加納の戦い

「結局、結局こうなってしまうのか」


 思わず漏れ出た弱音に、儂は慌てて口を噤む。これまでは何度負けても這い上がってきた矜持が助けたのか、諦念が胸に去来してもそれが口から出ることは一度もなかった。


 背後から迫り来る強大な影が、何度も挽回を期してきた己の強き信念を挫いたのだ。心だけは強くあろうと思うておったのに、このザマだ。


 自嘲の笑みをこぼし、ふと混乱の喧騒に目を向ける。


 幾つもの双眸が自分を見つめていた。自分と同様に幾度もの敗北を経験していたからだろう。取り乱す者は一人としておらず、むしろ逆境を前にして武者震いで身をほぐす者もいた。儂に対する絶対的な信頼。


「今のお言葉は聞かなかったことに致しまする。これまで幾度となく死の際に追いやられながら、ここぞという時に底力を発揮する。それを信じ、我らは殿に忠誠を捧げてきたのです」

「我らは一蓮托生。死ぬ時は一緒にございまする」


 かつては一切のまとまりを持たなかった国衆が、ここまで団結している。口々に発せられる言葉は、儂を糾弾するのではなく、滅亡の危機に瀕してもなお挽回への筋道を描く。それが出来うる経験に語りかけるような口調だった。


 今までは退路がある戦いだった。それがなくなって、心のより処を失った気になっていたのだ。たったそれだけで、儂は負けた気になっていたのだ。


「ふふ、ふはは。その通りだ。何を弱気になっておったのだろうな。積み上げてきたものが水泡に期すのを黙って見ているなど 、儂らしくもない」


 憑き物が落ちたような気分だ。敗北は上等。たとえ小谷城を失ったとて、それが滅亡と同義だと、なぜ短絡的に考えてしまったのか。いくらでも巻き返す機会などこの手で勝ち取ることができる。


「皆の者、冷静に戦場を見よ! 六角は一度敗走して損耗が激しい。すぐに我らを追って立て直しただけに過ぎぬ。そんな強行に随行した将兵の士気が高いはずもない!」


 同意する声が次々に挙がった。自然と余裕が胸に去来する。


「六角の弱兵どもなど恐るるに足らず! 全力を以ってして脆き敵陣を突き崩すのだ!」


 その声に呼応した将兵は、牢固たる意地を携えて敵陣に向かって突撃を始めた。これほどの劣勢を強いられる中でも、弱気を表に出すことなく戦いを進められるのだ。その胆力こそ浅井にとっての屋台骨であり、逆境における無類の強さに繋がっている。たとえ負けが濃厚であろうと、それが諦める理由にはならぬのだ。









 態勢を立て直した浅井軍は、亮政の軍配が振り下ろされると同時に、六角軍本隊に向けて突撃を敢行する。


 亮政は小谷城との距離がやや開いていたために、すぐに冨樫軍が背後を突いてくる恐れは薄いと考えたのだ。まずは短時間で消耗が激しかった六角軍を叩き、勢いそのままに一旦佐和山城に撤退、その後小谷城の奪還に取り掛かる心算であった。


 ゆえに、浅井軍は全力をこの突撃に捧げるほどの勢いを帯びていた。


「悪いが私も此度だけは負けてやるわけにはいかぬのだ」


 勢い盛んな浅井軍の突撃を見ても、定頼は冷静さを保っている。一度は浅井軍の底力を目の当たりにして遅れをとったが、同じように劣勢を甘受するほど、定頼も甘くない。


 定頼は手負いの六角軍が正面から衝突しても甚大な被害を被ることは必至だと考えていた。それでも無理を押して追撃を敢行したのは、靖十郎が編み出した釣り野伏を試行するためである。


 背中を見せて逃走すれば、浅井の勢いに恐れ慄いたとか、傷病兵が多く戦える状態ではなかったとか、色々な思考が巡る。中には当然、罠だと捉えるものもある。


 しかしながら、定頼は背後に冨樫軍が控えているという事実が、浅井軍の選択肢を狭めると考えていた。浅井からすれば、できる限り早く六角軍を片付けたいと思うはずなのだ。浅井が手をこまねいている隙に冨樫軍が背後から襲いかかれば、瞬く間に瓦解するのは自明の理である。


 もし浅井が乗って来なくとも、既に浅井の退路は断たれている。難しい舵取りを迫られるのは明瞭であった。


 結果的に、浅井軍は定頼の思惑に応えることになる。


「囲い込め!」


 しかし伏兵に脇腹を痛打されながらも、浅井軍は緒戦の高い士気、凄烈な勢いを維持して戦い続けた。


「負けるな! 六角弾正の首を取れ!」


 亮政は陣頭に立って汗を散らしながら将兵を鼓舞する。


「お主は強い。負けを誰よりも知るからこそ、その異質な強さは賞賛に値する。だがもう良いであろう。私も六角の家督を靖十郎に譲る。これで終わりなのだ」

「負けるわけには行かぬ! 負け続けた儂を信じ、慕い、共に戦うと決めた者たちの期待に応えなくてはならぬのだ!」


 お互いの言葉が届いていないにも関わらず、両者は魂の殴り合いで共鳴を見せる。


「先の戦で、一度は私を追い抜いたのであろう。しかし私もお主に負けて強くなったのだ。ゆえにお主には負けぬ。幕府の管領代としての意地、矜持がある。二度も負けてやるわけにはいかぬ!」


 その言葉に呼応するかのように、六角軍は一気に浅井軍を三方から押し込んでいった。窮地に立たされた亮政は、歯を軋ませながら、それでも諦めぬと掌に携えた軍配に力を滲ませる。


 『稀代の野心家』でありながら、常に人を気にかけ、戦略に長け、民に愛された男。その勇姿は戦う六角軍の将兵の心に畏怖の心を植え付ける。そして強き男だからこそ、自分達の手で葬り去ることがせめてもの手向けだと、定頼は攻撃を緩めることなく全力で立ちはだかった。


 その頃には、小谷城から出撃した冨樫軍の増援も背後に迫っていた。四面楚歌の状況になり、亮政はついに死を悟る。しかし焦るでもなく、悔しがるでもなく、その瞳に帯びるは圧倒的なまでの戦意。そして口元には微かに黄ばんだ歯が鋭利に顔を覗かせていた。


 周囲の将兵は、その表情を見て目を丸くする。敗北の二文字があと少しのところにまで迫っているというのに、側から見れば余裕があるかのような顔つきを見せたからだ。将兵はもれなく不気味に思いつつも、それは冥府に誘われることに対する本能的な恐怖心を打ち消した。


 そして戦いは終局を迎える。覚悟を固めた死兵となって槍を振るう浅井軍は、最後の一兵になるまで勢いを失わなかった。


 勝利を迎えたはずの六角軍も、緒戦の被害も相まって目を覆うほどの損害を被っていた。浅井亮政が残した爪痕はあまりにも大きい。冥府に向かう覚悟で一兵でも多く道連れにしようという意気は、浅井亮政が、浅井軍が強みとしていた「決して諦めない」粘り強さを最後まで見せていた。


 かくして近江全土を巻き込んだ戦いは終わりを告げる。結果としては六角の勝利とはなったが、六角にとってはあまりに大きな痛手である。嫡男である義賢を失い、六角家の土台を揺るがされることになったこの戦が、戦国の情勢に大きな影響を与えることになるのは言うまでもなかった。

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