9

 レクリエーションの時間になり、小桜と一緒に積み木で遊んだ。私たちの最新のトレンドは家を作ること。

 土台と壁部分、ふたつの積み木を積んだだけの物ができあがると、小桜はきゃっきゃっと嬉しそうに手を叩いた。


「せんせ、やね、おくー」

「いいね。屋根は何色にしようかな?」

「おれんじ!」

「それじゃ、探してみよっか」


 床に散らばった中から、オレンジ色かつ屋根になる物を探す。小桜は四つん這いになって、本物の犬みたいに尻尾を振りながら、心底楽しそうに積み木の山に顔を突っ込んでいる。

 小桜から目を離して、いくつか積み木を拾っていると、犬人の美穂みほちゃんが手を振ってきた。


「ふしみせんせい、こっちきてー!」


 彼女の他にも、数匹の犬人がこちらを見ている。いつも仲良しのグループだ。最近は他の子たちが私に慣れたこともあってか、度々呼び出される。


「美穂ちゃんたちは何してるのー?」


 私は彼女たちに近寄った。


「あやとりしてるぅ」

「へー。楽しそうだ」

「うん! いまはね、とうきょうタワーつくってるの」

「せんせいもやろー」

「そうだね、やってみようかな」


 美穂ちゃんたちがあやとりについて言葉を重ねている姿を微笑ましく眺めていたが、不意に手に痛みが走って、私は顔を歪めた。


「せんせ、あそぼ」


 後ろにいた小桜がはっきりとした口調で言った。

 その小さな爪が、私の腕に食い込んでいる。


「痛いよ。ちょっと、痛いから離して」


 すぐにやめてくれると思っていたが、実情は違った。小桜は力を強めたのだ。


「やめたら、せんせ、みほちゃんとあそぶ」

「小桜ちゃん……?」


 小桜は睨むと、オレンジ色の積み木を胸の前に掲げた。


「せんせ、あそぼ」

「分かった。遊ぼう」


 痛みに観念して言った。小桜はぱっと顔つきを明るくする。


「やねおく!」


 腕を引っ張ってくる小桜に急かされる形で、私はその場を後にした。

 再び、積み木の家を小桜と囲んだ頃、彼女の表情はすっかりいつものものに戻っていた。

 なんだったのだろう、さっきのは。

 鈍く広がる痛みを腕に感じながら、少し前の状況を思い出す。美穂ちゃんたちと遊ぼうとしただけなのに、絶対に許そうとしない小桜の手の力は怖かった。私の混乱をさらに強めたのは、小桜が次に発した一言だった。


「せんせ、けっこんしよ」

「結婚?」

「すきなひと。けっこん、する。しのちゃんがいってた」


 小桜は屋根を設置し、上目遣いで見てきた。頬がトマトみたいに染まっている。

 突然の言葉に、私は思考が停止しかけた。子供が覚えたての言葉を使っているだけだと思いたかったが、さきほどのこともあったので、慎重にならざるを得なかった。


「小桜ちゃんは私のことが好きなの?」

「うん。だから、けっこんするー!」

「気持ちは嬉しいけど……無理だよ、ごめんね」

「なんで?」


 小桜が積み木を持つ手を止めた。遊ぶのを完全にストップして、目を合わせてくる。


「この国は、ええと、私たちが住んでいるこの国っていう所だとね、女の人同士では結婚できないの」

「どうして?」

「そういう決まり。ルールなの」

「どーして、きまってるの?」

「とにかく決まっちゃってるんだよ」

「やだ」

「え?」

「……やぁだぁああーっ!」


 小桜は叫んだ。あまりの大泣きに、周りの職員たちが集まってくるほどだった。

 なだめつつ、私はおそるおそる小桜を抱きしめた。


「泣かなくてもいいじゃない。私たち──家族なんだから」

「せんせ、かぞく?」

「うん。家族だよ。結婚なんてしなくても大丈夫」

「かぞくって、なあに?」

「結婚相手よりも大事な人のことかな」


 するりとそんなことを言えたのも、私が離婚したことがあるからだが、小桜は気にしない様子で「かぞく」と満足げに呟いた。


 その日の最後の実験は、小桜を主に対象にしたものだった。

 数字の概念を把握できているのかを確かめる簡単なものだった。けれど、他の研究員が何人か参加するものになったらしく、遊戯室には白衣の大人たちが何人か入り、観察室からではなく犬人たちを間近で見ていた。


