73話

 写真の中にいる佐中の娘──智春の顔の笑顔は、どのパーツを観察しても小春そのものだった。

  F型のベースとなった本物の少女をまじまじと見てから、城崎はようやく顔を上げる。


「……分かりました」

「何がだ?」

「所長の目的です」


 研究員は呻くように呟いた。所長はというと、納得した様子で微笑しているだけだが、その笑みには随分と含みがある。


「あなたは娘さんをあばら液で再生したかったんですね?それと並行して犬人の社会進出が加速すれば、街中や日本中……いや、もしかしたら世界中に娘さんの形をした犬人を遺せるかもしれない──。ざっとこんなところですか?」

「概ねその通りだ。だが少々違う。そうだな、順を追って説明しよう。君には胸の内を明かしてもいいだろう……」


 そう言うと、佐中はおずおずと語り始めた。自身の目的。今日までの行動の全てを──。


 佐中はドリームボックス勤務以前から別の研究施設で研究者として働いており、遺伝工学分野においては世界的にも若き権威だったらしい。多忙ながらも家庭を持つこともできて順風満帆、幸せの絶頂に浸っていたそうだ。

 だがある時、犬由来の人獣共通感染症が世界に猛威を振るった。妻が感染症で死亡。間もなく娘の智春もこの世を去ってしまった。

 最悪なことに事態はそこで終息しなかった。世界中のどの研究者も機関もウイルスへの対抗策を開発することができなかったのだ。

 人口激減、混乱による内紛、情勢悪化。高まる国際緊張──。恐れを生した世界保健機関と国連は、批判を覚悟で飼い犬や野良犬を片っ端から殺すことにした。かの『犬の殺戮』だ。人類を守るため、その考えが完全に正当化されるには時間は要さなかった。彼の黒い飼い犬もこれが原因で殺処分された。


 殺戮が終わると、佐中は復讐を誓った。妻子を奪った病への憎悪だけではない。飼い犬を殺した人間たちへの深い怨嗟もあった。だが自分では人類を滅ぼすには明らかに力がなく、仮にできたとしても、それは同時に地球上から人間に依存して生きる犬という種を絶滅させることも意味することは分かっていた。

 そんな時、彼の頭の中に浮かんだのは、何故あの感染症は人と犬にしか感染しないのだろうかという疑問と、あばら液という新しい生体クローン技術の存在だった。彼はすぐに動き出した。犬と人間にしか害をもたらさない未知の感染症の克服を目指し、学者たちの仲間を集めて即座にチームを発足した。犬人理論を提唱し、日本政府に犬と人の共通性を研究するドリームボックスの建設と資金提供を呼びかけたのだ。


 激減する国内人口と荒ぶる世界情勢にヒステリックになっていた政府は、半年もしないうちに愛知県の山中に最先端の研究施設を建設。依然として、犬は保全団体による保護があったために種として絶滅はしておらず、犬由来感染症が再び人類に牙を剥くことを誰もが恐れていたことや、予防ワクチンが完成していても発症後の治療法自体は全く確立していないことが決定的な恐怖ものとして機能し──それらを取り除くような免罪符として、ドリームボックスには莫大な資金と人材が集中的に投じられることになる。

 研究の最中、彼は最初期の犬人理論を厳格に守り、政府関係者や周りの仲間にもそれが真実であるよう佐中は振る舞った。これから生まれる犬人が何の自我や自己意識も持たない自動機械のようなものであると事前に教えられていれば、誰もが研究に恐れることなく注力できると判断したからだった。動物は機械と主張して譲らず、犬を殴打した哲学者デカルトのように。

 事実として『犬人には自我・意識あるいは感覚質、心、などと形容される「魂」のようなモノは存在しない』という文章は大いに研究員の躊躇いを除去することに貢献した。


 そうして、あばら液から数多の犬人を実験個体として造り、感染症ウイルスの研究を進めた。犬人を社会進出させるという案も彼のものだった。それは失った社会労働力の補填のためだけではなかった。彼はあくまでも、自分の娘を蘇らせることにしか興味がなかった。けれど、あばら液で再生した娘を家で育てるというのにも問題があった。それが法的には存在しない少女だからだ。自分の娘が死んだことは親しかった近所の人間も親族も把握している。たとえあばら液でそっくりそのまま蘇らせた娘を獲得したとしても、常に誰かの視線を気にしなければならなくなる。

