氷花抄

月庭一花

ひょうかしょう

 病室の、冷たく閉ざされた扉の前に立つ。

 春も過ぎたというのに、ドアの把手とってには霜が降りていた。わたしはやわらかな陽射しを背に受けながら、少しだけ逡巡した。……今更、どんな顔をして会ったらいいのか、と。

 改めて病室のネームプレートを確認し、一度大きく深呼吸をして、扉をノックしようとした、そのときだった。

 がちゃり、といやに重い音がして、扉が横にスライドした。わたしは慌てて手を背中に隠した。隙間から見える室内は薄暗かった。冷気が足元を通り過ぎ、思わず鳥肌が立つほどだった。分厚いダウンジャケットを身に纏った看護師が唇を震わせながら出てきて、

「御面会の方ですか」

 と、わたしに向かって訊ねた。


 彼女と知り合ったのは、どこかの……どこだろう、よく覚えていない……バーだった。

 わたしは失恋したばかりで、その夜も一人で寂しくスツールに腰掛けながら、強いお酒を飲んでいた。だから彼女がいつからわたしの隣に座っていたのか、全然覚えていない。

「こんばんは、お姉さん。ひとりなの?」

 涼しげなのに、それはどこか甘い声だった。

 わたしはちらりと左隣を見た。正面を向いた彼女の髪の隙間から、綺麗な耳が見えた。赤い石のピアスが、薄暗い店の照明を受けて、夏の星みたいに、光っていた。

「随分酔っているみたいだけれど、大丈夫?」

 彼女が、ゆっくりとわたしを見た。わたしも彼女を見つめ返した。そしてその瞳の中に、情けないような自分の姿を、見たのだった。

「わたし? ……うん、ちょっと飲み過ぎたかもしれない」

 わたしは、彼女の瞳の中のわたしに向かって、苦笑してみせた。

「そのピアス、似合ってる。ルビー?」

「ううん。ガーネット。わたしの誕生石」

「じゃあ、一月生まれね。わたしと一緒だ」

 笑いかけると、彼女も同じように笑みを返してくれた。わたしはその微笑に淡い期待をした。期待しないわけにはいかなかった。

 それが彼女、水穂みずほとの出会いだった。


「本当にそんな薄着で大丈夫ですか」

 看護師の女性は後手で扉を閉めつつ、わたしの姿を見て目を丸くしながらそう言った。扉を閉めると病室から流れ出る冷気も止まった。一瞬消えたように思えた全ての音が、再びわたしの耳に届いた。

「その服装では五分も中に居られませんよ」

「病室は……そんなに、寒いんですか」

「ええ、冬ですもの」

 看護師は当たり前でしょう、といった感じの表情を浮かべ、ダウンジャケットを脱ぐと、青白い顔のまま、足早に去っていった。

 わたしは改めて自分の服装を見つめた。水穂が寒い部屋に入院していることは人づてに聞いていたから、少し厚着してきたつもりなのだけれど。

 けれどもう仕方がない。わたしはごくりと唾を飲み込み、病室の扉を開いた。


「雪が溶けたら何になる? って、子どもに訊くと、どう答えると思う」

 部屋でぼんやりとテレビを見つつ、お酒を飲んでいたとき。どういう話の流れだったのか、水穂が急にそんなことを言った。

「え? 雪? ……水じゃないの?」

 わたしが逆に訊ねると、水穂は鼻で笑った。

「雪が溶けると、春になる」

 どこでそんなキザったらしい言い回しを覚えてきたのだろうか。わたしが飲んでいた発泡酒の缶をぺこぺことさせながら、

「わたしの田舎じゃ雪が溶ける前に暦の上での春になるわよ?」

 と言うと、可子かこは情緒がないね、と水穂が呆れたように苦笑した。

 ……なんでそんな会話を覚えているの。

 そう考えて、ああ、そうか、初めて水穂とキスした日だったからか、と思うわたしは、やっぱりちょっと、間が抜けていた。


 病室の中は、確かに冬だった。

 窓という窓はすべて凍りつき、霜がまるで雪の模様のように、その表面を覆っている。外の日差しも部屋の中には届いていない。部屋の明かりはついていない。天井に吊るされた酸素供給用の管からは、氷柱が下がっている。わたしは自分の軽装を一瞬で後悔した。

