72話
ドリームボックス地上施設と地下区画間を移動する専用エレベーターの中。そこには一人の若い研究員がいた。城崎だ。彼は一ヶ月ぶりに着用した白衣に若干の違和感を覚えながら、生成プラントに到着するのを今か今かと待っていた。
小春への投与後、出勤拒否を続けていたので、どのような処分が待っているかと思っていたが、施設側は気にもしてなかったらしい。午後三時頃に職場に来た城崎にかけられる声はなかった。一応、生成プラント区画に行く前に上司の能登谷には顔を見せたものの、特に反応はなかった。彼は自分の部下が所長から直々に呼び出されていることも知らないようで、どうも他の施設職員も、樗木以外は城崎がこれからどこに行くのかは把握していないようだった。
つまり佐中から個人的な声掛けをされていることになる。樗木はその仲介人なのだろう。彼女からのメモ通りに施設内を移動し、人目を警戒しながら、城崎は南棟一階のエリアに隠されるようにあった小さなエレベーターに乗り込んでいた。
「……」
それにしても降下が長い。エレベーター自体が遅いのか、それとも地下深いのか。本来なら、出入口の上に現在地の階を表示するランプがあるが、ここにはなかった。生成プラントと直通のエレベーターのようだ。
──所長から何の話があるんだ?それにどうして僕を?
手持ち無沙汰になった城崎は、白衣の胸ポケットにしまっていたIDカードのコピーを取り出し、裏表を見た。樗木経由で佐中から受け取ったそれは、このエレベーターの起動と防犯システムの無効化に必須の代物だった。一般職員はおろか、幹部クラスの職員でも中々お目にかかれない代物のようである。
一般職員ならば立ち入りを固く禁止されている生成プラント区画に呼んでまで、新人の研究員一人に話したいこととは果たして──。城崎には予想すらつきそうになかった。
しかし、小春がいない今は何も気に病むことはない。自主退職の勧告ならば聞き入れるつもりでいた。小春の件で、城崎はこの職場には居場所も味方も皆無なことを分かっていたからだ。
──樗木さんも、実験個体の世話をしていた時は今の僕みたいに、周囲の連中から疎まれていたのだろうか?
その答えは出なかった。とはいえ、能登谷ではなく彼女が佐中の仲介をしているということは、やはり所長からの今回の呼び出しには、例の実験個体に関することが絡んでいるのだろう。
IDカードをしまい、今度はポケットから携帯端末を出す。圏外だったが、保存されている画像を見るだけなら問題ない。
シロの写真を見た。小春の逆鱗に触れたくなかったので、クリスマスイヴの件以降は待ち受け画面の背景画に設定していなかったが、写真には何度見ても遜色のない、白い雑種の柴犬の微笑みがあった。
──小春の写真も、撮っておくべきだったな。
ガコン、と鈍い重低音が足元から伝わった。ようやくエレベーターが目的地に着き、扉が開く。
足を踏み出す。背後で扉が閉まり、城崎はその階に独り残された。そこには誰もいなかった。一本道の廊下が続いており、壁際には他の部屋に続くドアなどは見当たらない。とりあえずその道を歩いて進んでいく。博物館などの公的な展示施設の床に敷かれるような、ごわごわとした紺色のカーペット。地上の建物と同じく無機質な白色でのっぺりとした壁。清潔な空気だったが、地下なので窓はなく、息が詰まりそうになった。ここには妙な圧迫感が漂っている。遠近法の手本のような端正な廊下。エレベーターがある方の反対側には、両開きの扉が研究員を待っていたかのように佇んでいた。手をやるが開きそうにない。
扉の横にもIDカードの照合が必要なようで、カードをかざすとすぐに解錠された音がした。
「これは……」
扉を開けて進むなり、城崎はそこに広がる光景に驚いて小さく声を漏らした。
施設最深部にあったのは、一言で表すならば広大な地下空間そのものだった。ここが生成プラント区画──。
ドリームボックスは山中に建設されているので、ここは山の中を丸々切り抜いて造ったのだろうか。野球場のドームなんて比ではないぐらいのスペースが、普段働いていた職場の真下にあったのだ。驚愕する他なかった。
