エピローグ

 晴れやかな春の昼。

 澄んだ青空と緑豊かな木々の下、僕たちはドリームボックスがある山とは別の山中に位置する公園広場に徒歩で向かっていた。


「しろさきー!ねぇ、早く行こうよー!」


 やや先を歩く小春が声を張った。

 少女は足を止めてこちらに振り向いていた。尻尾は揺れ、今にも走り出したそうに意思表示をする彼女は、あの頃と同じく快活な様子だった。

 白い雑種犬。愛した犬人。もう会えないとばかり絶望していたが、長い時を挟んで再会を果たせた大切な少女──。彼女と過ごせる時間には限りがあるにせよ、これまでは一秒たりとも無かったのだ。今に満足しなければいけないと自戒する。

 微笑んで小春に応える。


「そう慌てなくても飯は逃げないよ」


 片手に提げていたピクニック用のバスケットを上げた。

 あの再会後、供え物の弁当の存在に気づいて腹を空かせた小春の提案により、もっと桜が綺麗な場所で花見をすることになったのだ。そこで一度自宅に戻って追加の弁当を用意するなどして、今は歩きで近所の山の中を移動中だった。


「え〜。でもおなかぺこぺこなんだもんっ」


 平たい胴体を両手で撫でる仕草をしながら、彼女は冗談っぽい口調で不満を呟いた。昼食の存在をチラつかせられ、途端に空腹感に苛まれたらしく、尻尾の揺れる速度が鈍った。


「花見しようと言ったのは君だろうに」

「シートあるし、もうここで座って食べちゃお?」

「ここまで来てか?ちょっとは我慢しろよ。あと少し登った所が公園になってて、桜の名スポットだからさ。展望台もあるんだぞ」

「うぅ〜。桜ならここにもあるし、しろさきのお弁当の前にはそんなの関係ないよう……」

「そう言ってくれるのは嬉しいけどさ。その調子じゃ、お花見なんて小春にはまだ難しそうだな」

「ふーんだ。花よりお団子だもんね!」


 ぷっくりと頬を膨らまし、小春はからかわれたことに軽く拗ねた素振りをとった。そんな彼女を眺めながら、心底幸せを噛み締めた。


 慰霊碑区画で再会した後、花見するため僕たちは車で下山した。いつぞやのクリスマスイヴの時のような要領ではなく、きちんと正式にドリームボックスからの認可を得てからだ。

 どのみち施設に留まっても小春に居場所はなかった。ならば今後は外に出してやろうということで、他の面々ともスムーズに話がまとまると、今日は仮病を行使して早退した。ここ最近は仕事で根を詰めていたことを周りも把握しているので、快く了承してくれた。十五年前から僕と小春の親しい関係を知っている職員には多少笑われたが、彼等も同じように認めてくれた。中にはあの時は事情を黙っていてすまなかったと改めて頭を下げてくれる人もいた。

 樗木さんや佐中さんから事情を聞いた当時こそ職員の彼らを恨んだものだが、日々の仕事や、それこそ犬人誕生の真相が書かれたあのメモ書きを読んでからはその憎悪の感情も薄まった。結局のところ、彼らにはパスツール投与剤のことは今も知らされていない。

 彼らをはじめ、勘違いしてた樗木さんも、今日という日まで騙されていた僕も──全ては歪な親である佐中さんの駒だった。同じ穴の狢に敵意をこれ以上抱くことは無駄に思われたのだ。

 そうは言っても、彼らにパスツール投与剤については絶対に教える訳にはいかなかったので、あのメモ書きの書類は、線香用に慰霊碑近くに置きっぱなしになっていたライターで燃やして処理した。彼らはかつて実験個体の真意を黙っていたのだから、今度は僕が黙っていても文句を言われる筋合いはないだろう。

 いずれにせよ僕は遺伝子技術に関しては素人で、治療薬の開発には関与していないが、彼らがいかに有能でもおそらく小春が天寿をまっとうするまでの期間に治療薬を開発することは困難だ。しかし可能そうになったら、この役職に物を言わせて阻止するつもりだ。容赦はしない。


 ……それはともかく、かねてから念願だった──人目を気にすることなく、誰からの指図も受けることのない状態で、小春を広い外の世界に出してやることができたのだ。ひとまず今はそのことを喜ぶべきだった。


