最終話 後編

 桜が散る並木道を突っ切るように駆け抜け、勢いに任せて意気揚々と抱きついてくる小春。

 城崎は少女のことを全身で受け止めながらも、十数年の時を挟んだ唐突な再会に呆気に取られた。瞬時に自身の精神を疑う。ついにこんな恐ろしい幻覚症状まで出てきてしまったのだろうか。

 しかし、少女の小さな身体、顎に当たる彼女の犬耳、獣と女が混ざった匂い、尽き果てることのない愛情を思わせるハグ──を前にして、懐疑は一挙に消えた。

 犬人の少女はここにいる。生きている。脈打つ心臓を持ち、血を巡らせながら、この世界に可愛らしい姿形を保っている。雑種犬の小春は、たしかにここにいた。驚きと感動と、孤独から開放された解放感、それから飼い犬である彼女への遠慮と申し訳なさの気持ちが城崎の心を濡らした。


 少女を引き剥がすことはしなかった。犬人の鎮魂を願う碑に背を預けたこちらのことを正面から塞ぎ、強く抱擁してくる彼女を見て、城崎はそんな気もなくなった。

 飼い主は喜びを全身で炸裂させる小春のことを両腕でしっかりと包んだ。彼女は言葉にならない歓声をしきりに上げながら、犬の部位と、少女の身体を全力で暴れさせる。だがどこか衰えも感じさせた。


「しろさきっ。しろさき、しろさき……!」


 小春は飼い主の名前を何度も呼びながら、彼の胸に顔面を埋めていた。肩を動かすほど大きく呼吸し、満足そうに涙を一筋零す。


「会いたかったよ」

「僕もだ」

「匂いがちょっぴり変わってるけどわかったよ。しろさきだよね?」

「ああ。君の飼い主の」

「やっぱり!でも──それに少し年取った?しろさき、おじさんになってない?」

「あれから十五年は経ってるから。僕ももう四十過ぎだよ」

「十五年っ?え、うんっ?あの、しろさき?それどういう──」

「……小春っ。生きていたんだな」


 きょとんと首をかしげる少女のその仕草は、生前──というより例の薬剤の投与前と何ら変化がなかった。

 疑問をぶつけてくる微笑ましい小春を前にして、これ以上は我慢できず、城崎は彼女のことを改めて思いっきり抱きしめ返した。


「ちょっ。しろさきってば……えへへ、へ?生きてた?私が?」

「そうだぞ。君は生きてるんだ。死んでなんかいない。だってほら、僕がいるじゃないか。ここは死後の世界でも何でもないぞ」

「うーん……。それはそうだけど。ね、しろさき。あのね、わかんないことだらけだよ。だって……私、お星様になっちゃったんじゃなかったの?お薬うったんじゃなかったの?なのに、ねぇどうして?」

「ごめん。僕もこの十五年の間、そうだとばっかり決め込んでた。でもな……本当に今さっき知ったんだが、あの薬──ドリームボックスは、実は安楽死用の投与剤ではなかったみたいなんだよ」

「……えぇー!?」


 小春の素っ頓狂な声が春の世界へと響いた。

 驚きを隠すこともなく叫ぶ少女に、城崎はこれまで氷のように凍りついて顔にしみついてしまった表情が緩んだ。柔らかな笑みが蘇っていく。

 それから飼い主はきちんと説明しようと試みた。とはいえ、彼もその真実を知ったのはほんの数分前のことだった。少女に上手く伝えようとしても出来なかった。そこで、地面に散らばってしまったあの『ドリームボックス計画』なる古い資料の紙を全て集めて、共に読むことにした。


 資料自体にはあばら液に関しての専門用語や知識を必要とされる数式や記号の羅列も多かったが、佐中が後々ペンなどで走り書きしていたような追加事項も散見された。よく読んでみると、三十年以上前のこの計画書は、彼の苦悩や考えを過去から順を追って近頃のものまで辿れるようになっていた。

