最終話 前編
暖かい春の風が頬を撫でた。並木道の桜は満開で、空に花びらが舞って散っていく。
ドリームボックスの敷地内に新しく築かれた外区画。その道を歩くのは一人の研究員。もう歳だろうか、ここに訪れるまでの遊歩道コースで早くも息が途切れそうになった。
春風で優しく白衣を揺られながら、彼は区画内の目的地に着いて立ち止まる。
「小春。久しぶりだな」
そう発してから、研究員──城崎は苦笑した。当然ながら返事はなかった。この独り言にも慣れてしまった頃だった。
目の前には巨大な慰霊碑がある。実験などで死んでいった犬人を弔うために設置されたその下で、手提げカバンから弁当箱を出す。次に続々と出てくるのは愛犬との思い出の品の数々だ。少女が大切にしていた短冊、本たち、勉強用のノート。それらを愛おしく確認してから、城崎は青空へ目をやる。
「今日はいい天気だな。小春。君にぴったりの、よく晴れた日になったぞ」
にっこりと笑って、彼は独りで言葉を継ぐ。
「だから弁当を作ってきたんだ」
桜の花びらも慰霊碑までは届いてきそうになかった。弁当箱の蓋を開けて、それを献花台の傍にある供え物用の台に置いた。中身は彼女が好んでいた鮭のおにぎり、甘い卵焼き、それに唐揚げだ。
「このメニュー、好きだったろ……」
彼女からの無邪気な歓声は聞こえない。
不意に目頭が熱くなった。だが悲しみに膝から崩れるようなことはなかった。良くも悪くも、月に一回のこの墓参りめいたものに激しい感情が萎えて、鈍化してしまっている。
その後も彼女へ近況報告をひとしきりしてから、碑へ続く石造りの階段に座った。その頃には気分も平常になっていた。今はいない少女と共に、遠方に姿を現す街を眺める。
この区画は施設がある山中でも一際高い所だ。山の斜面を削って作られており、南棟の屋上よりも空に近い位置にある。ここからだと外の街並みを一望することができた。
柔らかな風が吹く。彼女の遺品であるノートがぱらぱらとめくられていった。
「そういえば今日は四月八日か。小春、覚えてるか?僕たちが出会ったのはこの日だったよな」
──それに、こうして世界を作り変える決心をしたのも。
それは口に出さなかった。今の自分を見た彼女が喜んで褒めてくれるのか、研究員には分からなかったからである。
小春が去ってから今年で十五回目の春が訪れていた。初老となった城崎は、風に包まれながら運命のあの日へと思いを馳せる。
十五年前、あの生成プラント区画での佐中所長と対峙した日のことは今でも鮮明に記憶している。当時の所長から迫られたのは、犬が復興した世界と、そうではない世界の片方だけを取れというあまりに重大な選択だった。
どちらを選ぼうとも、先にあるのは犬人の絶滅という救いのない道だった。
城崎は選んだ。犬人を人間社会へ適応させることを。本格的な社会化を推し進めて、犬人を暫くはこの世界に延命させ、ゆくゆくは犬由来感染症を犬人研究によって克服するという先頼みの計画を。この選択は不穏な面もあった。治療方法を考案して感染症を撲滅しても、せっかく日常に根付いた犬人を社会から廃絶してしまう暗黒の時代が近いうちに訪れることを同時に意味していたからだ。
それが何十年先になるかは分からないが、そうなるまでにまた多くの人間が、かつて犬を自分たちの友人にしたように、犬人へ深い愛情を注ごうとするだろう。彼らは新しい世界と秩序を築き、共に今の社会を守っていこうと志を固めようとするかもしれない。この選択が、将来の彼らが苦悩するのを見越した上でのものだと知った人間なら、きっとこの研究員を糾弾するはずだ。どうせ死ぬ運命にあるなら犬なんて飼わせるんじゃない、と。かつての樗木のように。現に彼女は、今はもうドリームボックスを辞めている。城崎が佐中からの計画にのったと判断した時点で、施設にいることに耐えられなくなったそうだ。
犬の喪失に悲嘆する未来が決まっているなら、最初から犬なんていらなかった──と嘆く人々が今後出てくる可能性はゼロではない。それは城崎も否定できない。
それでも研究員はこの未来を選び、十五年経過した今でも、過去の選択に悔いを残さないため尽力していた。
