ夏場の昼間に設定された空間をこうも動けなかったと思う。残りの数、一三七二。不自然な減少はなし。残りはあと一地区だ。望みがいよいよ薄くなってきていることを自覚すると、知らず知らずのうちに視線は下がる。ブロロ、と車が手動車道を通り、生温かい風が前髪を持ち上げた。蝉のじーつくじーつという聲に身体が覆われているようだ。蝉が鳴いているなら、足元を蟻が歩いていやしないかと思ったけれど、足元に命の気配はない。ひょっとしたら蝉の声は設定された環境音なのかもしれない。身体と大気の境界が分からなくなってきた。――身体、ってどの? どれだろう。
「おおい、兄ちゃん大丈夫か」
顔を上げると、ランニングシャツに半ズボン姿の老爺が心配そうにこちらをのぞき込んでいた。肩の向こうに、軽トラが見える。さっき横を通った音の主かもしれない。これでも飲みなさい、と差し出された青いラベルのスポーツドリンクを口に運びかけたところでふと気づく。代謝のモックがない場合に、飲食物は摂ってよかったんだっけ? 不自然に動きを止めた俺に、老爺は新品だから怪しいものではない、と優しく声をかける。ええと、とLRVPMのスキャン結果をのぞく。彼はヒトだ。NSCじゃない。
「あの、お気遣いありがとうございます。でも、僕、外から入って来てて、ここで飲み食いしていい設定がされているか分からないので、これお返しします」
体調が悪いわけじゃなくて、ちょっとぼんやりしてただけで、と努めて笑顔を浮かべる。仕事柄そういう切り替えは得意だ。
「あれ、じゃあ兄ちゃんは大学の人かね。こんな終わりがけにまで潜りに来るとはご苦労さん」
実験の管理者と思われているようだが、まさかこんなところで尋ね人をしているとは言えるわけもなく、ええ、まあ、と曖昧に返事をする。
「そんなに暑い日じゃないとは言え、熱中症にでもなっとるんかと心配して車止めたが、具合が悪いわけじゃなくってなにより」
「いや、今日かなり暑い日だとは思いますが……」
今日の『町』の予想最高気温は三十三度、真夏日になると朝のニュースで言っていた。午前中なのでまだそれには達していないにせよ、近い温度にはなっているはずだ。
「すまんね、年寄りはつい昔と比べてしまうもんで。俺の若い時分、夏場は40度を超えるのが当たり前だったからなあ」
大気工学さまさまだあ、とカラカラ笑うのを見るに、おそらく祖父と同年代なのだろう。これぐらいの年代の被験者がいても別におかしくはない。しかし、俺の視線に何か感じ取るものが老爺にはあったようだ。
「これが気になるか。大学にいるような若い子にとっちゃあそこそこ珍しいだろう」
老爺は朗らかに自分の頭を指す。そこには申し訳程度の白髪しかなかった。
「いえ、僕の祖母もそうで……」
「ありゃあ、女性でか。じゃあ早く立派になってばあちゃんを綺麗にしてやんなさい」
疲れは感じなくても無理をしないように、と言い残して去っていく老爺を見送る。荷台に積まれた泥まみれの農機具が、遠ざかりながら鈍く光った。
祖母の老いた外見は経済的な問題ではなかった。彼女は80半ばを越えて仕事の引退を宣言するとともに、積極的な若化措置を取らなくなった。
「最近、視野がけっこう欠けてきた気がする」
高校に入った年の夏休み、ふたりで縁側に腰掛けてスイカを齧っていた時だった。
「……それ、俺以外の誰かに言った?」
「いいや」
ばあちゃんはきっぱりとそう返した。これからは身だしなみを無理に整える必要はないから、毛髪も皮膚も再生細胞は入れない、身体の機能は困ったら治療をする、と宣言をして、前者はともかく後者はこれまで通り適切な若化措置を受けてくれ、と懇願した子や孫を「わたしの勝手でしょ」と一蹴しただけはある。世の中には「道理に合わない」と若化措置を受けられる経済状況にも関わらず、それを拒否するヒトは一定数いる。けれど――。
「ばあちゃん、楽しんでるでしょう」
「ばれた?」
屈託のない笑顔が返ってきた。水晶体はレンズへの入れ替えが済んでるから、薬を止めた方で緑内障が出てきたのもね、と肩をすくめる。
「俺、父さんに告げ口するかもよ」
「朝日もけっこう反対していたから、それは止めて欲しいかな」
言ってみただけだよ、と返しながら、若化措置を止めるデメリットを列挙する伯父とともに、仕事は辞めても刷ることは止めないのだろう、若化措置を止めて感覚を鈍らせたら影響が出てしまう、と説得を試みる父の姿を思い出す。
「普段から『五感を使って藍と向き合うことが大切なんです』とか言ってるんだから、鈍った感覚から何が得られるのか興味をもってもいいと思うんだけど」