 一人と一匹はかいつまんで要点だけ眺めた。


 ドリームボックス計画とは名前にもある通り、ここ愛知県の山中にある高等技術研究施設のことだ。したがってその建設計画か何かだろう。実際、佐中は犬人理論の提唱者として、ドリームボックス創設者メンバーでも最重要人物だった。だが、彼により後に追加された文章の数々が物語っているのは、研究施設の建設という社会事業ではなく、彼という一人の人間の野望に他ならなかった。

 それは彼が完全に独断で行っていたもので、日本政府側が全く関与していないものだったのだ。

 追加文によると、大体の流れはこうだった。

 佐中は『犬の殺戮』以降、犬由来の人獣共通感染症攻略の糸口を探すことや、犬人の大量製造による労働力の増強、犬人理論などの主な研究要望を政府側に伝え、それを充分に行える環境たるドリームボックスをつくらせた。

 犬人が普及した社会を形成し、自分が死ぬまでは娘という愛しい存在をいつでも「補充」できる世界にし、自身の狂気じみた親心を満足させる──。ここまでは彼本人からも聞いている。


 初めて目にするのは次の事柄たちだ。

 実は、犬由来感染症の発症後にも有効な治療薬は、ドリームボックスでの犬人製造が始まってから僅か数年で、既に完璧な状態の薬剤は完成していたらしい。作成者は佐中だ。

 遺伝工学の知識や技術に長けていた彼は、昔の家族を奪った感染症に対する恨みと執念から、いつでも病を地球上から滅ぼすため強迫的にウイルスを分析した。あばら液でいくらでも用意できる実験体の犬人を使った非人道的な研究方法と、政府から無制限に与えられる莫大な資金と人材を惜しみなく投じて、発症後でも完治可能なレベルにある治療薬を作り上げていたのだ。

 治療薬の名称は、一世紀以上前に狂犬病に対抗しうるワクチンの基礎を作ったフランスの細菌学者──ルイ・パスツールに因んで、パスツール投与剤とされていた。


 つまり人類は初めから例の感染症を克服していたということだ。その年以降に製造された犬人は、言ってしまえば実質的には無駄な個体だったのだ。

 しかし彼の目的はあくまでも娘の複製を作り、老後を過ごす自分の傍に置くことだった。それには犬人が社会生活に溶け込むことが必須条件だ。だが自分がこの世を去るまでの残り数十年の期間、犬人が世界に根付くこともない状態でパスツール投与剤を発表し、感染症を根絶してしまったとしたら──?無論、犬人はその存在意義を失ってしまう。感染症の撲滅をもって、犬人の研究及び製造の必要性が消えてしまうのだ。ドリームボックスは本来、感染症の治療薬を開発するために設立されたので、犬人による労働力の増加という名目だけでは施設の存在意義を政府は納得しないだろう。

 幸いなことに、厳重な情報管理の結果、施設内の人間でもパスツール投与剤については知らない職員が大多数だった。人類を犬由来感染症という恐怖から救う手段たる投与剤。それはあるが、外には漏れていない。彼はこの状況を利用し──嘘をつき続けることにした。「治療方法はまだ確立していない」という最悪の。こうしてドリームボックスは政府の金食い虫となりながらも、表面上はウイルス研究を続けた。

 問題だったのは、投与剤の完成があまりに早すぎたということだ。当然、まだ犬人は社会に根付いていなかった。分析という形で病への報復は完了したが、これでは娘と暮らせない……。そう考えた彼は焦った。そこで彼は、犬人の社会化プロジェクトを推し進めようとした。

 だから施設内の犬人に対する酷い扱いを是正するべく犬人理論を取り下げたかったが、理論の発表者が自分自身である以上、迂闊にそうすることは出来なかった。そもそも、犬人の自我や心を認めない主張を含んだ犬人理論は、政府関係者と施設職員たちが人の形をした犬人の扱いに対して否応なしに持ってしまう倫理的な抵抗や配慮を徹底して排除し、いかなる実験でも迅速に対応させ、パスツール投与剤の開発を早めるために所長たる彼が公表して機能していた背景がある。