犬人教育組織の発足、各省への法整備のはたらきかけはもちろんのこと、国民の理解を得るために各地で何度も講演もした。ここ数年は製造と教育現場の監査、
全ては犬人が受け入れられ、日本社会に普及するために必要なことだった。その甲斐あってか現在では、数十万体以上もの個体が各県や自治体、企業たちへ派遣されて国の力となっている。当然、国内外からは人道・倫理面での批判は絶えないが、犬人はもはや日本という国には馴染みつつあった。
遠方には、目下建設中らしい高層建築物たちが雑草のように育っている光景が延々と続いている。犬人による社会の再構築プロジェクトは順調らしい。回復してきた人口に伴い、国内では建設ラッシュがピーク時を迎えていた。
しかしその眺めを目にする度、最近の研究員は自分の信念が揺らいでしまった。最初はそれらの景色に誇らしげになったものだが、今となってはそれら直方体のビル群ですら、彼の目には犬人たちの死を嘆くためだけに建てられた墓のようにしか見えなくなっていたのだ。灰色のコンクリートと無機質な鉄骨ででっちあげられたその人工物は何を物語っているというのか。早い話、背後にある犬人慰霊碑と、あの風景を成す建築物の群れに何の差異も見受けられなかったのである。
「……小春。僕はさ、間違っていたのかな?」
そう呟いた。相変わらず答えが返って来る気配はなかった。
山中の開けた慰霊碑区画に、彼の声だけが春風と混じって伝わった。
「寂しいな。なぁ小春、このままじゃ僕は浮気するかもしれないぞ?いいのか?」
おちょくるように言った。もしあの嫉妬深い少女がこの場にいれば、彼女から憤然とした調子の抗議と叱責を浴びることになるだろう。けれどここには疲れ果てた研究員しかいなかった。
城崎は独り身だった。犬人関連の大きな職務に時間を投じていたので、結婚はおろか交際も機会に恵まれなかった。それに彼は、佐中から持ちかけられた悪魔の誘いを拒んだ。愛犬が死んだ後は代わりの犬を持てばいいというあの馬鹿げた話のことだ。現在の城崎には直接担当の飼い犬は一匹もいない。
当時の会話が克明に脳裏によぎる。
計画には協力するが、あばら液で小春の代理個体を作る気はないと言い放つと、佐中は聡明な顔つきを忘れて呆れたように笑ったものだった──。
*
十五年前のドリームボックス南棟最深部・生成プラント区画。
F型少女をベースに、柴犬の雑種の遺伝子を組み込まれた最後の雑種個体・304と佐中所長を前にしても、城崎の考えは変わらなかった。
「僕はあなたの計画を──心の底から軽蔑します。それでも人の親ですか?犬の飼い主ですか!まったく忌々しい話ですっ。僕に二度とその話をしないでください!」
「……なるほど」
若い研究員からの罵倒に、所長たる老人はせせら笑ってから一歩後ろに退く。すぐに彼はその笑いを止め、血の気が引いたように冷徹な表情に変える。
「前言を撤回しよう。私の見込み違いだったようだな。こっちこそ言いたいね……忌々しいよ、君は。私にこれほどまでに期待をさせておいて、結局断ろうというのだからね。この意気地無しがっ。君のような善人面した愛犬家なら履いて捨てるほど見てきたよ。君もあの樗木と変わらなかったわけだ──ならばもういいっ」
佐中は、犬人製造設備の操作盤上の『強制終了』スイッチを入れた。数十秒も経たないうちにカプセル内の304は口から空気の泡を吹きながら、もがき苦しんでいく。
力づくで外に出ようとする304だったが、犬人の力でも外殻は傷ひとつつかなかった。やがて彼女は息絶えた。あばら液の中ではただの肉塊と化してしまった個体が浮力に任せて漂う。
「これで話は終わりだ。私は今からここを潰す。何もかも終わりにしてやる──君はさっさと失せろっ!」
「何を勘違いされてるんです?」
「なんだと?」
冷静に話を切り出す研究員に、佐中は違和感を覚えて声をひそめた。
「僕は所長の計画とお考えのことを軽蔑しているとは言いましたが、なにも計画に参加しないとは一言も申しておりません」
「それは……どういうつもりだ?ははは、まさかとは思うがさっきの犬人が死ぬ様を間近で見てしまって心移りでもしたか?今更遅いぞ、城崎くん。雑種の予備は今ので──」
「いえ。そうではなくて、僕は計画に協力するということです」
「は?」
「ですから、犬人を日本に浸透させるというあなたの野望に……」