次のスイカを手に取って陽に翳す。今はあまり雲が出ていない。突き抜けるように澄んだ空には父さんの藍染めとは違った種類の青さが広がる。瞬きの間に変わりゆくものが持つ色だ。
「朝日はようやく自分の感覚を見つけられたところだから、それを失うのは怖ろしいんだろう」
ふうん、と相槌を打ちながら齧りついたスイカは甘かった。綺麗に歯形が残る。その縁はわずかにその赤さを失っているようだった。きっと色素は均等に果肉に散らばっているはずなのに。
「俺は気になるな。10年後、50年後の俺にはどんな風に世界が感じられるのか」
ばあちゃんの少し欠け始めた視野では、この穏やかな丘陵地帯に広がる強烈な夏の日はどんな風に見えるんだろうか。
「それは、あんたが年をとってのお楽しみ」
長生きしないといけないな、と思いながらもう一度スイカを齧る。種を遠慮なく庭に吹き飛ばす。思ったより飛距離は伸びなかった。
「ばあちゃんは、なんで印刷の仕事をやめたの」
「仕事だから」
即答だった。首をかしげる俺を見てばあちゃんは笑った。
「わたしに求められるものを刷れる――いや、それより一歩先をいける若いのが育ってきたのに、わたしがその仕事を請ける理由がない」
「仕事を依頼してくる人は、ばあちゃんの変化を必要としていない?」
ばあちゃんは大きな口を開けてスイカにかぶりつき、ゆっくりと咀嚼した。
「『橋本梨乃』に仕事を依頼するヒトはそう。でも、それが『橋本梨乃』の役割だから、間違ってはいない。――だけど、朝日の変化を歓迎する人は結構いるだろうね。私も見てみたい。あの子の今の染めも好きだけど」
「俺は、今のばあちゃんの刷ったものも見てみたいよ」
ばあちゃんは心底嬉しそうな顔をした。
「いいよ。今の聖が感じたものを、わたしがどう感じるか見せてあげる」
俺も嬉しくなって頷く。後でスイカの絵を描こう。
食べ終わったスイカの皮が載った皿を、ばあちゃんは引き上げようとした。膝に手をあてて立ち上がろうとする姿を見逃さなかったので、片づけを請け負う。水道水の温さと流れる音が心地よい。夏休みは始まったばかりだ。
じょろじょろと、道脇の用水路から落水の音が聞こえる。青々と伸びた稲が楽しげにざわざわと噂話に興じている。やや傾斜のついた手動車道を時速四十五キロで軽快にスクーターは上る。すでに最後の地区に入った。坂を上り切った先には小学校と中学校があり、そこから少し離れたところに比較的人口が密集した字がある。学校に立ち寄るべきかは迷うところだ。
はじめは、いくら家族への迷惑を省みない祖父とは言え、侵入先での実験に影響が出るような行動はしないだろうから、周辺との交流を抑えた高齢単身者設定のNSCとして市街地で暮らしているだろう、という予想をしていた。
結果としてその予想は外れた。この地域までスクーターを走らせながら、もし、本当に祖父がこの地域にいるのなら、経済活動・社会活動に及ぼす影響がもっと小さい存在である可能性があるのでは、と俺は薄々考え始めていた。――例えば、子供とか。
今の時刻は、十二時過ぎ。給食と昼休みの時間だ。俺はスクーターのアクセルグリップを強く握りこむ。
たどり着いた校舎と校庭は、マップから想像したものより小さかった。人口規模を考えれば妥当ではある。外周を回るだけで二階建ての校舎内はなんとかスキャンできるかもしれない。校庭では遊具の周りと、グラウンド部分にいくつかのグループが散らばって遊んでいる。支脈内で犯罪行為を行った場合、法的にはどういう扱いを受けるんだっけ、とほのかな不安を抱きながら、スクーターを置いて敷地に踏み込む。缶蹴りをする一団のなかで、背の高く髪の短い女の子に目が行く。彼女がこちらを見た。LRVPMが小さなアラート音を出す。
RGB、0・0・255の缶が宙を舞った。
「――しばらく放っておいてくれ、とカプセルポッドに貼っておいただろう。俺はこの支脈が終わったら戻るつもりでいたんだ」
「伯父さんに頼まれちゃったから。子・孫の中で、今のところ確実に土日が暇なのは俺だけだし」
「休日は大人しく休んでおけ」
この年頃特有のつるつるのおでこの下、眉間の皺がさらに深くなった。甥や姪にするように小突いてやりたくなったが、すんでのところで思いとどまる。
「いや、流石にあのやつれ具合の伯父さんの頼みを断るほどの人でなしじゃないから、俺。口には出さなかったけど、支脈をめちゃくちゃに渡り歩いて過度な負荷を脳にかけて、ばあちゃんの後追いをするんじゃないか心配してるのが見え見えだった。あと単純に、その年齢でポッドに1週間以上入ってるのは、ちょっと健康的に問題があると俺も思う」
心底馬鹿にしきった目でこちらを見る祖父。見た目が可愛らしい年頃のため、心が痛い。
「俺にはさしあたって今月末締め切りの査読依頼が1つある」