 ここに至るまでの間、他の職員や政府関係者たちからの厳しい抗議も払いのけ、非道な研究を続行していた立場にあった。ここで自説を曲げるような発言をすれば、周囲の信頼を失うことにも繋がりかねない。これは所長職でいることの不安要素となる。それはドリームボックスでの発言力を低下させ、犬人社会化という悲願が阻止されてしまうかもしれなかった。彼は自分の口からあの理論の誤りを認める訳にはいかなかったのだ。

 そこで彼は考えた。パスツール投与剤とは別に、もうひとつの治療薬を研究していることにすればいい、と。

 パスツール投与剤の開発に至るまでに得たデータから、いくつか重要な箇所を故意に損失させた不完全なデータを何の事情も知らない若手の研究チームに任せ、事に当たらせた。そうして彼抜きで十年がかりで出来上がったのが、薬剤・ドリームボックスだった。この名前は正式なものだ。ついに完成したので施設の名前を冠して──という白々しい誇張は、堪忍袋の緒がきれかかっていた政府役員たちを大いに歓喜させることになり、即座に感染症を発症した犬人への投与実験が行われることになった。

 もちろん、この時点でも未だにあの犬人理論が邪魔をした。施設内の犬人は職員から愛情を受けず、ぞんざいに、ゴミのように扱われる個体ばかりだった。自閉症や分離不安症を患う個体ばかりで、研究対象としては扱えたが、とても人前で人間らしく振る舞わせることは困難だった。誰にも犬人社会化というのは夢のまた夢のように思われて、彼は危機感が募った。このままでは社会化の前に感染症の方が撲滅されてしまう──。


 ここで彼に起死回生のチャンスが訪れた。

 この治療薬の性能を測るには前提として問題があったのだ。例の感染症には最大で数年以上にも及ぶ長い潜伏期間が伴うことだ。発症後に効果を示さなければならない治療薬として、発症している個体が求められた。そこで何体かの犬人は製造時に人為的にウイルスを仕込まれた。そう、小春のような実験個体である。

 また難題はそれだけではなかった。この治療薬は理論上、発症後の個体にも有効と予測されていたが、副作用も危惧されていた。投与後に強い発作や心肺停止、あるいはその後に長期間の昏睡に陥ってしまう可能性が高かったのだ。また、問題なく正常に作用しても、一定の潜伏期間を経て再発症するかも──という異常なまでの不安が恒常的につきまとった。

 彼が抜擢した研究チームに若いメンバーが多かったことがここで功を奏したのである。彼は不安を煽るため、職員にも政府役員にもまくし立てた。あれは後々には本物の人間にも打つものなのだ。人々は感染症を恐れている。発症後にも効くと分かれば注目の的だろう。将来的には海外への輸出品にもなり、日本という国家の信用が問われる物にもなる、と。


 当時、犬は『犬の殺戮』で絶滅手前であり、すぐにまた感染症が人類に猛威を振るう状況下ではなかった。事態を考慮し、恐れを生した政府は、施設側には万全を期すよう強く求めた。失敗は許されなかったのだ。

 その後に十数年単位に及ぶ観察調査が新たに予定され、それまではひとまず、研究自体と犬人社会化のプロジェクトも進められることになって話は落ち着いた。


 こうして首の皮が繋がった彼は安堵したが、結局は社会化が叶えられそうにないことを悔やんだ。


 落ち込む彼に呼応するように、治療薬の実験自体にも最後の難問が発生した。実験個体が発症するタイミングはある程度の予測がついたものの、それまでの期間、その個体を施設から逃亡させることなく、それでいて牢屋に幽閉し続ける訳にもいかなかったのだ。動物愛護団体や政府側から差し向けられる視察があるからだ。これまで犬人理論によって、犬人をぞんざいに扱うことしか教えられていなかった職員は困惑し、彼女たちの世話に手を焼くことになった。

 これを解決すべく、上層部は潜伏期間中である個体一匹に、何も知らない新人の担当者を設けるという贅沢な人材の割り振りを決定した。


 そして彼はここでひとつの妙案を思いついた。

 犬人理論に真っ向から反対する愛犬家を探し、その人物に犬人社会化を推進させようと。自分は身を引き、娘と共に隠居しよう──と。


 その後、樗木がまずターゲットとなった。彼女は担当していた飼い犬が発症した時点で、城崎と同様に安楽死を懇願した。彼女はそれがドリームボックス投与剤によるものだとは伝えられていなかったし、知る由もなかった。他の一般職員はパスツール投与剤の隠蔽については全く知らなかったが、ドリームボックス投与剤による実験自体は予め認知していた。だが厳重な守秘義務が強いられ、樗木に教える者はいなかった。