佐中はぽかりと口を開いた。彼は力なく笑う。
「気でも狂ったか?つまり君はこう言いたい訳だな?計画にはのる、しかしその報酬たる小春の代わりはいらないと」
「そうです」
「馬鹿なことを言うのは止めろっ。それは君になんのメリットもないじゃないか。私をおちょくっているのかっ?」
「いいえ。メリットならありますよ」
「言ってみたまえ。若き研究者くん」
「小春と約束したんです。代わりは作らないって。それに、犬人が当たり前になった世界をあの子も空から見てみたいでしょうから。あとはそうですね……犬人を生み出したあなたの馬鹿な考えを矯正してあげられることですかね」
「目上の人間に対する口の利き方がなってないようだな」
「所長はご自分のお考えに自信がおありで?」
所長から胸ぐらを掴まれるも、城崎はその腑抜けた態度をやめることはしなかった。ちょうど異動申請書の不備を能登谷に向けて説明した時のように人を苛つかせる語り方だ。
「当たり前だ。私は研究職の人間だからな。自身の発言には最大限の責任を持つ所存だ」
「でしたら所長、僕と勝負してみませんか?」
*
風が止んだ。桜の花びらが絨毯となって、平坦なこの区画を埋めている。
城崎は石造りの床に寝転がった。青空を仰ぎながら、十五年前の「勝負」はどちらに軍杯が上がったのだろうと考える。
あの時、プラント区画層で佐中と交わした勝負とは、犬人が普及した世界が出来上がった時を想定してのものだった。最愛の娘の複製である犬人を傍に置いた佐中と、最愛の犬人を亡くしたにも関わらず代わりを作らない城崎の両者。そのどちらの方が優れた理論であり、幸福になれるかという内容だ。
曖昧な判定基準であることと期間が設けられていないがために、あれ以降、所長という地位から退いて名誉役員になった佐中に対し、その話題に踏み込んだことはなかった。向こうも同じく話すら振ろうとしなかった。
──万一にこの十五年の間に僕が降参していたら、あの人はどうする気だったんだろう?
遺品のひとつである『星の王子さま』を手にしながら、城崎はその疑問が拭えなかったが、いざ落ち着いて考えてみると簡単だった。佐中という人間が少しずつ掴めてきた気もする。
地面に落ちた桜の花びらが風で運ばれるように、さっと疑問が引いていく。
大方、F型の柴犬の雑種個体で現存していたのがあの304だけで、雑種の遺伝子情報のサンプルデータ自体は今も密かに残しているのだろう。もし無いとしても、既存の犬種遺伝子を二つでも掛け合わせれば、それだけでも立派な雑種のデータは作れる。つまり後からあばら液で小春似の雑種個体を製造することは決して不可能ではない。
それで彼は、この十五年もの間──孤独に負けた城崎が「代わりが欲しい」と負けを認めて縋りついてくるのを今か今かと待っていたのだろう。ぞっとする。ほくそ笑みながら、犬は代替可能という説を勝ち誇りながら狂信的に語る佐中の姿は容易に想像できた。あの老人は、若い研究員のことを利用していただけでなく、きっと試していたのだ。彼の言葉を借りるなら、善人面した愛犬家が犬がいないという状況にどこまで挫けないか見てみたかった──ということになる。これが当時、例の勝負を受けた主な理由だと推測できる。
多分、佐中は分かっていたのだ。城崎は304と犬代替可能説を退けるが、樗木ほどは犬人や犬を飼うことまで否定しないということを。犬人が当たり前となり、いつか感染症を根絶し、犬を人間の手に取り戻すという壮大な計画に最低限は協力するということを。
あの時の彼の笑い。これまではてっきり、研究員からの提案に呆れてしまってものも言えない風なニュアンスだと捉えていたが、今思えば──あれは、予想通りの反応にもほどがあって面白かったということなのかもしれない。
「くそ……」
身体を起こしてから、戒めるように発した。
そう考えてみると、あの場で提案した勝負さえ、佐中の思惑と誘導にまんまとのせられたようにしか思えて仕方なかった。
だけど、と言いたげに城崎は空咳をした。手にあるのはかつての愛犬が大事にしていた児童文学の本。
──そうは言うものの、今の僕はひとりぼっちじゃないか。隣に犬なんていない。
「これは僕の勝ちってことなのか」
