金色抄

月庭一花

きんいろしょう

 わたしの名は金色きんいろという。

 本名は違う。ただ、外洋で船が難破し、この国の浜辺に漂着したときから、皆がわたしをそう呼ぶ。何年も過ぎて、言葉がわかるようになって、ようやっとその意味を知った。

 金色。それは太陽の色。神様の色。そして麦穂のような、わたしの髪の、色であった。


 猫間障子越しに差し込む光が妙に明るいのは、きっと夜半に降った雪のせいだろう。

 わたしは布団から這い出ると、指先で髪を整えた。寝衣の裾が乱れてあられもない格好になっていた。右の太腿に、当時の事故の名残の傷が、蜈蚣むかでのように走っている。

 寝ているあいだに火おけの火は消えてしまっていたようで、小さな煙だけがひとすじ、天井に向かって伸びていた。

「お目覚めですか、金色さま」

 襖をすっと開け、こうべを垂れているのは、わたしの慰め役であるところのまやだった。

 まやはわたしが浜辺に流れ着いたときからずっと、わたしの看病や世話係をさせられている。元々は巫女のようなことをしていたらしいが、詳しいことはよくわからない。

朝餉あさげの支度が整っております」

「ありがとう。今日は寒いわね」

 わたしが寝惚けた声で言うと、まやは慌てて平伏して、炭火が消えているのに気付きませんで、本当に申し訳ございませんでした、と言った。わたしの方こそ慌ててしまった。

「ごめん、そんなつもりで言ったんじゃないわ。だから顔を上げて、ね?」

 まやがそろそろと顔を上げる。目隠しをしたその頬が、緊張して雪のように白かった。

 少し悲しくなって執り成すように、わたしたちは友達でしょう、と声をかけると、まやは畏れ多いことです、と答えて再び平伏した。

 恐れられているというのは悲しい。わたしは命の恩人であるまやと友達になりたい、そう思うのだけれど、まやはそれを許さない。

 なぜなら。わたしは、……神様だから。

 この国には、遠く印度から流れ着いたという、金色姫伝説なるものがあるのだそうだ。うつろ舟で漂着し、死後自らが蚕となり、この地に養蚕を伝えたのだと。以来その女性は神様として祀られることとなった。

 わたしは、いつの間にかその神様の化身だと思われていた。きっと同じように浜に流れ着いたこと、そしてわたしの髪が鮮やかで明るい、金色だったためだろうと今は思う。

「外の雪はどれくらい積もったのかしら」

 酸味の強い漬物を齧りつつ、訊ねると、

「一晩でわたしの背丈を越えて積もりました」

 背筋を伸ばしてまやが答えた。わたしはふと自分の祖国を思った。冬は雪に閉ざされる、そこは極寒の地だった。冠雪した針葉樹の森が地平線の彼方まで続く場所。鳥は飛びながら凍りつき、地に落ちて砕け散るほどだった。

「外に出てみたいわ」とわたしは言った。

「いけません」とまやが言った。「そのようなことをなさっては、村人たちが混乱します」

 どうやら神様を直接見てはいけない、という決まりがあるらしい。怪我が治ったあとも外出は許されなかった。まやがわたしの前で目隠しを外さないのも、わたしを直接見ないためだ。ただ浜辺に流されてきたときには姿を晒しているはずなのだから、今更構わないような気もするのだけれど。融通がきかない。

「金色さまがお山に還るまでの辛抱ですから」

 まやは時々、そんなふうに言う。オヤマニカエルマデ、と。海から流れ着いたのに、山へ帰るとは……どういうことなのだろう。

 わたしは小さくため息をついた。まやが本当に申し訳なさそうな様子で床に手をついた。

「今はせめて、お慰めをさせていただきたく」

 そしてそう言うと、背後の……襖の奥から三味線の包みを取り出して、袋紐を解いた。

 撥を当てると、ろん、しゃん、と少し緩んだ本調子の音色。どさり、と庭先から音がして、軒から落ちた雪音がそれに重なる。まやは何事もないかのように、調弦を続けている。

 べ、べん、と枯れた音が座敷に響く。

 それは祖国の民族楽器の音によく似ていた。

 わたしは目を閉じて、あの船の事故からもう、四年も経つのか、と思う。

「……昔、満能長者の姫君の、昼はかげんの座敷にて、夜はかいごの遊びとて……」

 まやの掠れた歌声が、低く流れる。

 歌は、祭文、というものらしい。

 長者の姫が馬と恋仲になり、怒った父親は馬を殺してその皮を剥いでしまう。木にかけられた皮は少女を抱き込むと、それは繭となって、少女の姿を蚕に変えた。そして、

 なぜか最後は海に、流されるのである。

 歌詞の説明をしてくれたのは、もちろんまやだった。蚕。蚕の歌。なんの符号だろう。

 まやが歌い終わると、それを見計らっていたように来客があった。まやが一礼して部屋を辞していく。わたしは部屋の中から耳をそばだてたが、誰が来ているのかも、どんな話をしているのかも、わからなかった。