城崎が立っているのはキャットウォークだった。手すりに掴まり、言葉も紡げずに区画を見渡した。地下区画には、いくつか巨大な貯水槽のような物が並べられ、とてつもない量の液体が満たされている。上から見るとダムの湖を望むのと似ていた。
液体の正体は分かっている。これらが生成プラント区画の要である原形質培養液こと、あばら液と呼ばれる物だ。遺伝子から生体を完璧に生成するという恐るべき技術の塊である。
「ここには一万匹分の犬人を生成するだけの蓄えと設備がある」
その声で、壮観な区画から意識を引き戻される。
城崎は自分に近づいてくる足音にやっと気づき、顔を上げた。声のする方に目を走らせる。白衣をまとった佐中が憮然とした顔つきで歩いてきていた。
「よく来たね城崎くん。歓迎するよ。ここが我がドリームボックスの最重要区画、通称──生成プラント区画だ。すごい眺めだろう?」
「その……?お話とは?」
足場を打っていた佐中の高級な革靴の反響音が止まった。
「君にしか話せない、特別な話だ」
「実験個体の件ですか?」
エレベーターで降下する途中に浮かんだ、呼び出しの理由を訪ねた。
「ついてきたまえ」
だがその質問には答えず、佐中は踵を返した。年齢以上に彼の背筋はまっすぐだった。しかし城崎も食い下がる。
「お答えください所長!返答次第では僕は帰ります。それに退職もします。あの子のいない施設なんて、いても仕方ありません」
「施設の外にもいないがね」
佐中はゆったりとした歩調で引き返しながら、尻目に言った。城崎は舌打ち混じりに怪訝な視線を飛ばす。
「なら尚更です」
若い研究員も来た道を戻ろうとするが、「まぁ待ちたまえ」と所長から制止される。
「そう結論を急ぐな。話は君が望む通りだよ。204も含め、実験個体の話だ……それでも帰ると言うなら、私は止めないが」
*
生成プラント区画を一望できる小高い場所にある指揮所にて、城崎は佐中から出された紅茶には手をつけず、彼が本題に踏み込むのを苛立たしい気持ちで待っていた。
佐中の方は紅茶を飲みながら、ガラスの壁越しにプラントから目を離さなかった。席に座る若者と、立ったままの老人。重量のない沈黙が二人の間に立ち込めているように思えた。
「君は樗木とは違うと思ってるんだが、どうなんだ?」
重い口調で、佐中はぼそりと言った。
「何のことです?」
「犬に対する態度だよ。しいては、犬人に対する……」
「違うかと聞かれましても第一に──」
彼女の犬人に対する態度というものを知りません、と言葉を繋ごうとしたが、自宅に来た数時間前の同僚との話を思い出す。
樗木も狂信的に犬を愛する人間だ。そして人嫌いだ。その点では共通している。彼女の言い分も理解できた。人間なんて最悪な生き物だ。けれど何故か彼女に親しみを覚えなかったし、佐中の言う通り、たしかに彼女と自分はどこか異なっているようにも城崎は感じた。
「第一に?」
「所長のおっしゃる通り、樗木さんと僕は違うところがあると思います。でも、それが何なのかは説明ができません」
「結構」
さっと振り向き、所長は手にしていたティーカップと受け皿を近くのテーブルに置いた。
「私が説明してあげよう。君と彼女を分けるもの、それは悲しみに対する姿勢そのものだ」
「姿勢、ですか……?」
「ああ。彼女のスタンスは君も知っての通りだ。担当個体と飼い主を離し、飼い主となる職員が今後受ける苦痛を未然に阻止しようとしている。つまり、犬を失う悲しみは初めから持つべきではないという理屈だ。言ってしまえば、犬はそもそも飼うべきではないという主張だな。一方、城崎くんは……」
佐中はにやりと笑った。彼の歪んだ下卑な笑顔を見るのは意外なことだった。いつの間にか近くに来ていた彼は、座っている城崎を見下ろし、その肩に手を置く。
「前の犬の代わりに新しい犬で埋め合わせるというスタンスだろう?犬は代替可能という主張だ。いやはや、これは実に素晴らしい理屈だよ。私もこの理論に大いに賛成なんだ!」
息巻いて、恐ろしく高揚した感じの佐中から賞賛を投げられた城崎は困惑する。同時に嫌悪感と背筋が凍る恐怖を覚え、反射的に椅子から立ち上がる。
「そんなふざけたこと思っていませんっ。犬は、犬は……代わりなんてきかないんです!」
「嘘をつかなくていい。今も心の奥底で思っているんだろう?」
