わたしは亀の背中に乗って

月庭一花

わたしはかめのせなかにのって

 恋人がお堂の裏手の池に、勝手に住み着いてしまった。お不動さんに叱られるよ、と脅してみたが、本人はまるで気にした様子もなく、のほほんとしている。わたしは仕方がないので弁財天池の亀にお願いして、その背中に乗せてもらって、日毎夜毎彼女に会いに行った。亀への付け届けも楽ではなくて……。

 ここまで書いて、ため息をついた。これじゃほとんど深大寺の縁起の引き写しだな、と思い、パソコンの前から離れて窓の外を見ると、朝の陽射しが静かに降り注いでいる。

 恋人のなつめはまだベッドの中ですうすうと寝息を立てていた。わたしは台所に立ち、お湯を沸かしながら、小さなボリュームでテレビをつけた。新型の感染症が蔓延してからというもの、テレビのニュースは連日その話題しか流さない。もっとも緊急事態宣言が解除されてからは人の出も戻りつつあるらしく、近くの植物園も再開しているようだった。昨日、職員さんのツイートが流れていた。

 コーヒーを淹れてパンを焼いていると、匂いに気づいたのか、なつめがあくびをしつつ、起きてきた。いつものようにそろりそろり、足先で周囲を探るようにしながら。

「おはよう。ずいぶん早いんやねぇ」

 なつめはどこか遠いところを見つめる目をして、そう言った。彼女は目が不自由なのだ。

「全然早くないわ。もう十時過ぎよ」

 わたしは答えた。なつめは胸にかけたペンダント式の時計を耳に当てて、合成音声の時刻を聞いている。

「ほんまや。全然早くなかった」

 カラカラと乾いた笑いを浮かべるなつめは、可愛い。わたしは立って行って、彼女の手を取り、一緒に席に着いた。彼女の手はしっとりとしていてやわらかく、指先は消えかける直前の朝露の匂いがした。

「食べ終わったらお散歩しようよ。再開した植物園、薔薇が見ごろだそうよ」

 こうして一緒に遅めの朝ご飯を食べるのも、一緒に出かけるのも、あと何回だろう。ふとそんなことを思う。

 なつめは本当ならば、この春に函館に発つ予定だったのだ。それがこの感染症騒ぎで延び延びになってしまっていた。鍼灸の学校に行く、それも北海道の、と聞いたときには、驚いた。驚きすぎて何も言えなかった。声も出なかった。今も、何も言えずにいる。

「あれ? ジャム、どこにあるん?」

 なつめがテーブルの上を探しながら、わたしに訊ねた。

「ここよ。林檎とママレード、どっち?」

「ママレード」

 わたしが瓶を手渡すと、おおきに、となつめが目を細めて笑った。

 消防大学校近くのアパートに、二人で住んでいた。わたしと、なつめと。だから神代植物園は徒歩圏内で、わたしたちはよく散歩に出かけた。第二駐車場口から路地に入っていくと金網の向こう側で、イヌシデが風にさらさらとゆれていた。時折葉の陰に見える赤い実は、蛇苺だろうか。

 なつめはわたしの右肘に左手を添え、右手に白杖を持って、その杖が地面を探る、かつかつという乾いた音は、もうすっかりわたしの耳に馴染んでいた。右側になつめがいることが当たり前のようになっていて、それが失われてしまうかもしれないと思うと、なんだか胸に穴が開いたような心持ちになった。

 深大寺の裏手のお蕎麦屋さんが客の呼び込みをしている。それを横目に見ながら、わたしたちは植物園の門をくぐった。視覚障害者のなつめとその同伴者であるわたしは、入園料が免除される。その気安さも、この場所をよく訪れる理由の、一つであった。

 高い木立から、陽の光が音もなく降り注いでいた。静かで涼しい小道を、わたしたちはそのまま、無言で歩いた。

「そういえば、お話は書けたん?」

 オールドローズの花壇に差し掛かったとき、不意になつめが言った。

 まだよ、とわたしは答えた。物語、物語。それはなつめから出された、宿題だった。

 ……わたしが函館に行っても寂しくないように、柊子を近くに感じられるように、わたしに物語を書いて、と。なつめが言ったのだ。

 物語なんて書いたことがなかったから、本当は春までに書き終えるはずだったのに、出立が延びたのをいいことにわたしはその小さな物語を書いたり消したりしていた。今朝書いていた物語だって、昨晩、なつめが寝物語につらつら話していたお話をなんとなく覚えていて、適当に構成し直したものだった。

