たつみ(後編)

フジイ

後編/光片


それから半月が経った。なにが起こったのか自分でもわからないが、二次面接でいつも通り、ほとんど対策を講じないまま、特殊な一般事務の内定が出た。ライター、イラストレーター、デザイナーが派遣の仕事のように電話やメールで依頼を受けられる、そんなシステムを運営している企業だった。もう就職活動が限界だったのもあったが、ようやく自分を認めてもらえた気がして、よろしくお願いしますと返事をした。

両親は安心したようで、初出社するまでの三週間を有効に使ってたくさん遊べ、といってきた。すでに社会に出た友人たちにも連絡を入れた。労ってくれるとのことで飲み会に誘われ、いくつかは参加した。映画やライブをみに行った。できる限り楽しもうと思い、行動した。けれど、後ろめたさの亡霊のようなものが未だに背後にいる感覚は、消えないままだった。

たつみを思い出そうとして、回想を繰り返すほどに、原形がほころびていく。おまけに、過去については余計なことばかりを思い出してしまった。なんであのとき、中途半端に習い事のピアノや水泳を投げ出したのか、なんで人にあんなことをいってしまったのか。とにかく後悔につながる記憶がたくさんよみがえった。

その影響か、夢のなかにも気がつけば小中高時代のクラスメイトと大学での友達が混在して現れるようになった。いつでも夢の舞台は屋内で、学校や図書館、ショッピングモールだった。過去の記憶の登場人物は、みんなおなじ学年で、おない年だった。僕は歩き回って、彼らをみつけたり、すれ違ったり、声をかけたりした。ときどきだれかといっしょに行動しているふうだったが、目を覚ますと隣にだれがいたのか、まるで思い出せなかった。仲が良かったわけでもない人のことは、なぜか忘れなかった。

無職ではあるが内定はある、不思議な感覚のまま、毎日テレビをみて、すこし遊んで、惰眠をむさぼる。なにかやりたい、と漠然と思いながらなにも浮かんでこなかった。物書きのひとつでもしてみようとワードを起動したものの、意味のある文章は思い浮かばなかった。それらしい導入部分を自動筆記のような状態で二八行ほど打ち込んでみたけれど、そのつづきが書けなかった。

とうとう、物語のない人間になってしまったのか、とやりきれない気持ちになって、ギターを手にとって弾いていた。コードチェンジがおぼつかない。歌おうとしても、低い声がうまく出せない。フラストレーションが溜まってしまい、長続きはしなかった。

社会に出るまで一週間を切る前日の夜、突然、体がふるえだした。

死ぬのではないか、死なないと、社会では生きていけないのではないか。思い込みがはげしい、と自嘲こそしても、これが素直な実感だった。

いままでほとんど感じたことがないほど切実な絶望感に、体の内側がなにか悪いことをした後のように血の気が引いていく。なにかしなければ、なにかしなければ、そればかり心で唱えるが、頭が動かない。戦争に駆り出されることになった人の心情は、もしかしたらこんな風だったかもしれない。

けれど、フィクションの登場人物たちは、戦争に行く前になにかを残そうと、とにかく行動していたな、と思い出すと、落ちつく努力をして、改めて、なにがしたいのか考えた。

なにか作品を書きたい、ギターを練習したい。たしかに、いつわりなく本心だ。でも、そこに向かう欲求、エネルギーが足りていない、と客観的に判断できた。他に、なにがしたいだろう。そう考えると、ひとつしか浮かんでこなかった。


都内に出ていく場合には降りないツダマ駅で降り、より千葉の奥地へ向かう路線に乗り換えた。ユミノ駅は、この路線の終点から一駅手前にある。普通電車しかないが、そのうち終点まで連れていってくれる電車は一本おきにしか来ない。

座席の生地にふれる。とても懐かしい。思えば、卒業アルバムの表紙に色も手ざわりもよく似ていた。大きさとやわらかさは、座席のほうが圧倒的だが、過去とつながっているものが似たような風合いであることに、不思議と気分が高揚した。

胸の鼓動が、徐々に強くなっている。ノスタルジックな気分になると、自然と胸が高鳴った。ただ座席に座って発車を待っているだけだというのに、幼いころの誕生日前日のような期待があった。いつも使う路線とは、人々の持つ雰囲気が異なっている。電車がどこへ向かうかで、空気がまったく異なる。十五時過ぎなのもあってか、制服の学生がたくさんいた。

薄橙の車内に、さらに陽の光が溶けて馴染んでいる。あちこちがほんのりと暖色に輝いていた。太陽の熱が窓越しにも届けられ、首のあたりが熱くなってきたところで遮光カーテンを降ろす。再び座って顔をあげると、向かいに腰かけていた中学生くらいの女の子がこちらを睨みつけていた。光を浴びていたかったのかもしれない。カーテンをまたあげるのも変で、もどかしかった。

扉が閉まり、電車が動き出す。遊園地のアトラクションが始まるとき、おなじ気持ちだった気がする。

何年もみていなかった景色が窓の向こうを流れていく。懐かしい風景のなかには、もちろん、見おぼえのない建物もあった。それでも、各駅の外観ほとんど変わっていなかった。

大きな影に入ったり、強く照らされたり、明滅が車内を包む。錯乱したような視界になった。すくなくとも、いつもとは違う世界に行けるような気がして、うれしかった。

発車してすぐに本を取り出し、開いた状態で持っていた。しかし、読み始めのページに指を挟んだまま、本を閉じてしまった。ただただ電車に揺られながら、車内に溶け込み、呑まれていくような感覚が心地いい。わざわざ本を読まなくても、本のなかの世界に身を置いているようだった。

普段は特急に乗ることが多いのもあって、普通列車は余計な揺れがすくなく、比較的静かに感じた。特急に乗り始めたころは、揺れや速度に酔ってしまい、具合が悪くなっていた。脳が曇り、首が倦怠感に包まれて苦しかった。

いまは反対に、この速度の緩やかさに酔わされていくような感覚があった。苦しくはないが、脳には質量のあるなにかが立ち込めだす。心地のいい酔いで、目が、いや、まぶたが重い。現実がぼんやりとやわくなり、ふれているのに遠く感じられた。

本をしまうことにして、挟んでいた指を抜いて開く。すると、自分の指の汗でページが楕円形に歪んでいた。とりかえしのつかないことをした、と悔いた。

昔は、本を傷つけたり汚したりすることに、いちいちひどく落ち込んでいた。いまも後悔の念はあったが、なんだか現実の外のできごとのようにも思えて、あまり気にしなかった。大人になってしまったのだろうか。栞を挟み込み、小さなトートバッグに入れた。