 その日の夜のこと。

 寝所の襖が開いて、金色さま、と声がした。

「起きていらっしゃいますか」

 寝付いたところだったわたしは、間延びした声で、どうかしたの、と訊ねた。

「お山に還る日が、来てしまったのです」

「じゃあ、わたしはここから出られるのね」

 わたしが慌てて起き上がると、なぜかまやは平伏して、違うのです、と答えた。

「蚕が四度の脱皮を経て、繭となりますように……四年をこの地で過ごした金色さまは、神となるために……死なねばならぬのです」

 お山に還るとは、死を意味する忌み言葉なのだと、まやは言った。わたしは冷水をかけられたようになった。昼間の来客は、まさかそれを告げるためのものだったのか。

「明日、日の出と共に……首を」

 わたしは思わず自分の首筋に手をやった。

「……どうして、それを今……言うの?」

 わたしは唾を飲み込みつつ、訊ねた。不思議だった。黙っていればいいものを。なぜ、こんな夜更けに、わたしに告げるのだろうか。

「お逃げください。金色さま」

 まやが顔を上げて、言った。

「どうして?」

「……わたしを友達だと仰ったから、です」

 そしてわたしの手を取り、支度を、と言った。わたしはまやに促されるままに跳ね起き、身支度を整えた。家の裏口から外に出ると、そこには白い闇が広がっていた。

 雪が、降っていた。

 まやがわたしの手を引いて走る。荒い吐息が白い雲になり、雪片にこんじて流れていく。

 雪を踏みしめる音がうるさい。でも、この闇の中で、どうしてまやは迷わずに進めるのだろうか。不思議そうにしているわたしに気づいたのか、まやはわたしを振り返り、

「わたしは元々、目が見えないのです」

 と、白い息を吐きながら、言った。知らなかった。四年も一緒に暮らしていたのに。

「でも、でもわたしが逃げたことがわかったら、そうしたらまやは……」

 わたしの手を握り締めるまやの手に、きゅ、と力が入った。まやは、わたしのことなら心配無用です、それよりも、早く、と切れ切れに言う。わたしも悴(かじか)む手に力を込めた。

 雪が無窮むきゅうに流れていく。さらさらと音を立てて、耳元を通り過ぎていく。

 わたしたちがいなくなったことに気づいたのか、家々から灯を持った男たちが、わらわらと出てきた。どこだ、どこに行った、という荒々しい声が途切れ途切れに聞こえてきて、肝が冷えた。早く、早く。雪に足を取られ、まろびそうになりながら、それでも手を取り合って、わたしたちはひたすらに走った。

 わたしの心の中に広がっていたのは、遠い故郷の、凍りついたような針葉樹の森。

 あそこに帰る。ただ、それだけを思った。

 浜辺に着く頃には、額に汗が浮かんでいた。

 荒々しい波が白く砕けている。こちらです、とまやがわたしの手を引く。岩場に隠されていたのは、丸い椀のような一艘の舟だった。

「中に日持ちのする食べ物と水を入れておきました。この舟で、どうかお逃げください」

「一緒に行きましょう。二人で逃げるの」

 まやはわたしの手を離し、首を横に降った。

「わたしには、やらねばならないことがあります。村人らに、嘘をつかなくては」

 嘘? と訊ねると、金色さまが逃げた先を、誤魔化さなければいけません、とまやは言った。そしてわたしを舟に押し込むと、力一杯に押し始めた。髪が雪で真白くなっていた。その姿に、不意に涙が堪えきれなくなった。

「ありがとう。あなたのことはずっと忘れない。本当に、本当に……ありがとう」

 手を伸ばしてまやの頬に触れた。まやは一瞬きょとんとして、それから笑みを浮かべた。

「……金色さま」

「違う」わたしは遮るように言った。

「わたしの名前はリーリャよ。忘れないで」

 それが、まやとの別れだった。


 舟を見送るまやの側に、神官の男たちが立った。そしてご苦労だったな、と声をかけた。

「いえ、これもお役目ですから」

 まやは答えた。最初から決まっていたことだ。お山には還らず、海へと戻るのが神だから。来訪神マレビトは追われて出て行くものだから。祝詞を奏上し、神酒を海に流している男たちを尻目に、まやはその場を離れた。そして、

 そっと嘆息する。……舟に水と食料を入れたこと、神官たちにはばれていなかった。

 だから、どうか。生き延びてください。

 まやは目隠しを取り、心の中だけで呟く。誰にも明かせない本当の、本当のことを。

 雪が、海の上で、降り頻っている。

 リーリャが触れた頬にまやはそっと手を当てた。彼女の熱の名残を、確かめるように。

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