 また娘を育てたい。娘と一緒に暮らしたい。その野望を誰にも邪魔されずに達成するには、社会に犬人が溶け込む必要があった。犬人という狂った存在が当たり前として認められる世界を創らなければならなかった。もちろんそれは難題だった。だがもしその世界を構築できれば──代わりの娘が死んだとしても、あばら液から製造した別の代わりがいつでも手に入るようになる。


 つまり犬人という人造種の完成によって、自分は「娘の父親でいる」ことを死ぬまで続けられる。親心が永久的に満たされるのだ──という考えが彼の中で芽生えていたのだ。

 その歪んだ愛情の元、最も多く生産される見込みがあった人間遺伝子のベースを自分の娘の遺伝子サンプルに変更した。彼の娘のそれは見事に多くの犬の遺伝子と適合し、今日までの間、F型少女として長く利用されてきた。

 城崎が後に担当になる小春204もその中の一匹だ。無論、娘と同じ姿の彼女にも問答無用で実験を施したのは彼である。娘と外で暮らせる世界になるまでは、娘と似たモノを殺すことすら厭わない。どんな非道な実験でも容赦しない。


 これが──佐中という孤独な研究者が二十年近く歩み、後悔することなく進み続けた道だった。


「……狂ってますね」


 佐中の話が途切れたところで、城崎が呟いた。


「ほう。どこが?」

「全てですよ。娘さんと犬が亡くなられてしまったことはお気の毒ですが──だからって、あばら液で蘇らせるなんて」

「子供や犬の代わりを用意することに倫理的な忌避感を覚えるのは仕方ない。それは認めよう。だが、かつての君もそうしたじゃないか。それだけじゃない。204に投与剤を打った後、君だってやはり後悔しただろう?もっと優しくしてやればとか、何か別の思い出を残しておけば……そんな風に。その時、ひょっとしたら君は今の私と同じ気持ちではなかったかね?あの子の代わりを用意できれば……と」

「そんなことっ」

「城崎くん。前に言ったろう?君と私は似ていると。今、その意味を曲がりなりにも理解したはずだ。その上で聞こう。君に私の計画を否定する権利があるとでも?」


 城崎は思わず目を逸らしてしまった。

 佐中の心情と行動の真意を悟った時点で、たしかに自分は彼のことを批判することはできないのだ──。しかしここで引き下がる訳にはいかない。口で浅く息を吸う。


「あります!今はもうその考えとは完全に決別しているからです。自分は、シロと……204は全く別の個体であると捉えています」


 それを聞いた佐中は肩を揺らして哄笑する。


「論点のすり替えもいいところだ。どのみち、君が204に愛情を向けていたきっかけは、シロという犬の喪失体験を穴埋めするためだ……それは別にいい。むしろ、その方がありがたい。やはり仕事を任せるなら樗木よりも君の方が適任らしい」

「何の話です?」

「ここに城崎くんを呼び出した理由さ。いい加減、君も本題を聞きたかった頃だろう?実は重要な仕事を任せたいんだ」

「仕事?犬人理論を反対する僕に、一体何を?」

「ひとつ大きな誤解をしているようだね。さっきも話したが、なにも私は本気であの説を提唱していた訳ではないんだ」

「え?」

「あれは一種のブラフだ。政府側の犬人の受け入れと、ここでの生育作業の円滑化を果たすと同時に、職員の中から本物の愛犬家を見分けるための指標として今日まで私が流布していた……作り話に過ぎない。私自身、犬と犬人には感情や自我は人間レベルにあると考えているよ」


 城崎は言葉が出せなかった。投与剤の時の所長室でのやり取りや、さきほどの説明で、佐中が自身が提唱している犬人理論にやけに前向きではないことは勘づいていた。だがまさかそのような理由があるとは思いもよらなかった。

 これではまるで、自分がはじめから佐中の思惑通りに行動していただけではないか──。城崎は歯を食いしばるように表情を凄めた。

 一方、佐中は肩を竦める。


「そして君は見事に犬人理論を否定してみせた。周りから浮くことも省みず、異動があっても。まさに真の愛犬家というわけだ」

「なら……だったら、なんだって言うんですっ?」


 所長へ乱暴に疑問を投げた。彼は一呼吸の間を置いてから、重苦しく口を開く。


「お願いだ。共に世界を作り直してくれ」



 指揮所を後にした二人は、生成プラント区画の更にまた地下深く、貯水槽の下部にあるエリアに会話の場を移していた。

 ここには人体がまるごと一体入るぐらいの縦長のカプセルが数え切れないほどずらりと並んで、その隙間には何本か長い廊下がある。足元から等間隔に淡く放たれる白い照明は、白衣姿で歩く二人の研究者たちを映し出していた。