チチュウオウ駅で、たくさんの人が乗ってきた。目にみえる範囲の座席も、とうとう埋まった。人々が日差しを遮る。細切れになった光の線がかわるがわるに点滅する様子は、木立のなかに立っているようで心地よかった。光が届かなくなると、嫌な気分になるだろう、と思い直し、先ほどの女の子はまだ向かいに座っているか探してみる。目の前に人が立っていて、確認はできなかった。

意図せず背筋が丸まっていく。うつらうつら、意識が薄れていく。その心地よさに危うさを感じている、けれど、どこかでその眠気に身を任せたまま、手放してしまえ、と耳打ちがあった。朦朧としたまま、なんとか目を覚ましていられるなら、もっとも気持ちがいいだろう。影が彩る薄橙の視界。まぶたをおろすと、真っ暗ではなく、ほんのりと橙が視界を染めあげていてきれいだった。

 アナウンスの声が小さくなった気がする。ガタン、ゴトン、という定番の走行音に深いリバーブ、ディレイがかかって、ゆっくりと車内を満たしていく。

学生が話している。内容はちゃんと聞こえるのに、なにをいっているのかわからない。知らない言語のようだ。重いまぶたをなんとか開けていよう、と思ったのに、気がつくと目を閉じていた。なんとか開く、でもすぐに閉じる。それを繰り返すうちに、瞼が閉じる寸前で止めると視界が緑に近い色合いになる、と気づいた。おもしろがって何度かそれを試すうちに、ふわふわと、僕自身の輪郭がなくなっていた。


ふ、という音を合図に意識が戻った。

外からの光はないようで、内装の薄橙色が弱っているように感じる。臙脂色の座席にてのひらをおいて、なでてみる。ベロア生地のような手ざわり。寝起きの手汗が吸われた。

意識はさえているはずだが、耳が遠いような感覚は変わっていなかった。走行音はぼやけている。視覚のほうは、むしろ鮮明になっていた。ほんのりと、もやのかかったような頭は、いつもよりすこし鈍くなっている。

座ったまま、窓の外を確認すると、どうやらトンネルのなからしい。無機質な黒い壁がすぐ目の前にあり、継ぎ目のような線が不定期に通り過ぎる。蛍光灯の光が周期的に流れ、その残像が目のなかに線を描く。

トンネルなんて、この路線の奥地にあっただろうか。あったとしても、こんなに長いものには、おぼえがなかった。

「つぎは、……駅、お出口は……側です」とアナウンスが聴こえるものの、肝心なところが曖昧になって聴きとれなかった。

 耳を澄ませて、もう一度アナウンスがないか待っているうちに、ふと、乗客がひとりもいないことに気づいた。見当たらないだけか、と立ちあがって確認してみる。しかし、どこにも、誰も、いなかった。

それどころか、四両編成のはずが、都内の電車のように果てがみえなかった。おそるおそる、揺れる車内を移動してみる。トートバッグは肩にかけた。

 ひとまず運転手がいるか、確認するのがいいかもしれない。進行方向を進んでみることにした。連結部の扉は重く、うまく開けられない。筋力が足りないのだろうか。両手で、なるべく力を入れて右に引き、なんとか開くことができた。

 しかし、隣の車両も、その隣の車両も、継ぎ目の重い扉をなんとか開けて進んだところで、まるで景色に変化がない。四両移動して、つぎの車両で変化が無かったら、あきらめて、座って水でも飲もう。扉の重さが、すこしずつ増している気がする。寝起きで体が火照っているのもあるのか、全身にうっすら汗をかいていた。

取っ手へ全体重をかけるようにして、思い切り扉を横に引いた。開いた瞬間、体をすべり込ませる。また次の車両へ、脳内では水を飲む自分をイメージしていた。

 しかし、人影が、座席に腰かけていた。両足を伸ばしている。手足は細く、髪が長く、毛先にかけてうねっている。と、観察していると背後で、なにかを分断するような音を立てて扉が閉まった。思わず「うわあ」と叫んでしまった。

 すると、座っていた人影も驚いたのか、こちらを向いていた。

 ほんの一瞬、目が合う。心臓がふわりと揺れた。

「やあ」

声が高い。ハスキーにも、澄んでいるようにも聴こえる声。

「もしかして」

「なに?」

「たつみ、だよね」

「うん」

 記憶の通り、白い。

「ひさしぶり、内海」

 空色のカーディガンに、白いシャツ、黒いテーパードパンツ。

たつみがいた。

目を合わせるでもなく、ただ呆然と立ち尽くしていたから、

「座ったら?」と声をかけられた。

なんとなく、隣に座るのはさすがに気恥ずかしかった。たつみの向かいの席に腰をおろす。電車が静かで、乗客が他にいないから、声もとどくだろう。

けれど、なにを話したらいいのか、わからない。いやにのどがかわく。ペットボトルの水を飲んだ。味はしなかった。

「よくきたね、というか、どうやってきたの?」

ふ、とたつみは微笑んだ。動揺している僕をみて、おもしろがっているみたいだ。

「まったく、わからない。どうやって……、気づいたら、ここにいた」そう答えるしかなかった。

「そうなんだ……」

たつみは伸ばしていた足を引っ込めて、話をつづけた。

「懐かしいね、内海の顔、ちっとも昔と変わらない」微笑みながらそんなことをいった。たつみの顔は、変わったのだろうか。

「髪質とか、まったくちがうよ。昔は毛がかたかったし、癖がいまよりひどかった」そのせいでガチ毛とかゴウとかあだ名をつけられ、よくいじられていた。

「でも、ほんとうに変わらないよ」

「老け顔ってよくいわれてたからなあ」

「そういうことではないんだけどね。昔から、ほんとうに変わっていない」

 変わらない、とはどういうことだろう。こんなに変わってしまったのに。老いみたいなものが漠然と全身のあちこちに現れて、体力もなくなってきた。時間は確実に、消えていく。揺られていても、終点は死、だ。

「きっと中身にもほとんど変化がないんだよ」

 オブラートのかけらもなかったので、思わず吹き出してしまう。

「まあ、成長しないとか、なにも考えてないとか、よくいわれるよ」

 親、高校や大学の先輩、教授などからも、似たような苦言を呈されてきた。これだけ長い間、おなじことをいわれる、つまり変わっていないのだろう。

「あ、これ嫌味なんかじゃないからね。自論なんだけど、守らなきゃいけないものによって、人の成長する部分は変わると思ってて。だから、変わらないことは、悪いことじゃないって、思うよ」