 何も知らなかった樗木は憤怒した。彼女は、施設が実験個体を使って、感染症の研究をしているのだと早とちりした。実際には感染症の研究というより、治療薬の反応を見るための実験個体だったに過ぎない。しかし彼女は暴走し、ペットロスとなるであろう飼い主となる職員を外すことに奔走した。


 それから一年待たずして、今度はF型雑種犬・204の担当として引き抜かれてきた新人の研究員・城崎がこの施設に転属してきた。

 樗木は過去の自分と同じ道を歩みそうな城崎を気にかけた。それで異動させようとした。佐中と能登谷は樗木の行動に顔を見合せた。万一に彼女がこれらのことを外部にリークしても揉み消すことは容易だったが、佐中も能登谷も自身の地位の剥奪を恐れ、表向きには彼女側に譲歩することもして機嫌を取る他なかった。城崎への不要な異動勧告について、二人が彼女に一時的に手を貸していたのもこのためだ。

 この異動に頑強に反発した城崎の姿を見て、佐中は彼こそが──と思うようになり、犬人理論を否定したことによって決定づけた。


 これが一人と一匹が出会う前に起こっていた──研究施設における人と犬の関係の全貌だった。


 比較的新しい文字には、ほんの数時間前の記載もあった。別区画で監視と経過観察が行われていた小春だったが、十五年ぶりに昏睡が解けて意識が回復した報告を受けると、彼はこの書類と投与剤を持ってこの施設に訪れたそうだ。

 真相を一人と一匹に伝えるため、さきほど能登谷のデスクに顔を出してこれを渡すようにと置いていったのだろう。もう一人と一匹は用済みなのだろう。


 書類の最後に当たると思われる空白の用紙には、直筆で『利用してすまなかった』と謝罪が述べられていた。元所長の書いたそれを読み終える。城崎と小春は、かつて一緒に本を読んだように、石の階段に並んで腰掛けてぴったりと身体を密着させている。

 両者とも何も言わなかった。

 全てを知って悲嘆に暮れることも、悲哀に打ちのめされることも、執筆者の狂気と行き過ぎた愛情に苦言を呈することもしなかった。

 一人と一匹は、自分たちの関係の経緯に関して、もはやあらゆることをあるがまま受け入れていた。いや、受け入れるしかなかったのだ。たとえ自分たちが出会うまでに必要なことがどれほど凄惨で、本当はなかった方が良い世界があったかもしれないにせよ──それでも自分たちの関係は、自分たちだけものだと深く確信していたのである。