佐中の声に神経を逆撫でされた。それは彼から侮辱されているという嫌悪よりも、奇妙な同調からくるものであった。城崎は吐き気を催しそうになる。
「何をですっ?」
「犬は交換すれば済むということを」
「──そんな訳ないじゃないですかっ!何を馬鹿なっ」
「では君はどうして204をあそこまで守り、慕っていた?君が昔のこの山で戯れていたという、白い雑種犬のことを204に投影していたから……違うかい?」
反論できなかった。
小春に使用する投与剤を受領した時、所長室で佐中にシロの話は打ち明けていた。彼の言い分は事実だった。鋭い指摘だった。小春という存在は、シロにあまりに似ていたのだ──何もかも。城崎の沈黙を肯定と解釈した佐中は、肩から手を離す。彼は悠然と、そして不気味に口角を上げる。
「君はあの実験個体をその犬にしたかった──そういう訳だ。たしかに君が反発する気持ちも理解している。納得はしないがね。犬は代わりがきくという話が、あまりに犬の尊厳を無視したものだとでも思ってるんだろう?しかし、しかしだ。人間よりも、犬は犬種さえ同じならほとんど見分けがつかないというのを否定できる人間を私は知らない。試しに柴犬を飼っている愛犬家をテストしてみるといい。百匹の柴犬がいる中に、その人の飼い犬を入れてみたまえ。一時間あっても自分の愛犬を探せないだろう。たとえ探せた人間でも、その犬が死後数年も経てば顔も思い出せなくなる」
黙る城崎に、佐中は持論を展開し続ける。
「そして幸運なことに──犬は言葉を持たない。語らない。だから言葉でしか他者を認識できない我々は、犬の代わりを持つことが出来る。生成時に脳へ与える高速学習や生後のカリキュラムで学習方法を徹底して、個性を排除し、他個体と同化している犬人も同じだ……。それにあばら液ができる以前──犬がまだ人間から愛されていた『犬の殺戮』以前の世界で、旧来のクローン技術で愛犬家たちがしていたことを思い出してみるといい。彼らは自分の飼い犬が死んだら、その犬の遺伝子を使って新たにそっくりな犬をこしらえていたではないか!そうでなくともペットロスに対する有効な対処策として、似た犬を飼うことは昔から勧められていた!なら私の考えのどこに問題があるっ?自分の犬だけを愛することが崇高で正しく、その犬の姿を傍らに留めておくことが愛犬家のするべき姿であるのなら──犬を取り戻すためにはどのような手段でも取って然るべきなのではないのかねっ?」
そこまで言ったところで、佐中は息切れし、疲労困憊といったように近くの椅子に重く腰を下ろした。項垂れて背もたれに身体を預け、肩を動かして息をしている様子だ。
「大丈夫ですか所長?」
「……問題ない」
*
「前にも何度か話したと思うがね……私には昔、飼っていた犬がいたんだ」
しばらく経ってから、再び説教のようなご高説が振りかざされると思っていたが、佐中の口調は非常に弱々しいものだった。
「犬だけじゃない。妻子もいた。家庭があった」
指揮所の隅には所長室と同じく、佐中のものなのかティーセットやその他雑多なものを収納した棚がある。彼は自身を鼓舞するように膝を叩いてから立って、そこに向かった。足取りは老人のものだった。プラントのキャットウォークを歩いていたような自信に満ちた歩き方ではない。
「あの──」
茶をいれ直すのだろうかと思って、断ろうとした城崎だったが、佐中が棚から取り出したのは茶葉の缶ではなく、三つの写真立てだった。
「他人に見せるのは君が初めてだな」
彼はそれを城崎に手渡した。ひとつは見たことがある。黒い犬が骨のような玩具を咥えて凛々しく笑っている写真。所長室にある物と同じだ。もうひとつは家族写真。彼とその妻、娘が写っており──。
その写真に城崎は唖然となった。それに釘付けとなりながらも、おそるおそる最後の写真へと移る。
佐中の娘である一人の少女を収めた写真とのことだ。それに視線をやったところで、家族写真を見て湧いた懐疑は一挙に確信となり、指揮所内には城崎の短い悲鳴がびりびりと響いた。
写真には、耳や尻尾はないものの、黒髪と黒い瞳をした──小春や195のような少女が笑顔でそこにいたのだ。
「私の娘だよ。
佐中はくすりともせず、淡白に言った。
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