「せんせ、かぞくだよ」


 小桜が算数の用紙をぺたぺた触りながら、何度目になるのかも分からないその言葉を口に出した。よほど家族という関係が嬉しいみたいだった。


「そうだね。ね、だから小桜ちゃん。数字、数えてみよっか?」


 背後に多数の視線を覚えつつ、私は小桜に両手を示した。


「いちからじゅうまで、数えられる?」

「うん!」

「やってみて」

「いーち、にー、さーん、しー、ごー、ろーく……」

「しぃー?」

「しーち、はーち、きゅ、じゅう!」


 小桜は明るく笑顔で頷いた。


「優秀なのよ。うちの犬人は」


 東堂さんがしゃべっている声が聞こえた。

 そうだ、うちの子は優秀なのだ。

 私は嬉しくなって、次は計算問題に取りかからせる。用紙に書かれた問題を読み上げる。


「小桜ちゃん、1+2は? ジャーキーじゃないよ。指を使って数えてみようか」

「いーち、にぃ……」

「さん?」

「うん、いーち、にー、さーん!」

「1+2の答えは?」

「……さん?」

「よくできました」


 ざわつく室内で、東堂さんが拍手した。一方で、城崎さんは険しい顔つきだった。彼は私の元に来るなり、用紙を拾い上げた。


「くだらない」


 冷淡に言う城崎さんを横目に、私は毅然きぜんとした態度で立ち上がった。


「何がですか?」

「いつの間にこんな質の低い研究を喜ぶようになったのですか、伏見さん? がっかりだ。僕が次に合図するまで観察室にいてください」


 私は狼狽うろたえた。

 言われるままに部屋を出ていこうとするが、小桜が飛びついてきた。


「せんせといっしょ!」

「戻ってなきゃ駄目でしょっ、小桜ちゃん……」

「やーだ!」

「おまけに分離不安か」


 城崎さんが舌打ちした。


「東堂さん。どうにも、あなた方の研究計画はずさんな点が多いようです。この点も含めて、全てをIIAに伝えなくてはならない」

「一体何がそんなに気に入らないわけ?」

「今の実験ですよ。──僕が引き継いでやってみましょう」


 観察室に入った私は、小桜を見守った。

 城崎さんは用紙にある問題を指で示し、小桜に解かせようとしている。

 がんばれ。

 観察室から祈ったが、鉛筆を持つ小桜の手は全く動いていなかった。

 なぜ?

 城崎さんがこちらに手を振った。部屋に戻ると、彼は落ち着いた声を投げてくる。


「典型的なクレバーハンス効果ですよ」


 私ははっとして、小桜を見下ろした。

 かつてドイツにいたハンスという馬は計算ができたという。しかしよく調べてみると、飼い主の微妙な変化を読み取っていただけで、ハンスが正解できたのは、問題の解答を知っている人間がいる時に限られていた。このことから、人間側が無意識のうちに出す手がかりによって、実験動物の問題解決の結果に影響が出る現象をクレバーハンス効果と呼ぶ……。

 実験動物に肩入れするな。

 大学で習った動物行動学者としての当たり前のことを、今まさに自分がしていた。城崎さんはそれを見抜いてきたのだ。一瞬、背筋に寒気が走る。


「過度な擬人化は科学的な手法ではありません」


 無表情を崩さずに、城崎さんは続ける。


「動物の擬人化は、アニメオタクの連中が勝手にやっているだけのことです。実在の競走馬を人間の美少女にしてレース場で走らせたりしてね」


 城崎派の人々が退室すると、残された私たち東堂派は気まずそうに顔を合わせるしかなかった。

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