「守らなきゃいけないもの?」僕には、そんなものは思い当たらない。

「外にあるものじゃなくて、自分の内側だよ」

「内側……」

どういうことだろう、と考えながら、おうむ返しをしてしまう。なんとなく、手を肋骨のあたりに当てていた。

「内海が守りたいのは、こどもの心だ、と思う」足を組みつつ、たつみはいった。

「え?」思考が追いつかない。かゆくもないのに顔をかいて、眉間にしわを寄せてしまう。

「童心というか、こどもの心というか、純粋であることに昔からこだわっていたようにみえたよ、内海は」

「そうかな……、正直、あまり自覚はないけど」

「芸術、というと仰々しいけど、なにかをつくって残したいと思う人は、きっとこどもの心を守りたい人」

これも、単なる自論だけどね、と、たつみは片膝をかかえるようにしながら付け加えた。

たしかに、小学生のころから図工や作文は心の底から楽しみながら取り組めた。けれど、動機は純粋とはかけ離れていたはずだ。たまたま、他のクラスメイトよりもうまくできて、だれかがほめてくれただけだ。親か、先生か、友達か。自画自賛だったかもしれない。

「たつみは」考える前に口が動いてしまった。

「なに?」

たつみが椅子に座り直すと、髪が輪郭を保ったまま、ゆったりと揺れた。

「なにを守りたかった、とか、あった? あのころ」

あまりに気取った言い回しに、自分で恥ずかしくなって、したを向いた。

そうだなあ、といって、たつみはしばらく黙った。

電車の走行音を聞こえてくる。だんだん眠くなってきた。舌に八重歯を立てて、強めに噛んだ。なにも変わらなかった。

長い沈黙が気になって顔をあげると、たつみはうつむいて、あごに手をやっている。

細くて白い腕と指。あのころ感じていたあこがれのような気持ちが、ゆっくりとよみがえってくる。

「自分自身は、守りたかったな」

「それはきっと、みんな、そうなんじゃない?」

「うーん、なんというか、さっきいったみたいな、純粋さ、みたいなもののことだよ」

「小学生のころから純粋さについて、とか、考えてたのか」

 たつみは、自分の頭に手のひらを乗せている。 

「ほんとうのこと、というか」そこまでいい、またしばらく沈黙が続いた。

ほんとうのことって、なんだろう。窓の外をながめると、相変わらず光が一定の周期で通り過ぎている。いつになったら、つぎの駅に着くのだろうか。アナウンスすら無くなってしまった車内の静けさに、そわそわした。

「自分がなんなのか、よくわからなかった。それが、ひどくこわかったんだ」

 いままでのものより圧倒的に大きな光が外を横切った。たつみのシルエットが大きくふくらんだ。けれど、すぐに元に戻った。

「僕はいまもわからないよ、前から、わからなかったけど」

「そういうところが、似ているのかも、と思ってさ」

 どういうことだろう、と、たつみの表情をうかがう。中空を眺めているようだった。人の目をみて話すのが得意ではないので、とても助かった。

「最初に会ったとき、おぼえてる?」

 たつみの口の辺りを無意識にみていたので、ひやっとして目を逸らした。

「僕が転んだとき、だよね」若干、声が小さくなっているのが自分でもわかった。

「そうそう」どこか、うえのほうをみたまま、たつみは背もたれに身をあずけ、組んでいた足も開く。大文字の火を思い浮かべた。

「あのとき、なんでそんなに急いでるの? って聞いたんだけど」

両手が座席に、ゆっくり降ろされる。その動きでたつみなら、浮遊できそうだ。ひとつひとつの動きが優雅だった。

 あの日のことは映像として記憶しているけれど、会話の内容はさっぱりだった。何度も、初めて会った日のことを考えて、正しく思い出そうとした。けれど、どんな会話をしたか、一向に思い出せないままだった。

 僕が黙っていたので、答えはノーだと思ったのか、たつみはまた話し始める。

「わからない、もう意味ないのに、なんか、急いでる、っていってたんだよ」

たつみは体を起こし、ちゃんと座り直した。

「それがおもしろくて。考えたうえでわからないっていう子は、他にいなかったからね」

 そんな話をした、だろうか。自分の手を、なんとなくみた。

あの日は、なにがつらいのかわからないまま、やり場のないネガティブな感情を無視するために、殻に籠って、無感動であろうとしていた気がする。

「わからないのに、なぜか当たり前のように行動してしまう感覚が、この子にもあるんだ、って。すこし、気が楽になった気がしたんだ」

 ありがとう、とたつみは付け加えた。小さな、仄暗い声。表情は暗くない。

「そうだったんだ……、役に立てたなら、良かった」その場しのぎの返答。無自覚に誰かの役に立っていた? なにを答えたらいいのかわからなかった。

「義務教育、みたいな問題じゃなくて。当たり前のように遊んで、当たり前のように笑って、話して。そういう、行動のすべてが、不自然な気にしか感じなかったんだ。自分の意思とは関係なく、勝手に動いているみたいで。それを、たつみは短くいい表していた。あとから学年がちがって、しかも年下だってわかったときは、なんか、嫉妬みたいな気持ちがわいたよ、子どもっぽいけど」

たつみはニヤッと口角をあげて、すこし細めた目でこちらをみる。僕も、なぜか笑えてきた。胸がかゆいような、くすぐったいような気がした。すると、たつみの表情もやわらかくなった。嫉妬というなら、僕は、たつみのありかたに、いつも心のどこかで嫉妬していたのだ、と気づいた。

自分の容姿がすこしもいいと思えなかったから、たつみを一目みたときから、絶対的だ、と感じていた。初めて目が合ったときは、しばらく転んだ痛みも忘れたほどだった。

「たつみは、その、かっこよかったよ、いい先輩だし、やさしかった」なにをまごついているんだろう、僕は。目を合わせることもなく、背を丸めて小さな声でいった。中指の深爪と指のあいだを、親指で何度も撫でる。

「それは、よくいわれたなあ。でも、女みたい、っていわれることのほうが多かったなあ」

遠いところをみるような目。僕のことはみていない。記憶を思い返しているような、あるいは、夢をみようとしているかのような、そんな目だった。

「兄弟がいるって話はしたっけ」

「直接は聞いてないけど、お姉さんがいる、みたいなことは噂で聞いたよ」

「二人いて、コトハとオトハ。言葉のコトに、波紋のハ。サウンドの音に、葉っぱのハ。でも、音葉にあったことはないんだ。ぼくが生まれるより前に死んでいて、会ったことはなかった」

「全然、知らなかった」

「それで、音葉として育てられたんだ。正確には代わりかな。物心がついたとき、自分の容姿を自覚したとき、僕はまぎれもなく女の子のみた目だった。いや、性別のことを考える以前に、これが自分なんだ、と認識した。それが一般的にいわれる女の子みたいだったというか……って、なんでそんな顔してるの?」