 城崎は佐中の背中を追ってそこを歩きながら、壁際のカプセルを眺めた。それらは犬人の製造設備だった。中は例外なくあばら液で満たされている。時折、上半身のみが出来上がっている犬人がカプセルの中から虚空を見ていた。臓器だけで皮膚や筋肉が未発達の個体もいた。みんなF型だ。他の規格は全くいなかった。


「ここだ」


 佐中が急に立ち止まった。彼の視線の先を追うと、ひとつのカプセルがあった。中には目を閉じた裸体の犬人がいる。

 外見はF型で、犬種は──柴犬。それだけではない。雑種のようだった。死んだはずの飼い犬と瓜二つだった。

 気づいた時には、城崎は犬人と自分を隔てる強化ガラスの表面に張り付くように顔を近づけていた。


「小春……っ!」


 よく見ると若干耳の形状が違った。この個体は小春ではない。彼女は自分の手で既に──。そう理解していても、つい口から名前が漏れていた。驚きを隠せない様子の若い研究員を見ながら、所長は諭すように口角を上げる。


「この個体は304だ。ほう……それで君の愛犬は204ではなく小春というのだね」

「そういう訳では──」

「何を今さら慌てている?そんなこと想定内だよ、君が識別番号を嫌ってることぐらい。愛犬家が犬に名前をつけないままでいる方がおかしいからな……うん、それにしても良い名だ。小春か、小春ね。春か……」


 佐中は遠い目で、頭上の高い天井を仰いだ。


「私の計画に協力してくれるなら、この個体を君にあげよう。たった今からこの子を小春にするといい」

「……なんですか、それ」


 探りを入れても、心臓の鼓動は早くなって抑えられなかった。

 所長が何を言いたいのか分かっていたからだ。彼は設備の脇にある操作盤のボタンに手を触れて、にやりと不穏に笑う。


「この犬人は時期遅れの不良品でね。そろそろ出産……いや、排出してやらないとまずいことになる。研究には不向きだ。だから君が計画に参加してくれるのなら、本当にあげようじゃないか。感染症や緑内障の因子は仕組んでいないこの子をね。柴犬の雑種はこれでもう最後なんだ。でも安心してくれ。君が私と共に世界を犬人に染め上げる覚悟があるなら、この先、いくらでも量産することを約束するよ──。しかし私の誘いを断るなら……304を今ここで殺し、柴犬の雑種は不良品しか作れないという論文を私が直々に発表する。雑種の遺伝子サンプルも全て破棄する」


 彼の指先には保護カバーを外した『強制終了』のスイッチがあった。意味を把握するなり、城崎はぞっとした。


「卑怯じゃないですか、それはあまりにっ!」

「ほら、さっさと断ってみたまえっ。あくまで犬は代わりがきかないと断言して、私とこの場を退けるがいい!出来るかっ?君に!自分自身の偽善的な愛犬精神が正しく、私の方こそ狂ってると言っていたではないか!ええっ?」

「だからってこんなやり方は……あんまりですよっ」


 カプセルの方を一瞥した。透明な外殻の中には、小春と名付ければ今にも彼女に成り代わりそうな犬人がいた。実験用の病気もないという。それにこの個体が死んでも、相手は代わりの犬人を生産すると言っている。

 今まで佐中の主張を強く否定しようしていた自分が、この瞬間にも崩れそうになっていることを城崎は体感した。


 ──何を考えてるんだ僕はっ……。


「……はは、やはり迷っているんだろう城崎くん?本当は代わりの犬が欲しいんだろっ?さあ早く選びたまえ。私はどちらでも構わないぞ」


 佐中が片手で研究員の肩を掴んで詰問した。眼光は鋭く、人を試す強い目だった。

 僕はどうすれば──。城崎は喉が張り裂ける勢いで絶叫しそうになった。小春との別れ際、代わりはつくらないと約束したとはいえ、永久的に彼女の代わりを持てなくなると真に迫られてしまったこの状況に、即答で拒む姿勢を示すことが出来なくなっていたのである。

 もしかしたら自分は、愛犬を取り戻せる最後のチャンスをみすみす見逃そうとしているのでは?