そう呟いた声が震えていることに気づく。
たしかに彼は十五年に及ぶ長い月日を独りで過ごした。犬代替可能説をその時間の流れによって退けてみせた。
しかし、小春の代理とまではいかずとも、別の犬を近くに置きたい欲求は不覚にも衝動的に何回かあった。犬への愛。犬という種への愛情は、愛犬家としては押し殺しても抑えられないものであった。佐中の考えが誤りであることは承知していても、つい彼の誘いにのってしまいたくなったのが悔しかった。出会って間もない小春に並大抵ではない愛情を注げた理由も、少なからず彼女に幼少期時代のシロのことを投影していたからだ。老人の言い分は全てが嘘のようで、それでいてどこか正しくもある。
城崎は視線を緑の山々からずらし、再び街へと向けた。
そこには犬人の力によって潤う街の景色が地平線いっぱいに広がっている。ここはもう、犬人が普遍的な存在となった世界なのだ。昔なら論文の中のみに記述され、空想し仮定するだけだったもしもの世界。
それが実現し、飽きることなく維持されている現在──やはり例の勝負は未だ継続していると見るのが自然だろう。
──あの人がしたかったのは、こういうことだったのか?犬人が存在する限り……小春の代わりが手に入る環境にある限り、それを得ようか得まいか路頭に迷うような呪いを……犬人を当たり前にした、この僕にかけたかったのか?
白衣のポケットから携帯端末を出す。画面に佐中の文字を見つけて電話をかけようとしたが、怖くなって止めた。
風の噂によると彼は、娘の名前である智春と名付けた一匹の犬人と共に余生を過ごしているとのことらしい。
──それとも、あの人は自分の行いを正当化したかっただけなのか?亡くした娘さんを犬人として復活させて日常を過ごすことを。犬は替えがきくという話と重ね合わて……。愛する存在が死んでも、なおも一緒にこの世界で生きている歪な幸せを他の誰かに認めてほしかったのか?
深く考え込むが、その答えは彼のみぞ知る。
ひとつ分かったことはあの言葉の真意だった。
「……所長、やっぱり僕たちは似てますね」
呻くような独り言を透き通った春の世界へと垂れ流した。
この世界を作り上げるために自分が人生の主要な時期を費やしたのには、実は明確な大義などなく、無責任なものだったのだ──。その時の城崎は、嫌でもそう気づかざるを得なかった。自身と佐中の行動原理が似通っていることを認める他なかったのである。
今の世界を築いた目的は、なにも生きていた小春が熱望したように、犬人が普通に街中にいる社会を実現させることにあるのではなかった。
「結局のところ僕は、自分では答えが出せないから他の誰かに……回答を任せる世界を作っただけなんだろうな」
以前から佐中は主張していた。犬は代替可能で、死んだのならば取り替えれば済むという話。樗木も主張した。後々悲しむのだから、犬は最初から飼うべきではないという話。この双方を心のどこかで僅かながらに賛同していたのだ、と城崎はため息を吐いた。そしてその中間に──否、外側に自分自身を置きながらも、自分はどうすればいいのか分からなかった。
だから、いずれは死ぬ運命にある犬人と犬が混在する今の世界をこの日本という国の愛犬家たちに提供してみせた。
自分の答えは出せないままだが、この世界を守っていれば、いつの日か他の愛犬家の誰かが、佐中や樗木よりもっと良い答えを導いてくれるかもしれない──という根拠のない理屈である。
生成プラントで向かい合った佐中は、計画に参加するメリットを訊ねてきたが、あれも彼の会話上の演技のひとつに過ぎなかったのだろう。
再三にわたって、君は樗木とは違うとやたらと彼が見込んでいたのは、目の前にいる若い研究員が同僚の女性よりも精神的に成熟しておらず、自分なりの答えを出せないことを看破していたからだ。どんな形であれ、この未熟者を追い詰めれば、他人に責任転嫁するために計画へ携わると考え──そしてそれは見事に的中することとなった。
深く、長いため息を吐いた。
孤独と愛情の飢餓感に、すっかり心は枯れている。しかし、干からびてしまったはずの目からは大粒の涙が止まらない。歳のせいだ。涙腺が弱くなってきているのだ、と城崎は誰に向けてでもなく強がった。