 むき出しの耳が、千切れるように、痛い。

「水穂?」

 声が震えてしまったのは、寒さのせいなのか、それとも別の何かのせいなのか。

 部屋の奥の暗いベッドに、誰かが横になっていた……のだけれど、それが本当に水穂なのか、わたしにはよくわからなかった。

 だって、だって彼女の姿は、

「可子……どうして来たの?」

 少し嗄れていたけれど、それは、紛れもなく、水穂の声で。……でも、

「本当に……水穂なの?」

 彼女は、全身を、植物に覆い尽くされようとしていた。小さな黄色い花が、いくつも、いくつも咲いている。蒲公英(たんぽぽ)の、花が。

 自分の目が信じられない。

「見違えたよね」

 そう言って彼女は、小さく笑った。

「ここは……これ以上花が咲かないように、この病室は、ずっと冬なの」

 水穂が周りを見回しながらそう言った。

「この蒲公英の花が全部咲いて、綿毛になったら、そうしたら、わたしは……」

「水穂」

 わたしの言葉を遮るように、水穂は小さく首を横に振った。そして、

「ねえ、あなたが前に、雪は溶けなくても春は来るって、言っていたの、覚えている?」

 と、訊ねた。

 わたしが小さく頷くと、水穂は指先に咲いた蒲公英の綿毛を、ふうっと吹いた。部屋一面に飛んだ綿毛が、冷たい雪のようだった。

「雪が溶けなきゃ、春は来ないよ」

 水穂が言った。見るとその頬には、氷の涙が光っていた。

「もう、わたしのことは忘れてよ。わたしたち、ちゃんと別れたじゃない」

「……わたしはまだ、」

 それ以上の言葉は、白く凍りついてしまって、どこにも届かなかった。


 春の終わりの日曜日に、ハイキングに出かけたのを、今でもよく覚えている。少し標高の高いところで、薄手のウインドブレーカーだけでは少し肌寒いくらいだった。

 わたしたちは散策路を、手をつなぎながら歩いていた。木漏れ日が優しかった。聞いたことのない声で、小さな鳥が鳴いていた。

 歩いているうちに、目の前をふわふわと飛んでいるものがあるのに気づいた。蒲公英の綿毛……じゃない、もっと細やかで、雪のような、何かだった。

「なんだろうね、これ」

 わたしが独り言みたいに言うと、水穂は、わたし知ってるよ、と答えた。

「これはね、柳絮りゅうじょって言うの。柳の、綿毛」

 柳にこんな雪みたいな綿毛が付くなんて、知らなかった。

「柳って言ってもよく見かける枝垂れの柳じゃなくて、別の種類の木なんだけどね。昔中国で、雪を柳の綿毛に例えた女性がいたのよ」

 柳絮の才という故事の謂れなのだと、水穂は話してくれた。彼女の横顔をわたしは見つめた。その耳には、赤い石のピアスが光っていた。蠍座の、心臓みたいな色で。

 木立を抜けると、そこは一面の雪景色だった。……ううん、違う。柳絮だ。柳絮が青空の下で、さらさらと風に舞っていた。

「すごい、すごいね。本当に雪みたい」

 わたしは興奮して、彼女の手をきゅっと握りしめた。春なのに、冬のようだった。

「雪は解けなくても春は来るのね」

 子ども染みた声でわたしが言うと、水穂は一瞬驚いたように、わたしを見た。

「どうかした?」

「ううん、なんでもないわ」

 それから少しして、わたしたちは別れた。

 あのとき、もしかしたら彼女は、自分の病気に気づいていたのかもしれない。そう思うと一年も経った今でも、鼻の奥が痛くなる。

 あの光景を、水穂がどんな思いで見ていたのか、わたしにはどうしても、わからない。


 病室を出ると、凍っていたまつ毛から雫が落ちた。涙だとわかるまでに、少し時間がかかった。わたしは震えていた。心の底から震えていた。病院を出ても、その震えは止まらなかった。

 春の陽射しが、やわらかに降り注いでいる。

 思わず空を見上げた、そのときだった。

 街の雑踏の中に、はらはらと舞っている白いものが見えた。

 柳絮だ。そう思った。わたしは頭上に浮かぶ白を追って、夢遊病者のように歩き続けた。

 柳絮はどんどん増えていく。周りの人たちはまるで気にしていないけれど、それは本当に、空から降る雪のようだった。

 気づくと街が白く覆われていた。

 周りには誰もいない。

 わたしは暖かな雪に包まれながら、その場に立ち尽くした。体の震えも、いつの間にか消えていた。


 どのくらいそうしていただろう。

 わたしは走り出した。

 彼女を連れ出すために。あの冬の病室の中から、救い出すために。

 わたしは走り続けた。

 この世界の、どこでもない場所から。

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