 法的にも現在、小春は僕の犬人ということになっている。一人と一匹という関係は今後も続けられるのだ。

 犬人の個人所有は世間ではあまり見られないが、全くない訳ではない。犬人は当初からの政府側の想定にもあったように、身体障害を抱える人々や生活に補助が必要な一部の個人の手にも渡っている。それは僕のように犬人の研究職に就く人間も同様だった。犬人研究員なら、研究対象として承認さえ降りれば、専用の個体を施設の外でも飼うことを許されている。僕も小春を表向きにはそう扱うことで施設とは話を通した。


 彼女との再会に喜んで、いっそこのまま施設も辞めてしまおうかとも思ったが、そんな経緯があったので結局ドリームボックスからは離れられそうになかった。

 だが片腕ぐらい切断すればその一部の個人とやらにもなれそうだ。割かしそれを本気で考えた。そうすれば今の研究職も辞められて、もっと小春と一緒にいてやれるだろう。かつての彼女も、僕の世話がしたいと望んでいたではないか。

 昔は秋の試験に合格するべく勉強していた小春のことだ。犬人として年老いたとはいえ、能力自体はまだあるだろう。

 実際──小春はそこのところはどう考えているのかと気になった。暇つぶしがてら聞いてみることにする。彼女はというと、空っぽの腹を擦りながら、まだ僕のことを見上げている。昼食を所望するような目つきをしていた。


「なぁ小春」

「なに?あ、ここでお弁当食べる?」


 彼女はきらきらと眩しく目を輝かせた。

 この食い意地に呆れて、思わずため息をついてしまう。質問することを一瞬忘れて歩く。少女を横切りながら、その背中を軽く叩く。


「食わんよ。そろそろ行こう。ほら歩け、ラストスパートだから」

「うう」


 むすっとしながらも、催促するなり彼女は歩き始めてくれた。今度は僕の真横で並んでいる。


「……あのさ小春」

「んー?」

「何したいかって聞いて、ずっと僕の傍にいたいって少し前に言ってくれたよな」

「うん。それがどうしたの?」

「いや、僕もそうなんだ。それで──腕の一本でも切ったり、どっかに回復不能な怪我をすれば、小春を僕の介助犬にしてあげられるかもって考えたんだが……どう?」

「おかしなこと言わないでよしろさき……ケガなんてダメだよ」

「でも、そうすればドリームボックスを辞めても小春といられるかもしれないんだよ。そしたら仕事しなくてもいい。もっと君との時間も増やせるだろ?」

「お仕事やめるって……お金あるの?しろさき」

「この十五年に貯めてたから大分ね」

「うーん……でもさ?しろさき、さいしゅーしょくはとっても大変だって本で読んだことあるよ」

「再就職って……まぁそうなんだけどさ」


 こちらの提案に大喜びするかとばかり考えていたが、小春は意外にも現実的なことを挙げてきて、僕はなんだか自分が情けなくなった。


 小春の意見に間違いはない。

 そうか──。彼女が死んだ後、残されるのは僕一人なのだ。それでも、また生きていかなかればならないのだ。彼女は自分が死んだ後のことも含めて考えてくれているのだろう。


「あと……そんなことしなくても、しろさきがお仕事してるときに私がしろさきの近くにいればいいんじゃないの?」

「言われてみればそうだな」


 研究対象として扱われるのなら、ドリームボックスに出入りしても、職場で傍にいても不自然ではない。否、担当時代のように観察個体の扱いと変わらない以上はむしろそうするのが自然とも言える。