涙を白衣の袖で拭っていると、端末の電子音が鳴った。電話が来たのだ。気を取り直して出る。
「はい?」
「お前、今どこだ?」
電話の主は能登谷だった。
「どこって……慰霊碑のある上の区画ですけど」
「そうか。まぁいい、ちょっと渡す物があるから。そこにいろ」
「ええ、はい。分かりました」
会話が広がる訳でもなく、ぷつりと無造作に切られた。
渡す物とは何だろうか。人を使いっ走りにすることに定評のある能登谷が、わざわざこの上の区画に馳せ参じてまで直接渡す物とは。少々気になったが、どうせまたろくでもない機密書類か何かだろう。そう決め込んでから仰向けに寝て、果てのない青空を見上げる。
犬人社会化計画がスタートしてから間もなく、佐中は所長の役職を辞め、新しく能登谷を任命していた。
どうやらこの二人は付き合いは長いものの仲が良いわけではないらしく、元所長がそんな相手を後釜にする意味はないように思われたが、城崎が計画の主任に抜擢されたことを機会に、部下に口出ししない長が求められたというだけのことだった。複製した娘が暮らせる世界を望む佐中にしてみれば、若い城崎の敵になりそうな上層部の他メンバーを新所長にする訳にもいかなかったのだろう。
能登谷はそれに快く応じた。彼はドリームボックスにおける自分の地位の確保だけに執心な様子であり、文句を投げてくる上の人間が周りから消えたことが嬉しいようだった。気がかりなことに彼だけはこの一連の犬人に関する様々な事柄の渦中にあっても、さしたる変化はないように見えた。彼はおそらく元からそういう人間なのだ。南棟研究者たちがこぞって主題にした犬や犬人でさえ、彼からすればどうでもいい。役職は保証され、経歴を汚さないのなら。だから、彼は初めから一人勝ちしてるとも言える。犬に関わる暗い過去や体験がないから、犬がどうなろうと知ったことではないし、犬と人の未来すら自分には関係の無い話だと割り切れるのだ。
──樗木さんに協力して異動工作に加担したのも、もしかして……僕が犬人社会化計画に参加することを予見していた佐中さんから、事前に今後の展開を教えられていたからなのか?
そう考えると、欠けていたピースがはまった気がした。
異動申請書の件で直談判した際、所長室にいた佐中がやけに樗木のように独善的でうさんくさい態度だったのも頷ける。あれは演技ではなく、彼の数少ない人間らしい良心が見せたものだったのだ。自分の選択に後悔はないか、と聞いてきた能登谷も同様だろう。
無論、佐中の場合が仮にそうだったとすると矛盾が生まれる。
あそこで即座に異動申請書にサインし、担当でなくなった小春のことを城崎が未練なく忘れていれば、計画に携わる若い研究員は存在しないことになっていた。つまり現状のように佐中の思惑通りにはならなかったはずだ。樗木に代わって計画を引き受ける若い愛犬家の研究員を探していた佐中にしては、合理的判断ではないと言える。
『……とても良い犬だった』
以前、佐中は所長室にて、紅茶用の湯を待っていた時に黒い飼い犬の写真立てを話題にし、それだけ呟いた。
城崎はふと、そのことを思い出した。
元所長の遠い目線と穏やかな口調。それには疑いようのない愛犬家、そして人の親としての佇まいがあった。彼もまた、娘を再生するという狂気に迷っている一面が心のどこかにあったのかもしれない。若い研究員にとっていた一貫しないちぐはぐな対応は──君が私を止めてくれ、とでも言いたげだったようにも思える。
「……今じゃ全部どうでもいいか」
考え事ばかりして疲れを感じた。城崎は上司が来るのを待つ間、浅く眠ることにした。目を閉じる。風に髪を触られながら、ぼんやりとする。
二十分ほど経つと、遠くから足音がしてきて、城崎は上半身を起こした。還暦まで指折りとなった能登谷が区画の道を歩き、桜吹雪の中にいた。
「あっ。すみません能登谷さん。わざわざ」
老体に鞭打ってここまで来た彼を出迎えるべく、石造りの碑の床から腰を上げて走った。
「よう。こんなところにいやがったのか。しかしよ、昼飯にはちと早いんじゃないのか?」
「昼飯?」
「だってほら……あそこに弁当箱があるじゃないか」
能登谷は供え物用の台を指さした。それは城崎が持参してきた小春への手作り弁当だった。あれから蓋は一度閉めたが、台に置き去りになっていた。