 どんな顔をしているのだろう、僕は。なんの話をしているんだろう、たつみは。なにもいうことができない。のどがざらざらになっていく。

「成長するほどなにかがおかしい、ってわかって、でもそれは、どうやら世界じゃなくて自分のほうがおかしいらしい、って、気づいて」

いつの日か、春に聴いたせせらぎみたいな声が。流れていく。

「素直にそのことを両親にいったんだ。そうしたら、母さんに殴られた。でも、それから冷静になったのか、泣きながら抱き着いて、謝ってきた。父さんは気が小さかったのか、それまでなにもいわなかったんだけど、ようやく母さんを諭す決心がついたみたいで、ふたりで毎日話し合いをするようになった。結果、家族で心の病院に行くことになった。言波も、父さんもおかしくなかった。結局、治ったのは母さんだけだった」

 車両の振動が激しくなっている気がしたけれど、ただ僕の体がふるえているだけだった。

「とっくに、自分がなんなのか、わからなくなっちゃっててさ。形から入ろう、って父さんに髪を切られそうになったとき、とっさに拒絶してしまったんだ。自分でも理由はよくわからない。でも、見慣れていた自分の像みたいなものを変えられるのが、こわかったんだと思う。守りたかったのは、最初にみた自分の像だったのかも。おかしいよね」といって、たつみは頭をかいた。

 身体が熱い。なにも知らずに、あれこれ勘ぐってきた自分を恥じた。

「内海のことが気になったのも、ほんとうは、そういう理由だったのかもしれない、と思うと、自分でもいやになる」

 僕のなかで心の歯車が全くかみ合わない。こすれて、変な音を立てる。自分の意志で動くことができない。夢のなかみたいだ。

「思えば、あの男子グループに混ざって遊んでいたのがそもそも変だなと思って、どんな顔をして、なにをして遊んでいるんだろうって気になって。だから川遊びの日に顔を出したんだった」

 自分がおぼえている記憶の話題になったので、すこし楽になった。楽になってしまう自分に嫌気が差した。けれどこの機を逃せない、と思い、

「たしかに、サトルはおなじ学年でもなかったし、変だったよね」と、気になっていたことを訊ねた。

 急に思い出した。サトルは学年がうえで、つまりたつみと同学年。ヨシとカキヤはクラスメイトで、いってしまえばサトルの子分のようなものだった。そこに、わざわざ僕は入っていった。単純に、立場が強いグループに身を置いたほうが、自分の身を守れるから。

「あのときみたカワセミ、きれいだったよ」

 カワセミ。結局、僕はあの日、カワセミをみられなかった。それどころか、あの後、水質改善などといって巨大なポンプを使って川の水をすべて汲みあげる、という最悪なできごとがあった。水がきれいになるなら、メダカが増えるかもしれない、なんて思っていたら、めだかも、カワセミも、一切みかけなくなってしまった。

カワセミはあのとき、ほんとうにそこにいたのだろうか。

 たつみの相変わらず表情はやわらかかったけれど、蛍光灯が通り過ぎる一瞬だけ、顔の陰影がくっきりと分かれて、大人びた表情がのぞく。

「なんで死んでしまったのか、って訊いてもいい?」

ためらいを消して、意を決して核心をつこう、と思った。気をつかったままでは、逆に楽しい話題には戻れない気がした。

 たつみは、大丈夫だよ、といってから一度、両手をあげて伸びをした。

「朝、目が覚めて、起きあがろうと思ったら、急に心臓が止まった、っていう、それだけなんだけど」

「え、それは、なにかされたの……?」すぐに質問してしまう。

 すると、たつみは、

「あ、ほんとうに、止まっただけだよ。急性心不全だって」と、屈託なく笑みを向けてきた。笑っていいようなことなのだろうか。

「あ、そういうことか。ごめん」と、ぎこちなく頭をさげることしかできない。おかしなやりとりだ。

「気にしないで。まさか、こんな風に死ぬとは思ってなかったからびっくりしたなあ。もともと持ってた喘息が原因でもないし、心臓が弱いとか診断されたこともなかったから、拍子抜けというか、死ぬって、こんなにあっけないんだな、って思った」

 そういうと、たつみはまた笑った。

「死んでしまったことは、自分でもわかった。でも、すぐさま日常に戻ったんだよね。つまり、普段通りの風景、というか……初めは、まだ自分が生きてるんじゃないか、って思った。それくらい、いままで通りに自分がいて、自由に考えて自由に行動できて、日常があった。だからここは、天国とか地獄とか、そういうところではなさそうで。でも、その日常も、突然リセットされて、初めにいたシーンにもどっていたんだ。商店街の八百屋の前に立っているシーンなんだけど。おかしいなあと思って、でもあまり気にしないようにして過ごした。でも、三度目くらいに、自分がいる世界のシステムに気がついたんだ」

 目が合う。土産話をする友人たちとおなじ表情だ。死んでしまったのになぜ、という違和感はぬぐえない。僕だったら、すぐさま絶望してしまうだろう。

「うまくはいえないんだけど……、みんなの顔はおなじまま、役回りが変わる、というか。たとえば、先生と父さんの外見が入れ替わっていたり、サトルが大人しい生徒になっていたりとか。家族も、クラスメイトも、細かく、いろいろな要素が入れ替わってたんだ。だからいつもおなじ展開をする、というわけではなくて、何十回かは、退屈しなかったんだけど……」

 瞳に、わずかにかげりがあった。いままで無理していたのではないか、気をつかわせていたのではないか、と焦る。しかし、気の利いた返事をすることもできず、ただうなずいていることしかできなかった。

「はじめのうちは、これこそがあの世なのか、って思ってたし、昔は遊ばなかった人と遊んだり、親がずっと優しかったり、もしもの世界を体験しているみたいで、これはこれでしあわせだったのかもしれない。でも、よくみてみると、景色はおかしくなったゲームの背景みたいに壊れてたり、あるはずのないものが道端から生えていたりして。学校にある椅子がたくさん生えた駐車場は気持ち悪かったなあ」

 小さく鳥肌が立った。頬がうっすらかゆくなるような、妙な恐怖心が起こった。

「ほんとうは壊れている風景を、あたかも現実かのようにみせてくるんだ。最初はおかしいということにも気づけない。でも、すこしずつわかってきて、びっくりするんだ。体育の授業でみんなが大きなサイコロを使ってサッカーの練習をしている、とか、あったなあ」