「ごめん。変なこと聞いて悪かった」

「んふふ。しろさき変なの。でもね、すごく嬉しいよ──そんなに私といたいんだ?」


 いたずらっぽく笑った小春の笑顔は、大人びて見えた。

 僕が無言で頷くと、小春はまた元気を取り戻したようだった。隣から離れて、歩いていた緩やかな坂道を今度は素早く走っていった。途中で彼女はこちらに振り向く。


「ありがとっ。私もだよ!」


 屈託のない笑顔でそう言った少女はその場で飛び跳ねた。とても幸せそうだった。

 けれどその光景を前にして、一松の不安が沸いた。全身が劇的な恐怖におとしめられた。


「小春っ」


 僕は走って彼女の元へと急いだ。すぐに追いつくなり少女を全力で抱きしめる。


「わっ……えへへへー。どうしちゃったのしろさき?急にとびつくとあぶないよ?」


 注意には返事せず、僕は彼女の身体をきつく抱擁した。あたかも感触を覚えるかのように。

 小春の甘い声が近くでする。少女の小さな身体を感じる。温かい。生きている。この子はここにいる──。そう確かめても、依然として僕の内側に這う、鬱蒼とした不安感は消えなかった。

 彼女が隣からいなくなり、山中のこの道を駆け出した時、不意にあの時のことを思い出したのだ。シロのことを。

 あの子は今日みたいな春の日に、それもちょうどここみたいな山中の道で、突然僕の前から去っていった。例によって彼女と小春はまるで生き写しであるかのように雰囲気から性格まで何もかもそっくりだった。それで今さっき、走っていく小春が、シロのように自分の元からいなくなってしまうのではないかという漠然とした恐れに結びついたのだ。

 小春が目の前からいなくなるのは耐えられなかった。

 しかし、それが今この瞬間でなくても──いずれその時は訪れる。犬は人より早く死ぬ。それは避けられない運命なのだ。


 ……ではその時、やはり僕は樗木さんや佐中さんのような狂気に陥ってしまうのか?


 ここでこうして葛藤するぐらいなら、初めから二人のどちらかに賛成しておくべきだったのだろうか?


「しろさき?もしもーし?」


 その声ではっとして我に返る。

 少女は不思議そうに僕の顔を覗き込んでいた。彼女の美しい瞳に魅入られそうになった。

 手を離すことはしなかったが、抱擁は解く。


「ごめん。その、不安になってさ」

「不安?なんで?」

「君がどこか遠くに行ってしまうんじゃないかって──怖かったんだ」

「……えへ、やだなぁーしろさき。私、そんなひどいことしないよ?大好きなしろさきのこと置いてったりなんか。ね、早く公園まで行こ?おなか空いておかしくなっちゃいそうだもん!」


 小春は僕の手を引くなり、また走り出した。それも犬人の速度にかなり近いもので。少女に追いつくのに必死で、悲しく塞ぎ込むような感情の余裕もなく、僕は息を切らしながら置いてけぼりにならないよう足を動かした。


 春の山中の空気は暖かく、走りながら呼吸すると、木々の匂いが鼻にこびりついた。桜の花びらが雪のように宙に舞う。その中を駆け抜けると、花びらが星々に見えた。自分が宇宙を走る光になったようにさえ思えた。

 次いで前を走る彼女の犬の匂いが、さっと鼻腔につく。すると記憶が──幼かったあの日、シロを追うべく走った時のことが鮮明に描画されていく。

 犬の殺戮の最中、大人たちからの処分を運良く逃れて山の中で暮らしていたシロだったが、今日のような美しい春の日に、彼女はなんの前触れもなく去った。

 その後ろ姿を必死になって追いかけ、幼かった頃の自分が覚えたのは孤独と寂しい胸の痛みだった。それからというもの、僕の人生は犬へ捧げられた。大人たちの行動と犬の扱いに疑惑を抱き、時間が許す限り犬についての思案を続けた。

 人間は犬に対してどのような姿勢で接し、犬という最愛の隣人をどう愛し、そして犬の死後、犬という存在をどう捉えるべきなのか?

 暗い感情こそ走りで抑えられたが、僕は悪い癖でその疑問までは止めることが出来なかった。だけど、それは今でも……いくら考えても、未だにその問いに答えは出せそうにない。


 一段と強い風が桜の花びらを散らせながら、走る僕たちを真正面から捉えて包んだ。

 小春はそれに負けじと、笑顔で尻尾を振る。


「しろさきー!もっと早く走ろー!」


 犬に関する答えは分からない。何が最良で、何が正解なのか。

 ひとつ言えるのは、あの日シロに届かなかった手は──今は小春がしっかりと握ってくれていて、彼女は僕と共に春の世界にいるということだけだ。






『犬人に会う』終

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犬人に会う 園山制作所 @sonoyama

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