 違うと分かっている。しかし研究員はそんな疑惑に駆られてしまう。


「本音を言うと、日本政府のお偉いさんたちが我慢の限界を迎えているみたいでね。この十年近く……不良品があまりに多過ぎたんだ。感染症の研究でも結果を出せてないドリームボックスを疑問視している」

「……でしたら犬人の社会進出を進めればいいじゃないですか。感染症の研究で成果がなくても、国力を復活させることができれば……政府もまたしばらくは黙ってくれるでしょう。それこそ──犬人を虐待まがいに扱うようなことさえ止めれば、不良品なんてあなたが呼ぶ個体も生まれないんじゃないですかっ?」


 怒号に近い抗議の声を上げたが、佐中は静かに首を横に振っただけだ。


「それも私には無理だ。犬人理論を提唱して非道な実験を推し進めた手前もあって、私から今の方針を転換する訳にもいかない。上層部も天下りの連中や能登谷のように自分の保身ばかりを気に病むゴミ共ばかりだ。犬人をぞんざいに扱い、番号で呼ぶ現状を変えられる立場にある者は、施設には若い人しかいない……城崎くんのようなね」

「だから僕にその役を?」

「そうだ。樗木には前に、ここで今のと同じ質問をした。だが彼女は、犬なんて最初から飼わなければ悲しむことはないという馬鹿な選択をとった」


 それを聞いた城崎は俯いた。

 樗木の気持ちも分かる。どうせ犬は人より先に死んでしまうのだ。人をこんな世界に残して、先にいなくなってしまうのだ。なら、はじめから悲しみの元である犬を飼わないという道は正しいのかもしれない。飼った瞬間に未来には早い死が確定している動物を傍に置くのはあまりに辛いという言い分も頷ける。

 でも、と樗木への同調を遮る。ならば何故、彼女は未だにドリームボックスにいるのか。犬を拒絶すると豪語していても、結局は樗木だってここにいるのではないか。飼い主となる職員が患うペットロスを防ごうとしているのは単なる建前で、本当は彼女も人と犬が歩む先を見てみたいから退職していないだけなのではないだろうか。


「犬人が普及する社会を作る……僕が?」


 煩悶とした言葉遣いで呟いた。

 それを聞いた佐中は、打って変わって、研究員のことを励ますように明るく顔を上げる。


「前向きに検討してくれるか?」


 城崎は頷かなかったが、何も言い返さなかった。それを肯定の沈黙と受け取った所長は上機嫌にすらすらと喋り出す。


「そうかありがとう!いや、やはり私の見込み通りだな。うん、やっと理解者が出てきてくれた!城崎くん、どうか今後ともよろしく頼むよ」


 差し出された手。城崎は握手を返すことが出来なかった。佐中は少々眉をひそめながらも、にこやかに再開する。


「君の仕事はひとつ。犬人の教育システムの確立、それだけだ。社会に出しても問題のない犬人を安定的に供給するためには、製造後の教育機関をドリームボックスとは別に設立する必要があるからね。そこをまとめて、犬人たちから不良品が出ないように目を光らせるのが主な業務だろうな。これは君がかねてより望んだように、犬人の環境を良くすることなんだ。どうだ?悪い話ではないだろう」


 佐中の話を聞いていて、なにやら悪いようには思えてこない自分がいることに城崎は困惑した。まずい、このままでは流されてしまう──。


「所長っ」


 声を振り絞って彼を呼んだ。


「なんだね?」

「もし──僕も樗木さんのように断ったら、その後は一体どうなるんですか?サンプルの破棄とか、佐中所長がやることではなく……犬人の未来はどのようになりますか?」

「……その時は、犬人もそこで終わりということになる。言っただろう、政府は実りのない研究を馬鹿正直に待ってられない。計画中止ということで片がつくだろうな。だから我々は犬人の社会化による国力の蘇生で、感染症の研究が進んでいないことをお偉いさんに黙認してもらう必要がある。そのためには、城崎くんの参加がなければ始まらない」