 ほんとうにおもしろかったのだろう、思い出し笑いが混じっている。つられて、僕も笑ってしまった。暗いもやがうすれたような錯覚があった。

「何度もその世界がめぐるのを体験しているうちに、すべては、知っている事象だけで構成されているって、気づいた。ほとんどのことは、過去のなかからしか形づくられない。夢とか、作品とか、人格とか、そういうものといっしょだったんだ。なにもかも、もともと記憶のなかにあるもので、それが組み合わせによって、新しいものであるかのようにみえていただけだった。だから、退屈になって、問題児を演じてみたり、気に入らない人に殴りかかったり、したこともあったな。毎回が良い世界だったわけでは、なかったから」

「それって、すごく、……苦しい、でしょう」

瞬時に口からこぼれるのは、当たり前の、確認するまでもないようなことだった。想像が追いつかない。

「まあ、でも、まったくおなじ世界を繰り返すよりは、マシだったと思う。感動できるようなできごともあったよ。でも、仕組みがわかってきてからは、つまらなかったかな。やり尽くしたゲームみたいで。それにたちが悪いのが、なにをどうしたって、この世界の繰り返しから逃げ出す方法はみつからなかったことだよ。なにかアイテムを手に入れれば、だれかを倒せばここを出られるとか、そんなものはなかった」

 たつみはうつむきがちになる。左手のカーディガンの袖を右手で巻くようにしていじっていた。でもね、とたつみはつづけた。

「ぜんぶに飽きて、どうしようもなくなったとき、記憶の繰り返しから出ていく方法はないかって必死に考えて、そのとき、電車の存在をすっかり忘れていた、ってことに気づいた。それでユミノの駅をめざしたんだ。記憶していたとおりの場所にあったから、駅にはすぐに着けた。

電車が来ないか、ずっと待っていたら一時間くらい経ってから、カラーリングとかがされてない、銀色の電車が来た。これでどこかに逃げ出せるかもしれないって、すごくわくわくしたっけなあ。

でも、発車してからしばらくするとトンネルに入って、ずっと、そのままだった。外の景色がまたみえることはないままで、ずっと走りつづけてて。これは、いつまでも終点にたどり着かないっぽいなあ、って」

 僕はなんとなく、車窓の外をみた。いつまでも。そう、いつまでもなにかがつづくことは本来ない。いつかはみんな変わってしまうし、モラトリアムは期限あってのものだ。

でもそれは、僕が生きているから、なのかもしれない。死んでしまうと、あらゆることが、いつまでも続くようになるのか。

 たつみの姿は、僕の目には変わっているようにみえた。脳が誤解しているのでなければ、自分とおなじだけ年を重ねた姿だと思った。

「車掌はいるかな、と思って進行方向に向かって、延々と扉を開けていったけど、いつまで経っても先頭車両に着かない。扉が重すぎるから途中でやめちゃった」

そういって笑う顔は、どこかつまらなそうだった。

「そんなにがんばったら、きっと筋肉がすごくついちゃうよね」

僕は、冗談で笑わせようとした。脳裏には野中の腕がよぎった。思い出し笑いをこらえる。が、こらえるまでもなく、しおれた。たつみの顔が、無理をして笑ったようにみえたからだ。

「いやー、筋肉で世界をぼっこぼこにして、壊せたりしたらよかったんだけど、リセットされちゃうからなあ。あ、でも内海にいわれなければ思いつかなかった、筋肉作戦」

 気をつかったのがばれたのか、僕のことを笑わせようとしているのか、言葉選びに一工夫してきた。しかも一枚上手だ。

「筋肉作戦ってなんだよ」とツッコミ風に返した。たつみは急に立ちあがった。座っていたときよりも、体が小さくなっているような気がする。

「あ、あと、この電車なんだけどさ」といいながら右手をキツネみたいにする。

なにをするのかと思ったら、キツネのしたあごを外すように動かす。指パッチンのつもりだろうか。でも、音はしなかった。

 と思った矢先、電車が激しく揺れた。いや、止まった?

僕は体勢をくずされて、座席に上半身を投げ出す形になる。

たつみはつり革につかまっていて無事だった。ぶらさがっている。

「あ、ごめん……、電車、ずっと乗ってたら、知らないうちに停められるようになっててさ」

「いや、すごすぎるでしょ……」自然と、笑みがこぼれる。

たつみもいたずらっぽく笑っていた。楽しそうだ。そしてまた手をキツネにした。

「それでね、降りる方法もあるんだ。さっきみたいに指を鳴らすと、ドアが開いて、電車から降りられる。どこで停めて車両から出ても、駅のホームに出られるよ。どうみたって壁だから、出るのに抵抗感はあるけど、その壁もすり抜けて、気づいたらホームに立ってる。ゲームのバグみたいなものだね」

そうして、たつみは指を鳴らした。といっても、音はしなかった。

代わりに、空気が抜けるような音とともに、電車の自動ドアが開く。目の前にあるドアだけではない、さらに両側のドアが、順々に開いていく。ガラガラガラと、音が遠のく。聞こえなくなるまでに、すこし時間がかかった。

車両の移動もこんな風にできたら楽なのになあ、とつぶやきながら、手すりにつかまって腕を伸ばし、組体操の扇の両端のような体勢になる。こどもっぽいな、と思ったが、たつみはこどものはずだから、当たり前か、いや、さっきは同い年だと思ったのに。矛盾した自分の感覚についていけない。

 たつみは、そのまま全身をゆらゆらと揺らしてから、だんだん勢いをつけ、そのまま一回転。座席に自分のからだを放り、L字になって着席する。それから、ふああ、とひとつ、あくびをした。

 トンネルのなかで電車が止まって、さらにドアはすべて開いている。あまりに不思議な光景だった。

「ねえ、内海はさ」

 たつみはひかえめな声で、話しかけてきた。

「うん?」自然に反応した自分に、すこしだけ安心する。

「なんでここに来れたの?」

 また目が合う。目は優しいけれど表情はかたい。人生のなかでも、だれかのこんな表情をみるのは、初めてだった。

「死んだの?」

「いやいや、死んで、ないとは思う。電車で寝ちゃって……」

へへへ、と、誤魔化した。頬をかいて、鼻をさわって、たつみをみる。表情に変化はなかった。また、あごに手をやっている。だよね、といい、その手を降ろしてから、

「夢なのかな、この世界って」

こちらに目をやることはなく、したを向いている。

「こんなにリアルなのに、夢なのかな」

答えようがなかった。夢なのかどうかすら、僕にはわからない。

「ぼくはきっとわすれないけど、内海は、目が覚めたら、ぜんぶわすれるかもしれないよね」

仮にこれがすべて夢だとしたら、わすれてしまうのだろうか。それはいやだ。

「ほんとうに、これが夢ならさ」

 たつみの横顔をみた。繰り返し、リセット、なんていっていたけれど、その横顔は大人びて、つかれてしまって、なにも考えたくない、といっているように見えた。かわいて、とんがった輪郭。目を背けたいのに、目が離せなかった。

