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「擬人化、かあ……」


 研究都市内にある単身者用のアパートに帰っても、私の頭にはそれだけが残っていた。

 着替えもせず、ベッドに体を預ける。


 擬人化──対象を人間に寄せて扱うこと。


 むしゃくしゃして、本棚から『ソラリス』を引っぱり出した。総重量十七兆トンにも及ぶ思考する海・ソラリスとのコミュニケーション方法、その謎を探る人類の苦難が綿密に描写されているSF小説。お気に入りのひとつだ。

 頭の中では依然として「擬人化」の単語が思考を逆撫でしてくるが、無視して読み進める。だが、それは無駄な抵抗だった。数ある中から『ソラリス』を選んだのも、本当は城崎さんから擬人化批判を受けてのことだった。

 『ソラリス』には人型の地球外知的生命──宇宙人は登場しない。地球から遠く離れた惑星上にいたのは、どんなコンピュータよりも高度な知性を持った海。人類に関心を示さず、ひたすら思索を続けるソラリスは、擬人化の余地がない生命体と言える。

 私は昔からSF小説が好きだ。母が超自然的な現象を信じていたので、その反動が一番の理由だ。SF小説は母が好まなさそうなことが大量に羅列してあり、本を開く度に胸が踊った。小説はフィクションに過ぎない。けれど、SFは科学的な嘘だった──そこには素晴らしいまでの安心感があった。

 科学的な描写で構築された小説を読むことが好きなだけと考えていたが、実際は違った。私の読む行為は、小説自体の精査に焦点が絞られていた。そこで自分は研究職に向いていると悟り、就職していく友人たちを見送りながら大学院へと進んだ。色々あったが勉強はやはり楽しかった。

 けれど、現実はそう甘くなかった。科学界は現代でも男の戦場であり、女の居場所は多くはない。

 社会は女に優しくデザインされていない。若いうちに出産や子育てを強いる社会通年がそこかしこに残留していることは巧妙に無視されている。日本の出生率が低いのも、女が社会進出したせいだ、というのが男たちの意見らしい。この手の主張を耳にする度に、私は失笑してしまう。かつて、私もその主張を結婚相手に言われたからだ。

 ベッドから起き上がり、水を飲む。窓際の仏壇に向かう。

 双子の位牌。

 私の子供たち。

 位牌を握る。手の内のそれを、優しく撫でる。まるで赤ん坊の頭を撫でるように。

 これも、擬人化なのだろうか?



 クレバーハンス効果の一件で、私たちは研究内容の見直しを余儀なくされた。

 東堂さんが主体となって、各研究チームの人員の分担やスケジュール調整、研究テーマの再構築が始まった。最も課題が多い小桜の教育が中心となり、私に与えられた課題は山のように積もった。

 東堂さんは焦っているようだった。

 研究者にとっては、助成金を獲得できなければ仕事の継続が困難になる。研究者が助成資金をどれだけ「稼ぐ」かで評価されているのが実情だから仕方がない部分もある。私たち研究者は、成功を目指し、昇進やより良いポスト、助成金の獲得のためにできる限り多くの論文を生産しようとする。その結果、業績至上主義がはびこっている。「論文の発表か死かパブリッシュ・オア・ペリッシュ」とも言われているぐらいだ。

 また、論文以上に、近年では特許取得が科学者における成功の近道になっているが、これも新たな問題を生み出している。研究用の助成金を出している特定の企業が、研究者側に新薬の承認に有利な調査結果を発表するよう圧力をかけることが多々あるのだ。企業からの援助は不可欠だが、過度になると、研究の大前提にある公共性や中立性が揺らいでしまう。

 ドリームボックスは国立の研究所なので、官僚主義や政治的な駆け引きは少ないとはいえ、民間との関わりは強い。主なのは、製薬会社との共同研究する新薬への取り組みだ。私の専門ではないため、あまり知らないが──たとえば、イヌとヒトの血管系のメカニズムはほぼ同じなので、血圧に関する実験で犬人のデータを使えば、新薬の実験でヒトのそれに酷似した結果を導くことが可能になると聞いたことがある。

 つまり、遺伝子に改変を施した動物は実験に使える。人間以外の動物の研究はそのまま人間社会に応用できる可能性を秘めているわけだ。


 それよりも、今解決すべき問題は犬人だ。

 私たち大人の態度が急変したことがあってか、犬人たちの様子が最近おかしい。突然泣き出す子もいれば、不安でお気に入りの職員から離れない子もいる。

 小桜もここ数日は私の視界から離れようとしない。

 子供は大人の言動に敏感だ。

 東堂さんをはじめとする研究チームの主体がいなくなると、犬人たちは多少扱いやすくなるが、それは明らかによくない傾向だった。


 中庭でのレクリエーションの時間が終わり、遊戯室に戻る途中、小桜は笑顔で廊下を走り出した。


「ごきぶりさんだー!」

「待って待ってっ、ストップ!」


 ゴキブリを捕まえようとする小桜の腹に両手を回して止めた。


「いい? ゴキブリさんは汚いから触っちゃ駄目なの」

「おみずとせっけんであらったげる」

「そういうことじゃなくてね……」

「あーっ。ゴキブリさん、まって!」


 私の手をすり抜け、両手で蓋を作り、それを被せてゴキブリを捕まえると、小桜は指の隙間を楽しそうに覗いた。


「せんせ、きてきて!」

「に、逃がさないでね」


 私はそっと近寄る。いや、逃がしてと言うべきだったのだろうか。


「あれ、何してるんですか?」


 途中で合流してきた篠塚さんは、不思議そうに首を傾げた。彼女は虫かごをいくつか持っていた。外でのレクリエーションの時間中、犬人たちの虫取りに付き合っていたのだ。


「しのちゃん、むしかご、ちょーだい!」

「ほいよ。で、何を捕まえたの?」

「ゴキブリさん!」

「そっか、よかったね」


 篠塚さんは引きつった顔で虫かごを渡した。

 透明のプラスチックケースに入れられたゴキブリは、がさごそと暴れ回って箱の中を這い、機敏に動き続ける。小桜はわあわあと声を上げて喜んでいた。私と篠塚さんは目で困惑を交わした。


「その害虫の名前はどうするの?」


 篠塚さんが尋ねた。

 小桜はゴキブリを見下ろす。


「おなまえ?」

「それ飼うんでしょ? 名前がないと呼ぶ時に苦労するかもだよ」

「えー」


 小桜は困ったように下唇を出した。


「ゴキブリさんはゴキブリさん、だもん」

「アルジャーノンにしたら?」

「ネズミじゃないでしょう」と私。

「小さくて汚い。似たようなものです」

「あるじゃー?」

「うん。小桜ちゃんとその子、どっちが賢ーいのか比べようよ」

「かしこーい? くらべる?」


 小桜は虫かごを叩いて、側面に張りついていたゴキブリをひっくり返すと、にこやかに頷いた。


「あるじゃのんにする」

「アルジャーノンね。じゃー、の後、伸ばすの」

「あるじゃーのん」

「それ! 上手い上手い」


 篠塚さんが褒めると、小桜は誇らしそうに胸を張った。


「せんせ、あるじゃーのんだよ!」


 虫かごを持ち上げて私に見せてこようとする小桜を止めながら、その頭を撫でてあげた。

 激変する研究計画の最中、なぜかゴキブリと犬人の賢さ競走が始まった。

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犬人を産む 園山制作所 @sonoyama

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