「懐かしいな。こんな風に小春と物を読むのは」


 『ドリームボックス計画』の書類を片手に、城崎は隣に座る飼い犬へ視線を向けて切り出した。


「うん。ずっと眠ってたから私はよくわかんないけど……こんなに長い時間、しろさきは私を待っていてくれてたんだ?」

「そんな健気なもんじゃないさ。諦めて、項垂れて、ただそれでも──死ねなかっただけだよ」

「もう!そんな悲しい風にいわないでよ。もしさ、しろさきが今日までの間に死んじゃってたら……こうして私とここで会えなかったんだよ?」


 小春に励まされて城崎は小さく笑った。彼女の言うことはもっともだった。


「それもそうだ」


 飼い犬を失ってからの彼は、それこそ何回か数えられないほど自殺を考えたものだった。だがそうすると必ず、昔、雨の日の屋上での小春との会話を思い出してしまうのだった。

 それは自殺をしようとする飼い主を止める権利が犬人にはあるのか、という内容の雑談だった。

 城崎は飼い犬の頭を撫でる。

 春空の下、くすぐったそうに微笑む少女は一段と美しい。


「小春が救ってくれてたんだ」

「私が?」

「そうだ。僕のこと、ずっと……君は見守ってくれてたんだよ。ありがとう」

「違うよ。それは私の力じゃないよ。だって寝てただけだもん。しろさきが生きていてくれたのは、しろさきの力だよ?」

「いいや。小春が僕の心に留まっていてくれたから……自殺しなかったんだ」


 佐中の計画に手を貸すことを決め、チームのリーダーとして忙しい毎日を送っていた城崎は、ふと休憩に南棟屋上に行くと無意識にフェンスを登ろうとしていたことがあった。その度に地面に誘われている気がした。落ちれば確実な死がある。死ねばあの子の元に行ける──。そう思って身を投げようと考えたことが幾度となくあった。

 けれど彼は踏みとどまった。死ぬのが怖いわけではなかった。

 小春とのあの会話があったから、自身の命を捨てることは出来なかったのだ。ここにいない飼い犬によって自殺を止められるとは──。そう昔の彼は自嘲したが、今となってはそれは正しかった。

 当時はもちろん、ドリームボックス投与剤の副作用のことも、実は小春が副作用でずっと昏睡状態にあり、経過観察のために別の区画で生きていたことも知らなかった。

 飼い主の言葉を聞くなり、小春は嬉しそうに両腕を広げ、空高く挙げる。


「じゃあさ?あのねっ。これまでさ?しろさきは私のことずっとずーっと考えていてくれたのっ?」

「そりゃそうだよ。寂しかったから」


 城崎は軽く頷いて応えた。

 一方、小春はおずおずと両腕を下げる。顔つきもどことなく暗い。彼女は声を潜める。


「……ねぇ。じゃあさ、そのね。しろさき?あの約束、まもってくれた?」

「約束──?あ、あぁそのことか」


 ぎょっとした。城崎は隠されていた短冊を見たことを思い出したのだ。だがすぐに、少女の言っているそれが犬代替可能説のことだと気づく。


 小春のいない間、日を追う事に城崎は彼女を切望した。それが叶わぬ世界が構築しつつある中で、娘の代理個体と幸せな余生を過ごしている元所長と、彼の論理に屈服してしまいそうになったこともたしかにあった。

 そんな時には、ドリームボックス投与剤を打つ前に小春へ読み聞かせした際、口に出した『星の王子さま』の文章をそれこそ本好きな彼女のように飽きることなく読み返し、自身を正気に呼び戻したのだった。

 城崎はこの時ようやく自身の選択が間違ったものではなかったのだと信じられた。佐中に降参していたとすると、今頃は小春の代わりとして溺愛する他のF型雑種犬と、昏睡から目覚めてここに来た小春本人との間で、かつての195の時と似たような修羅場が待っていただろうから。


 小春を裏切ることにならなくて、本当に良かった──。


 犬と人の関係は、複製できない。模倣も再生も不可能なのだ。代わりを用意することなど、人間にはとてもできないのだ。


 ──やっぱり、君のおかげだよ。


 城崎は目元にじわりと出た涙を指で拭き、飼い犬の手を握る。


「守っていたよ。当然だろ」


 笑う飼い主の声を聞き、再び打って変わって、少女はぱっと表情を明るくする。無邪気にまた飼い主の胴に手を回して引っ付く。


「ほんとっ!?ならよかった!しろさき大好き!」

「ははは、あんま押すなって──あっ」


 彼女が引っ付いてきたその拍子に、近くにあった茶封筒の中身が石造りの床と共鳴する重い音を立てた。秘匿された物とあってか文字が黒塗りして潰されていたパスツール投与剤と、ドリームボックス投与剤が入った小瓶だ。

 小春は飼い主を不安げに見上げる。ころころと感情表現が切り替わる少女は、病み上がりとあってか気持ちが少しナイーブなのかもしれない。


「……私たちどうなっちゃうのかな?」


 その質問に、城崎は答えられなかった。

 実験個体としての小春の役目は終わった。犬人はもはや社会化しているから、施設内で年老いた個体の小春は今や無用の長物になっているだろう。その手の個体を施設がどう処理するかは嫌でも知っていることだが、それも今では過去の話だ。犬人の保護も早急に求められる中、製造元たるドリームボックスでの犬人虐待は研究を除けば監査もあるのでほぼ不可能だろう。とりあえずの小春の身の保証はできたと言っていい。