「ぼくは、どこかにほんとうは、いるんじゃないかって」

どこに向かって話しているのだろうか、たつみ自身の過去か、繰り返してきた日々なのか。少なくとも僕にではない。

どこかに、まだたつみがいる、というなら。会いたいと思う。きっと、長く友達として過ごせるはずだ、と妄想した。空想上の幸せが、僕の生きてきた現実にたつみが不在だということを、はっきりと伝えてくる。

「でも、でも死んだのは、わかるんだよね、理屈ではなくって。きっと失恋とかもこんな感じなんだろうね。したことないけど」

ゆっくりと、けれどほとんど途切れることなく、たつみの声が紡がれていく。

ぼくは、なんとなく、首を横にふった。

「内海」

たつみはこちらをみない。

「内海、こっちの世界に来ない?」

歯に、ぐっと、力を入れた。頭の片隅で、きっといわれるだろうと予測していた言葉だった。なにかをこらえる。つばを飲んだ。うまく飲み込めない。

たつみはカーディガンの袖をまくり始めた。細腕と、白い肌があらわになる。

僕は、たつみの言葉を待っていた。期待していた。けれど、同時に、聞きたくはなかった。口にしなければ、選択肢に加わらないからだ。

「変わりたくないとか、死にたいとか、思ってないとここには来られない、んじゃないかなあって」

たつみの声色は、やさしいままだった。僕は、僕自身の歩んできた決断しない逃避の人生を俯瞰する。間違いなく、たつみのいったことは正しかった。

「そうだね。いつも、変わりたくなかったし、生きている意味なんてあるのかとか、そういうことに捉われたまま思考停止して、毎日逃げてた。いまも、社会に出ていかなきゃいけないっていう現実に耐えかねて、逃避してる最中なのかも」

テレビ、ドラマ、本、あらゆる作品をみれば、いやでもわかる。自分自身が変わるしかない。それをしようとしていない。いま、この瞬間も。

望んでいた機会が訪れても、たつみといっしょに行くという選択ができない。ここに来てから、身体が少しずつ、自分のものではないかのように重くなっていくのを感じていた。

「たつみのことを、急に思い出したんだ、1ヶ月くらい前に。それで、ずっと考えて、思い出そうとして、でもいくつかしか記憶はとり戻せなかった」

「忘れてたの? ひどいなあ」

「いや、うん、ごめん」と途切れ途切れにわびる。記憶力が弱いことを、わざわざたつみにもみせる羽目になってしまった。

 たつみはこちらに笑みを向けてから、足をゆったりと揺らしながら、また話し始めた。

「死んだあとしばらく、実は現実の世界に留まっていたから、いろいろみてたんだよ。自分がいなくなった後の世界を。でも、まさか全校生徒にプリントを配るなんて思わなかったなあ」

小学校で配布されたプリントは、水がついたらすぐ破れるような弱い紙だったのを思い出す。けれど、そんなことがあっただろうか。なおのこと、

「内海がなんで僕が死んだって気づかなかったのかわかる?」

「いや、なんでだろう」

「多分、そのプリントが配られた日に学校を休んでたからだよ。それこそインフルエンザとかで、長く休んでいた。教室にいなかったのはみたよ。みえない体で、ね」ジョークのつもりか、えへへ、といって笑った。

「たつみに聞くのもおかしいけどさ、たつみが死んだのって、いつ、だった?」

「冬。その日は、学校行こうと思ってたんだけどなあ」

「……小四の冬、インフルエンザになった」

「たぶんそのときだよ」

「そっか……」

ちょうど会って一年後くらいだったのか。夏に川で遊んだのを最後に、ほとんど会うことがなくなった。不登校らしいぞ、という話を、夏休み明けにサトルがしていた気がする。

「でもさ、サトルとつるんでたんだから、話題になったりしたんじゃないの?」

 そこで、僕はまた、記憶を取り戻す。病的なほど、ほとんどのことを忘れて生きてきたんだな、と再認識した。

「けんかしたんだ。取っ組み合いの」

「ええ、なんで?」

 目を丸くしてこちらをみるたつみの顔が、すこし明るい。その反応に安心してしまい、訳を話し始める。

内容は、夏休みが明けて数日後の放課後に遊んでいたときのことだ。

名前もない小さな公園で、鬼ごっこをしていた。増やし鬼で、鬼に捕まった人もどんどん鬼になる、そういうルール。十人ほど集まっていて、放課後に集まるにしては、かなりの大人数だった。

その最中、なぜかサトルは石を投げ始めた。悪ふざけで鬼に向かっての牽制のようにみえたけれど、そのうちひとりを狙い始めた。もっとも足のおそい女の子。名前はおぼえていない。

そして、とうとうその子の額に石は直撃した。人の身体から血があふれるのをこの目でみたのは、後にも先にもこの瞬間だけだった。

驚いて泣き出す数人の女子。当てられた本人はちっとも泣いていなかった。その様子が印象に残っている。シャツが襟からすこしずつ、赤く染まっていった。だれかがハンカチを渡したけれど、それでも止まらない。アニメ柄のハンカチはきっと駄目になってしまっただろう。

その子と仲が良かったわけじゃないけれど、反省するような雰囲気も一切なく、ヨシ、カキヤとカードゲームの話をしていたサトルをみて、頭にきた。だから、喧嘩になった。

興味深そうに相槌を打ちながら、だんだんたつみの表情が曇っていくのがわかった。やがて口を真一文字にして、眉をひそめ、そして僕から目を逸らした。

 殴りかかったあと、大げんかに発展し、僕は逃げたり飛びかかったりを繰り返した。サトルをあおりながら場所をすこしずつ移動して、小学校の敷地の真横にある芝生まで誘導した。騒ぎになっているうちに先生の目につけばいいと考えた。

けれど、人だかりをつくるほど派手には暴れられず、その芝生のうえへ、僕は転がされた。サトルは腹ばいになった僕に座って、なにかをいうたびに一発殴ってきた。なにも答えないまま、時間が過ぎるのをただ待った。短い雑草が頬や首をつつくくすぐったさ。地面のつめたさ。柵越しにみえた体育館の灯り。

五分ぐらい経ってから、ようやく先生が数人来た。怪我をした子の取り巻きが、保健室に彼女を送り、そのついでに呼んできたようだった。

 つぎの日、僕たちは学校側から厳重注意を受けた。サトルはしばらく停学処分になり、僕は親にこっぴどくしかられた挙句、受験勉強を強制されて、朝のレースには参加できなくなった。卒業するまで毎日のように参加していた、と思っていたが、自分の記憶をいいように書き換えていただけだったようだ。