「……でも僕は力不足ですよ。いっそ、所長おひとりでやってみればいかがです?」


 佐中の顔に雲がかかり、重い咳をする。


「私も歳だ。このドリームボックスを今の状態にするまでにも幾度となく身体に無理を強いてきた。たしかに、城崎くんの助けがなくても私単独で犬人理論をひっくり返して施設を動かすことも不可能ではないだろう。だがその時、犬人が当たり前に暮らす世界で平穏に娘と生きる私の姿はないだろうな。それでは本末転倒ってものだ」


 力なく笑う所長の息は、たまに乱れていた。指揮所でも彼は城崎との議論中に息が上がってへたりこんでしまったことがあった。

 自分が残り何年生きられるか分からない以上、今まで通りに仕事に奔走したくはないのだろう。彼の目的はあくまで、犬人が当たり前になった世界で、娘を失う恐怖と孤独に苛まれない日常を静かに送ること──ただそれだけなのだから。


「では、僕が断ったら犬人は施設から、いえ……世界から絶滅するということですか?」

「そうなるな」

「……しかし、犬人が存在する世界を作り上げたところでも、いずれ感染症の研究が完了してしまったら、不要になった犬人は『犬の殺戮』と同じように殺されてしまう気がするのですが」

「そうだな。いつかは犬人も必要がなくなり、またあの惨劇と同じように、飼い主たる人間たちによって殺されることになるだろう」

「では、結局……どちらも同じ結末ということですか」


 城崎は名残惜しそうに、愛犬に酷似した304が収められたカプセルに手をやった。


「だが政府によってドリームボックスが解体されれば、犬人自体が歴史の闇に葬られることになる。君の小春だって、他にも非人道的な扱いを受けた犬人だって、その存在すら世間には知られないままだ」

「知られたところで小春は生き返りませんよ」

「ほう?しかしだ。これまで成果がないとはいえ、実験体の犬人がいなければ犬由来感染症の研究が進まないことに変わりはない。あの感染症は人と犬しか罹患しないからな。他の動物を使った実験が出来ない。絶滅しかかっている数少ない本物の犬たちを実験に使うのはご法度だ。かと言って人間を使う訳にもいかない。感染症を克服しようというのなら、あばら液が尽きない限りは製造できる犬人を使わない手はないんだ。そして、感染症の対処策を用意できなければ、人類はともかく──犬は近いうちに地球上から完全に絶滅する運命を辿るだろう」


 さて、と佐中は深呼吸する。


「城崎くん。どうする?すべては君の決断に委ねられている。犬人を社会に出して研究の時間を稼ぎ、感染症を克服し……犬と人が共存する世界をもう一度取り戻すか。それとも、ここで政府の計画中止という横槍を承諾し、犬がいない人間だけの惨たらしい世界にするか」

「どちらにせよ──遅かれ早かれ、犬人は滅びるんですね?」

「否定はできない」

「前者を受け入れれば、僕に仕事を丸投げした所長は複製した娘さんと老後を過ごし、後者は……」

「ここで首でも吊るさ」


 研究員の声を接ぐように所長が言った。迷いのない返答だった。


「……なんだか、僕に不利な選択ではありませんか?これ」

「そうかもな」


 佐中はふふ、と笑った。


「どうする?城崎くん」


 研究員は押し黙った。刻々と時間が過ぎていき、彼は腕を組んで天井を見上げた。ぽつぽつと高い所にぶら下がる照明器具が、投与剤を打つ前に小春と共に南棟の屋上で鑑賞した星空を彷彿とさせた。

 二つ並んだライトの点を線で繋ぐ。こいぬ座の完成だ。ふと彼女の顔が見えた気がした。


 ──なぁ小春、僕はどうしたらいいと思う?


 あの空にいる彼女に、助けを乞うように訊ねた。きっと彼女なら──否、こんな際どい質問に犬人の少女が的確に答えられるようには思えなかった。

 それに研究員の答えは既に決まっていた。腕を組んで悩み、小春を心の中で呼ぶ前から。

 犬の未来は、犬と共に飼い主である人間が決めなければならない。それが根本から人の都合であるなら、人が犬に代わって全てを引き受け、あらゆる責任を背負うべきなのだ。

 そして、きっと今がその時なのだ。数分経ってから城崎は所長の名を呼んだ。


「僕はあなたの計画を……」


 彼は語った。自分なりに最後に編み出した、最良の選択と未来を。

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