 しかし昏睡中、彼女の身体の時間も動いていた。外見は固定されているのであまり変化はなく少女のままだが、しっかりと年はとっているはずだ。投与剤を打った春の時点で二歳だったから、今は十七歳となるだろう。犬人の寿命は最大でも二十代前半と聞く。過去の報告でもそれを越す個体はいなかったそうだ。

 城崎はやるせなく苦笑した。せっかく会えたというのに、最初の時のように残り時間を気にしながら生きなければならないとは、と。

 けれど当時より時間が多いことも事実だ。それならば、何か他に出来ることがあるはずだ。


「小春」


 城崎は少女のことを呼んだ。


「なぁに?しろさき」

「何かやりたいこと、あるか?」

「しろさきと一緒にいたい。ずっとね。それだけだよ」


 返事する小春の瞳には、いたいけな少女の光が宿っていた。真剣な眼差しだった。


「……そうか」


 城崎はパスツール投与剤の小瓶を束ねたセットを拾った。

 瓶の茶封筒には薬剤の取り扱いの他に、佐中からのメモ書きが入っていた。


『完成版パスツール投与剤はここに入っている物で全てだ。他に現存する物は私が破棄した。既に私の戦いは終わったからだ。詫びという訳ではないが、これをどうするかは君に託す。犬人を世界に送りだしてくれて、ありがとう。城崎くん』


 佐中の他の文章によれば、小春などの実験個体を使っても、施設はドリームボックス投与剤の調整剤に未だに手間取っているそうだ。

 つまり城崎の手元にあるのが、人類を早急に病から救う唯一の手立てということになる。

 ざっと書類を読み終えるなり、立ち上がった。


「小春。耳を塞いでてくれ」

「いいけど……なにするの?」

「悪いこと」


 そう言った瞬間、城崎はパスツール投与剤の小瓶を懇親の力で遠くの茂みへぶん投げた。

 区画の端には木々の茂みと野ざらしのコンクリートのタイルブロックがあり、着地した瓶はけたたましい悲鳴を上げて砕け散る。内容物は外へと吐き出され、あっという間に回収不可となった。

 小春はこの出来事にかなり驚いたようで、手で頭の上に倒していた犬耳をぴんと屹立させる。


「しろさきっ?な、な、何してるの?」

「ごめん。瓶の音、うるさかったかな?」

「ううんっ。そうじゃなくて……」

「いいフォームだったな。いや嘘だ、ちょっと肩痛めた」

「だ、大丈夫……っ?しろさきの肩も──それに、あのぱすつーるってお薬。あれないと、その……この世界の病気、どうなっちゃうの?」


 小春は目をぱちくりして、飼い主の行動の意味が分からないとでも言いたげにしていた。犬人の彼女からしてもパスツール投与剤がいかに大事なのか理解はしている様子だ。

 慌てふためく少女とは裏腹に、飼い主は静かに笑っている。


「小春。副作用があったにしろ、ドリームボックス投与剤で君の身体を蝕んでいた感染症はもう治ってるんだ。だからあの薬は僕たちには必要ない」

「でも、それって……?」

「お察しの通り、かなり悪いことをしてる。でもパスツール投与剤が量産されたら……世界から犬人が必要じゃなくなるだろ?それは嫌だ。僕はまだ小春と生きていたいんだ。分かってくれるか?」

「……うん」


 小春は目を伏せた。彼女は両手を胸の前で合わせ、手持ち無沙汰といった感じに弄んでいる。傍から見ると、何か思い悩んでいるようにさえ思えるだろう。だが顔は真っ赤だった。照れと恥ずかしさが混じって、眼前の飼い主に視線を上げていられなかったのだ。


「あの。ね、ねぇしろさき、それ……告白?」

「かもな」


 城崎は薄く笑った。小春は何も言えずに顔の赤みを濃くした。

 笑顔で頷く小春は、少しだけ目を飼い主に向けたが、すぐに背けた。気恥ずかしくなった一人と一匹はしばらくの間、互いの距離を意識した。

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