 サトルだけでなく、同学年のふたりとも疎遠になった。ほかに女の子しかいない新聞係に入って、毎週八コマ漫画を描いて連載していた。絵も内容もつたない、デフォルメされた伝説上の生きものが日本語をしゃべり、戦うだけの話だった。休み時間に外で遊ぶ機会は、そのころからほとんどなくなった。

「僕は、たつみが死んだなんて思わなかったんだ。学校に行けばいつか会える、どこかにいると思ってたんだ、ずっと」

気配だけ、感じていた。廊下や図書館で突然振り返って、まちがえて知らない子に話しかけそうになったこともあった。どこかにはいるんだろうな、と思い込んでいた。

ひと通り話し終えて、たつみの顔をうかがう。大変だったね、とても小さな声でいった。

「ああ、そっか、そうだよね」と、つぶやいた。溜息が声に滲んでいるような気がした。

たつみは、手すりに首を乗せて頭をあずけている。髪が嘘みたいになめらかにたつみの額をすべった。重力に逆らわず、さらさらと流れる髪。よりあらわになった横顔は、切れた白熱電球のような白だった。

そして、誰に向けるわけでもなく、ぽつりといった。

「あぁ、そうだ、みんな変わっていくんだった」

「か……」

 変わらない、っていってたじゃないか、さっきは。そういおうとした。けれどいえなかった。ほんとうに、どうにもできないとわかったとき、人はこんな風に胸の奥から温度を失っていくのか。胸に大きな穴が開いて、そこを氷よりつめたい風が吹き抜けた気がした。

たつみのいままでの気持ちは、どれだけ想像力を尽くしても、わからないのだ。わかったふりすらできないほど、僕らはちがう。性別、生まれ育ち、それ以上に命の状態が、まったくちがう。

「内海がきたら、なにか変わるかもしれない」

 相変わらずこちらをみないまま、話しつづける。すねたような気持ちになって、僕もたつみをみるのをやめてしまった。

「それは、そうかも」

「でもさ、わかってたんだ」

「ん、なにが?」

 僕が訊ねると、たつみは黙りこくった。右腕で両膝を抱え、そこに顔をうずめた。左腕はだらり、と力が抜かれている。

「内海がなにを考えているのか、ぜんぶ、筒抜けだったんだ。ほんとうは」

 たつみの声が、ふるえていた。まだこちらををみない。すこしでも口にする言葉を間違えたら、ほころびが一気に広がって、ふたりとも崩れてしまいそうな気がした。

「内海の気持ちをぜんぶ、わかっているのに、死んだ人の世界に巻き込もうとした」

僕は、どんな顔をしていいのかわからず、背を丸めた。なにもかもを見透かされていたことが、恥ずかしくてしかたなかった。すべては、とりかえしがつかない。気がつくと、自分を抱きしめるように、脇腹へ手をやっていた。こんなときに、自分の体だけを守ろうとしているようで、ひどく滑稽だった。

たつみをみると、蒼ざめていた。白熱灯は切れてしまった。もはや、顔だけではなくて、髪や指先まで、おなじように色が暗くなっていて、頭が勝手に、夜の海を思い浮かべる。その連想を、首をふって掻き消した。

泣かないでほしい。思うだけで伝わるのなら、もう口にはしなくていいはず。たつみは、なにひとつおかしくないし、わるくない。僕はそう、断言した。

けれど、初めてあったとき、ここで再会したときのような光は、たつみから失われたままだった。

「これじゃあ、悪魔みたいだ」

 たつみは突然立ちあがった。驚いて目をやると、また手をキツネみたいにしてから、さっきみたいに指を鳴らした。また音がしない。これも、練習してもリセットされてしまうせいなのか、と思うとやりきれない気持ちになった。

しかしそんな感傷に浸る間もなく、大きな音を立てて電車が走り始めた。

車両が進む音がトンネルに充満し、なだれこんでくる。大きな音が車内を包み、風によって僕たちは髪を激しくあおられた。必死に手すりにしがみつかないと飛ばされてしまう。

「ごめん」と、たつみが叫んだ。

「なんで謝るんだよ」全身全霊を込めて叫び返す。

たつみはそんな僕をみて、笑った。また笑った。なんで笑うんだ! 髪がたつみの顔を乱暴に覆い隠していて、口元だけがなんとかみえた。

もう笑わなくたっていいはずなのに。ぜんぶお見通しのくせに、わざとらしいくらいにしつこく、なんども笑いかけてくれたのに。口だけがみえた。風のせいでしっかり目が開けられない。

さよなら、きっと、またね。そう動いたようにみえた。

更に速度があがったのか、反響音が耳をつんざきそうなほど大きくなり、風はもう、座ったまま手すりにしがみついているだけでは限界になった。思わず、目を閉じる。

 すると突然、音が消え、風が止んだ。おそるおそる目をあけると、視界のすべてが、三六〇度、どこをみても、みたことのない映像が流れていた。

まず目が止まったのは、小さなたつみが、鏡で自分の姿をみている場面だった。つぎに、複雑な格子上の枠に取りつけられた照明。板張りの天井。目を動かすと、たつみの両親であろう男性と女性が、髪を振り乱して取っ組み合う場面で、それを、たつみによく似た、きっとお姉さんであろう人と扉の外からみているようだった。別の箇所に目をやると、校庭を走っているときの無邪気なこどもの応援の波に取り囲まれているシーン。運動会だろう。それから、家族で行った海。帰り道に眺めた川の水面の波頭。赤いランドセルを背負って泣いている子。黒いランドセルを投げるたつみ。そして、カワセミ。ぼくは、きっとどこにでもいる。そんな耳打ちがあった。シラサギ。アオサギ。モズのはやにえ。トカゲの青いしっぽだけが動くところ。スズメの死体に列を作る無数のアリ。また川。髪の短すぎる僕と目が合うシーン。あのときだろうか。うしろにカワセミがいたのかどうかは判断できない。花火大会の出店で、おそらく迷子になっている映像。たつみは青いものが好きだったようで、ピントが全景のなかの青いものに合わせられていることが多かった。透明度の高いフィルムを幾重にも重ね、同時に再生したみたいな光景だった。これが走馬灯なのだろうか。他人の走馬灯のなか? どこをみてもたつみの記憶で、その中央に僕は浮かんでいた。

直後、強い光のなかで目を閉じたときのように、目の前が真っ赤になった。いままでは球のなかにいるように思っていたが、いま目の前にあるのは面だけ。たつみの記憶はどこにもない。なぜか僕は、なにもない赤に手を伸ばした。それから、赤い光の壁を割くように、緑色の光が横一文字に広がった。