城崎は苦笑し、困ったような顔で項に片手を回す。
「あれはお供え物ですよ」
「なんだ、そういうことか……あ、悪いな。これ。さっき話したお前向けのやつ。俺はちゃんと渡したからな」
「何なんですかこれ?厚生労働省の連中に交渉してた──犬人の職業訓練所の新設への具体的な返答とかですか?」
能登谷から手渡されたのはA4サイズの紙がぴったり入るほどの茶封筒が二つだった。ひとつはぎっちりと紙が詰まっている感じで、もうひとつは何やら円筒状みたいな膨らみがあった。二つとも、ざらついた表面には『城崎くんへ』とだけ達筆な文字が書かれている。
「俺も知らん。今どき紙媒体の書類の塊みたいだからな。何か大事なことでも書いてあんじゃないのか」
「あの、じゃあ誰から?」
「主任から」
「主任?」
「いや違う。なんだっけ。あそうだ、佐中の野郎だよ」
冗談っぽく言ってから、彼は飄々とした面持ちで笑った。
「よく分かりませんが……これが元所長から僕に?」
「さっき、ふらりと奴が俺のデスクに来てね。これだけ置いて、お前に渡せとだけ言って帰ったよ。言っとくが中身を見るほど俺も落ちぶれちゃいないぞ。だからそいつのことはお前に頼んだ──こっちも面倒を抱えたくないんでね」
来た道へ振り向いたかと思うと、部下には一瞥もくれず、能登谷はそう言い残して区画から降りていった。
白衣の後ろ姿を見届けてから、城崎は石の階段に戻った。そこに腰掛ける。中身を確認しようと二つの封を開けた。ひとつ目から出てきた紙の書類には『ドリームボックス計画』という見出しと、犬由来感染症についての記述があった。
「ドリームボックス計画?」
犬人の普及を目的に自分が任され、今も骨を折る犬人社会化計画とは別名のそれは、作成日を見ると三十年以上前の代物だった。犬の殺戮から間もない時のことだ。
ふたつ目の中身は、小瓶だった。瓶が四つのセットを二段に重ねてテープでひとつに固められた物だ。瓶の内容物は透明の液体。上の段のラベルの文字は黒塗りで消されていたが、下には『ドリームボックス』とあった。
忘れもしない、あの投与剤の名。
驚きの声が出ないほど、はっとして身震いした城崎は、さきほどの書類を大急ぎで読み進めた。
「これは──」
慌てた拍子で手から資料の紙たちが滑り落ちた。
風で舞う前に拾わなければと反射的に立ち上がった、その時だった。誰もいなくなったはずの区画に気配を察知したのは。城崎は、書類の束から平たく開けただだっ広い区画へと視線を上げる。
美しい春風がざわめく。足元の書類が少しだけ浮遊して舞う。それすら気に留まらないほど、城崎はその意識を例の気配が発せられている方角へと傾けた。そこから目が離せられなかった。
研究員の視線の先には、群青色のパーカーの格好をした一人──いや一匹の少女が二本の足で地面で立っていた。暖かな風が横切っていくと、少女の白髪も横に揺れた。頭にぴょこりと生えた犬耳も風に撫でられ、愉しげにダンスを踊っているかのようだった。尻尾は右に振れ、背に隠れ、次いでまた右に振れ動く。白く綺麗な毛並みの体毛に覆われた尻尾は、春の換毛期を迎えていないのか、もふもふとした冬毛だった。風の影響を受けず、まっすぐ城崎へと向けられるのは、犬の慈しみと優しさとそれから悟性に満ちた青い瞳。それはまるで海面を映したかのような素晴らしい青空と似た色彩で、赤みのない健康的な白目に挟まれている。華奢で小さな体躯すらりとした無駄のない手足の肉付き。
少女──犬人の少女は、慰霊碑の方にいる研究員の存在を認めるなり、その場で力強く踏み込むと、突然彼の元へと駆け出す。少女の走りは加速していく。人間の限界を超えて、犬人の最大速度へと徐々に脚の動きを早めていく。
その間、少女の尻尾はあらぬ方向に暴れ回って振られていた。口ではっはっ、と息をする彼女の口元は緩み切っている。笑顔と恍惚の間。人生で初めての恋という幸福を発見した少女の顔だ。
少女は──F型雑種犬・小春は、叫ぶように明るく声を張る。愛しの飼い主へ。強く、大きく。
「しろさきーっ!」
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