そうですか、と目を細める。当然伯父は知らないだろう。
「それに、今更健康に多少の影響が出たところでそれは誤差の範囲だ」
足元の砂を蹴り上げる仕草は、今の姿によく似合っていた。遠くからまわれまわれー! と盛大なコールが聞こえる。野球をしていたグループに良いヒットが出たらしい。校庭の隅、俺たちが座っている半分にカットされたタイヤでできた飛び石の周りに、子供の姿はない。
「間接的に後追いしたかったの? 違うでしょう」
そこまでしおらしい人間ではないことは、32年この人の孫をやっていれば分かる。70年以上息子をやっている伯父には少し難しかったようだけど。フン、と鼻を鳴らして、祖父はしばし沈黙した。それを埋めるように盛大な歓声がこちらに届く。ランニングホームランでもしたのかもしれない。
「……『あなたは、結局わたしの感性とは違うところにいる人間だったね』と遺書にあった」
眉間の皺はもはや渓谷と呼べるような代物になっていた。口がへの字に曲がる。ちょっと機嫌を損ねたときの祖母の横顔が脳裏に浮かんで消えた。
「要するに、そんなことをよりによって遺書に書かれてちょっとムカついたから、ばあちゃんの人生に近い体験をして、そんなこと言われても俺は俺だ! って証明してやろうと思ったと」
返事は返ってこない。この支脈が最後だと言っていたから、年齢を遡るようにしていたのかもしれない。いじらしいと言えばいいのか、頑固だと呆れ返ればいいのか。
「……じいちゃんのおかげで7日もあれば多分世界は作れるし、1週間も支脈に潜ってたら一生のサイクル分の時間を体験できるようになったけど、何かを得るための方法は加算だけじゃないと俺は思うんだ」
こちらを見つめる少女の水晶体は澄んでいる。祖父の魂もきっとそうだ。あの人は形の取らない論理の積み重ねの上に立って世界を見ているからね、わたしとはまるで正反対、と呟く祖母がそれでも幸福そうにしていた理由が俺には分かる。
「生まれてから今まで、何かを得たり、得られなかったり、失ったりした、その全部がばあちゃんの感覚を作ってるんだよ」
遊具の近くで追いかけっこをしていた子供のひとりが転んだ。痛みをこらえて立ち上がる。脇にいた何人かが手を貸して水道まで移動するようだ。
「……そんなことは分かっている」
俺は笑った。そうだと思った。若化措置を止める、といった祖母に祖父は何の異も唱えず、お前の好きにしたらいい、とだけ言った。だから、祖父がここにいるのは、もう永遠に近づけなくなった妻の感覚を少しでいいから知りたくなっただけなのかもしれない。それか、単なる傷心旅行。
「ただ、遺書を読みながら、お前が描いた遺影を見たら、無性にむしゃくしゃしてな」
これはきっと祖父なりの賛辞と嫉妬だということは分かった。おれは背伸びをしながらタイヤから立ち上がる。
「――帰ろうか、じいちゃん。一緒に希和叔母さんに怒られてあげるよ」
「今、俺を連れていくと連れ去りになるぞ」
「……それは嫌だな」
残りの六日は休暇として過ごそう。
俺は市街地に戻るよ、と俺が言うのとほぼ同時に校舎からチャイムの音が聞こえてきた。わらわらと子供たちが校舎に戻っていく。じゃあ七日後にな、とぶっきらぼうに言って祖父はタイヤから立ち上がり、小走りで校舎に向かう。
「じいちゃん!」
少し遠ざかった場所で、軽やかな動きで少女が身を翻す。祖母にもきっとこんな時代があったはずだ。
「なんできっかり七日で支脈を移動してたの?」
目に見えてうろたえた祖父はほんの少し口ごもったあと、
「……梨乃からのメッセージを7日放置してたら、世界がもう1つできるところだ、と怒られたからだ!」
早口で言い放って駆けていった。そんなしょうもない理由だったか、と思わず苦笑いした。あれで意外と記念日の事は覚えててくれるの、数字だから、と忍び笑いをする祖母の声が聞こえた気がした。
生ぬるい夏の空気をかき分けて、スクーターを走らせる。夏休みの宿題は今の俺にはない。
子供のころ、宿題そっちのけで打ち込んだ絵を生業にするという選択はしなかった。輝かしい経歴を持つ人間が揃い踏む一族の中で、ひとり公務員として勤めながら、空いた時間で絵を描く生活を送るのは虚しくないか、と一度訊かれたことがある。そんなこと、訊かれるまで考えたこともなかった。
道の向こうが少し開けてきた。戻ったらこの『町』の絵を描くのもいいかもしれない。遠くに見える家々は、強い日差しを受けて生き生きと輝いている。
青は藍より出でて藍より 長尾たぐい @220ttng284
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