川のせせらぎが聴こえ、視界が大きく揺らいでから、目の焦点が合う。窓ガラスには僕がうつる。トンネルのなかを電車が進んでいる。どうやら、世界に音が戻ったというだけで、川の流れる音ではなかったみたいだ。

それに気がつくと同時に、まずい。と思った。ユミノは通過していた。それどころか、トンネルだと思ったのは駅舎で、扉が開く。終点、チハライ駅に到着したのだ。

汗がふき出す。乗り過ごしたからではない。寝ざめの汗でもない。血の気が引いて、肌が冷えている。とりかえしがつかなくなったことを知らせるシグナルだった。

なりふり構わずトートバッグからスマートフォンを取り出しメモのアプリを開く。

たつみ。夢のなかのできごとを必死に書き留める。夢だったのかどうかもわからない。とにかくおぼえていることを、手当たりしだいに自分のほうへ引き寄せる。けれど書きながら、言葉を選びながら、どんどんイメージや意味や光景がどこかへ消えていくのがわかる。一瞬ごとに、一秒ごとに、わすれていく。「あの、終点です降りてくださーい」なにか聞こえるがそんなことはどうでもよかった。「具合でも悪いんですか?」たつみ、たつみ、たつみ、とにかく、わすれたくない。いやだ。「これは今日だけ、諸事情ありましてこの車両も車庫に行くんで、えっと、降りてください」画面にかじりつくようにして夢を書き留めながら小股でそそくさと電車から降りる。ああ、車掌に話しかけられることで、大半のことが追いやられてしまった。夢より現実の質量は大きいようで、夢の情報を追いだしてしまう。やめて、これ以上は、なにも奪わないでほしい。失くしたくない。

夕日にふやけてぬるくなった風が肌をなでたとき、もうこれ以上はなにも思い出せないと悟った。

 電車は銀一色だった。ホームから身を乗りだして、薄黄色の輪郭を持った真っ白な西日に溶けるように、終点より先へとつづく線路を進んでいく車両をにらみつけた。まぶしくてしかたなかった。夢も、ひとつの現実の形なんだ。頭に浮かんだ一節をメモに書き入れる。それから、わざとらしく深呼吸をして、メモを眺めた。


隣の車両 扉の重さ 空色のカーディガン たつみ 自分の内側 子どもの心を守りたい人 髪 輪郭 電車の走行音 似ている 転んだ 不自然 わからないのに 勝手に動いている 成長するほど なにかがおかしい きれいな声 母さん 殴られた 髪を切られそう 拒絶 カワセミ 心不全 拍子抜け 死ぬ 椅子がたくさん生えた サイコロ サッカーの練習 繰り返し ユミノの駅 銀色一色の電車 笑う 自動ドア 沈黙 リアルなのに、夢 横顔 カーディガン 白い肌 口調 プリント 冬 不登校 切れかけの白熱灯 キツネ 口元 男性と女性が泣いて怒っている 水面 赤いランドセル カワセミ ぼくはどこにでもいる サギ アリ 川 カワセミ 風 迷子 青 走馬灯 赤 緑


 必死に書き留めた。いつもよりは圧倒的に多く要素を残せた気がする。けれど、夢のなかで起こったことを、ありのままの意味で書き残すことはできていない。

それに、肝心なことをいくつも忘れている気がする。大切な話をした。まちがいなく、たつみはなにか、重要なことを伝えていたはずだ。

それでも、目の前にたつみが存在していた、という感覚だけは、いまも残っていた。夢というより体験だ。事実、現実に近い。幻だったとは思えない。

 時計に目をやると十七時になるところだった。アナウンスがあって、電車が入ってくる。側面には赤と青のラインが引かれていた。

電車が起こした大きな風の流れが、服を揺らす。梅雨どきなのに、春先の気配が残ったままだ。乾いた風は、肌にまとわりつかない。なびくシーツにふれたように、心地よかった。自動ドアがいっせいに開く。さっきは、同時に開かなかったな、と思い出し、メモに追記をしながら座席に腰をおろした。

 電車のなかは、セピア色だった。西日を雲が遮って屈折しているのか、光が黄。影は濃い色になっている。一日が終わりかけている、という切なさを感じたのは久しぶりだった。

ぼうっと、電車に揺られる。つぎはユミノ、というアナウンスが流れてくる。外をみると、住宅街の無数の屋根と木々が光を受けていた。家の数が増えたような気がする。

 架道橋を進み、高台からユミノの町がみえた。変わったのか、かわっていないのか、いまいちわからない。きっと通っていた床屋なんかは潰れてしまったのではないか。

 ホームに入っていく。駅が二階建てで、ホームは地上からだいぶ高い位置にある。側面はガラス張りで、うえには屋根がある。反対側にもホームがあるが、駅名の看板があるのみで、あちら側に行く方法はない。

 電車を待つ人々の体の半分ほどが、白飛びしている。これからこの人たちがどこへ向かうのかを想像する。そういえば幼いころは、遠くにみえた車や家をみつけて、どこからきてどこへいくのか想像するのが楽しくてしかたなかった。そんな感覚もいままで忘れていた。光と一体化した人たちの前に、車両が止まり、ドアが開く。乗車してきたスーツの人の生活を想った。女子高生が駆け込んできた理由を想った。どこにも座らないでドアに寄りかかる長身の男性。子連れの母親。ジャージ姿の学生二人組。

 僕は、込みあげるものを必死にこらえていた。自分でも、なんだかおかしくて、他の乗客にみられないように深くうつむいて顔を隠した。

 人、日々、風景。本来、すべてのものは繰り返しにみえて、まったくおなじ形ではない。一回きりの一瞬。それを残すための手段が、なにかをつくることなのだと、唐突に頭が理解し、心が苦しくなった。

 いままで物書きの真似事をしていたけれど、ただ書きたいだけで、書く動機というものが、ずっとなかった。けれど、いまはもうちがう。

 いなくなってしまったものとまた出会うために、書くことで近づくことができる。きっと、いや、絶対に、もう二度と会うことはできないものと、もう一度対面するために、なにかをつくるのはきっと、まちがっていない。むしろ、他に方法はない。

 ドアが閉まる。直感的に、今日は降りたくない、と思った。いまのユミノを知ってしまったら、情報が更新されて、たつみや、僕自身のほんとうのことにつながる手がかりが消え去ってしまう気がした。

 ものすごく長い時間、どこの駅でも降りなかった場合、なにか駅員から文句をいわれるような気がする。真っ当な理由を考えておかなければいけなかった。

 けれど、そんなことよりも、たつみと会ったときのことをもっとちゃんと思い出そう。思い出せないなら、書いて、会いに行こう。

 青いめまいがした。僕は、まずこの夢の話を再生するために、書き始めた。

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たつみ(後編) フジイ @komorebimidori

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