 でもなつめの……問わず語りのあの夜話は、どんな結末なら相応しく思えたのだろう。

 気づくと人通りが多くなっていた。薔薇園の薔薇はどれも満開だった。緊急事態宣言が解除されて、園に訪れた人たちはそれまでの憂さを忘れるように、にこやかな表情を浮かべて鮮やかな花々に見入っている。子ども連れ、ベンチで小休憩しているお年寄りたち、大きなカメラを覗き込むおじさん、みんな、マスクをしている。わたしとなつめもマスクをしていた。やっぱりまだ、感染症は怖い。

「陽射し、暑ぅなってきたねぇ」

「先に温室行く? 蘭の部屋は涼しいよ?」

 そんな会話を交わしていると、広場のカリヨンが鳴り始めた。銀色の、大きな、花のカリヨンが。わたしたちは皆足を止めて、その鐘の音に聴き入っていた。


 わたしは参道に立ち並ぶガス燈に一つずつ明かりを灯しながら、深大寺のお堂の方を見つめた。夕闇の中、境内の木立がざわざわとゆれている。亀がゆっくりと弁財天池から上がってきて、わたしの前に止まった。違うのよ、とわたしは言った。今日は違うの。仕事で。亀は不思議そうに首をかしげたまま、いつまでもわたしを見上げていた……。

 ベッドの中で指を絡めながら、なつめが眠そうな声で言う。絡めた彼女の指は細く、しっとりとしていて、木蓮のように冷たい。

「柊子は……街灯士のお仕事をしたらええよ」

「街灯士? それってどういう仕事なの?」

 寝返りを打ちながら彼女の方を向くと、なつめがくすくすと笑った。

 街灯士言うんやから、街灯に明かりを灯す人やないかな。わたしは少し考えて、昔の映画で見たわ。ガス燈に火を灯す人。と言った。

「でも、どうして街灯?」

「だって、そうしないと、……わたしの目、暗いままやないの」

 涼しい蘭の部屋でひと休みして、ベゴニアの部屋に入ると、そこは鮮やかな色の洪水で、目がまぶしいくらいだった。

 オレンジや黄色、赤い花が、天井から吊るされた籠から垂れ、見事に咲き乱れている。

 入り口近くの水盤には、ベゴニアの花が幾つも浮かんでいた。水面がキラキラと、天井からの光を周囲に散らしていた。

「……ここ、明るくてええねぇ」

 ロービジョンといっても様々で、なつめの目は光を、かすかに捉えることができた。ベゴニアの美しい花も、彼女には、あるいは少しくらい、見えているかもしれない。

「ベゴニアの部屋、やよね? なぁな、ベゴニアの花言葉、知ったはる?」

 わたしの右肘を掴む手に少しだけ力を込めて、なつめが言った。

「確か、色によって違うんでしょう? 前になつめから聞いたような気がするけれど」

「そやね。でも、どの色の花にも共通しているのは、『片想い』やねんて」

「……片想い?」

「葉っぱが左右非対称やから」

 そう言われて改めて見てみると、ベゴニアの葉はどれも、歪んだハートの形をしていた。

 再び歩き出そうとする気配が伝わってきたけれど、でも、わたしは動けなかった。不審そうに振り返り、なつめが首をかしげた。

「柊子?」

「行っちゃ、嫌だ」

 わたしは言った。

「どこにも、行っちゃ嫌だ」

 気づくと涙が頬を伝って布製のマスクに吸い込まれていった。

 こんな風に情けなく、なつめを引き止めるつもりなんてなかった。もっと格好よく、送り出してあげられるはずだった。

 でも、できなかった。

 今、このベゴニア室に、わたしたち以外誰もいなくてよかった。みんな薔薇園の薔薇に夢中になってくれていて、よかった。

 片想いだなんて、そんな寂しいことを言って、そのままいなくなるなんて、嫌だ。

「わたしな、このままずっと柊子におんぶに抱っこなんは嫌やねん。柊子の隣に、ずっとずっと居りたいから……生きる術を身につけなあかんて、そう思ったんよ」

 涙の向こう側で、顔をくしゃくしゃにしたなつめが、静かに滲んでいた。

「遠くの学校へ行くんも、全部、……近くにいたら柊子に甘えそうになってしまうんやないかって、不安で……怖かったんよ」

 だから、いつでも勇気がでるように、柊子を近くで感じられるように、わたしに物語を書いて。

 そう言って、なつめは鼻を啜った。


 深沙大王堂の裏手の湧水池にわたしの彼女が越してから、三年の月日が経った。初夏になると水辺には緑の草が生い茂った。評判を聞きつけた多くの生き物が集まってきている。皆、彼女の鍼と灸を目当てに来たのである。

 街灯の明かりを灯し終えたわたしは、弁財天池に向かって手を叩いた。付け届けのお酒だって、ちゃんと用意してある。

 亀はわたしが跨ったのを確認すると、ゆっくりと歩き出した。わたしは亀の背中に乗って、今日も彼女に、会いに行くのだ。

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