71話

 一週間後。三月十五日。本来の殺処分決行日。

 その日も朝から、城崎は自宅に引きこもっていた。彼が住まう部屋は施設から車で三十分もかからない所のアパートにある。日当たりがあまり良くないのがネックだったが、カーテンを閉めて生活をしている今では案外都合が良かった。

 小春という一匹の犬人の世話を任されていた彼だったが、彼女がいない今となっては何事にも無気力だった。テレビを見なければ、趣味のカメラも手入れできていない。彼は部屋の隅で項垂れ、それがまるで呼吸だとでも言わんばかりにため息を吐いていた。職場に行かなくなってもう六日目である。有給だけでは休むには足りなかったが、それすらどうでもいいと思っていた。

 少女に眠りを与えた翌日だけは、放心しながらも、いつものように施設へと出勤した。そうすれば、もしかしたら普段の調子で元気な小春が待っているかもしれないと期待したからだった。しかし現実は甘くはなかった。特別収容室に彼女はいなかった。能登谷を問いただすと、投与剤の事後連絡を受けてからすぐに飼い犬は片付けられたということだ。


 城崎は、自分が現実にいるのか夢にいるのか明確に分からないほどの頭痛と立ちくらみに苦しんだ。

 その日のうちに、収容室と、小春が昔に根城にしていた自室の掃除をした。部屋に置いてある彼女の私物──遺品を回収するためだ。書籍や小さなインテリアが主で、それらはすべて城崎が事ある毎に彼女に贈っていた物だった。手に取ってみる度、彼は悲しみに打ちのめされた。自然と彼は仕事に行かなくなり、自宅で何もしない日々を過ごすようになった。


 やることと言えば、小春の遺品を見ながら、可愛い彼女を思い起こすことのみ。それ以外は何も手につかなかった。ぼんやりと鬱屈とした膜のようなものが全身に張り付いて剥がれなかった。

 少し気分が良くなったかと油断すると、間髪入れず、病に足掻き苦しむ小春の悲痛な声がそれを否定するように頭の中いっぱいに響き渡った。幻聴だと分かっていても、その声がするなり、城崎は独り部屋の中でパニックを起こして取り乱した。


 救ってあげられなかった飼い犬から、お前だけは幸せになるなと恫喝されているように思えて仕方なかったのだ。連日休む連絡を施設側に入れると、精神科の受診を勧められたが断った。

 人間嫌いの飼い主が、愛犬を失った苦悩を他人との会話ごときで癒せるとでも?


 自分に出来ることは、悔いて、苦しんで、あの子に詫び続けることだけなのだ──。城崎はこう考え、孤独な日々と緩慢な流れの時間にひたすら耐えて小春を想うことだけに従事していた。

 この日は、七夕に小春が書いた短冊の存在を思い出し、ホッチキスで固く綴じられたそれを開封することにした。

 何故か糧食ポストに入っていた六枚の短冊に彼女が願いを書いたのだが、そのうち一枚はまだ城崎も読んだことがなかったのである。見るなという約束を破ることにはなるが、追悼の意で目を通しておきたかった。


 固定していた芯を外し、短冊を机に並べる。


『しろさきがずっと幸せになりますように』

『しろさきが悩み事を抱えませんように』

『しろさきが趣味のカメラを楽しくできますように』

『しろさきに不幸なことが起きませんように』

『しろさきがお金をいっぱい貰えますように』


 それらは以前にも見たことのある文だった。昔は飼い主への偏重した愛情を書いた文章に苦笑するだけだったが、今では読む度に心を締めつけられる。

 何ひとつ、今の自分は彼女が望んだようにはなっていないと城崎は悔恨したのだ。

 重い心で最後の短冊をめくる。


『しろさきが私のことを好きになってくれますように』


 初めて見るその短冊には、切なる願いが込められていた。シロではなく、小春を──。

 夏の時の彼女はシロのことを知らない。多分、他の犬人や人間、時間を奪う雑多な仕事に対して嫉妬心の炎を燃やしていたのだろう。隠している短冊を見せるよう迫ると、恥ずかしそうに断った小春の顔が昨日のことのようにありありと城崎の頭の中で描写される。


「……こんなこと、隠さなくてもいいのに」


 偶然にも、今となっては飼い主たる彼は職場を離れ、かつての小春のことだけを回想する毎日を過ごしている。

 この願いだけは叶えてあげられたようだ──。城崎は短冊を握り、泣いた。書かれた飼い犬の言葉は、城崎の心の奥深くに木霊して立ち去ることはなかった。



 時は流れ、四月八日。小春が去ってから一ヶ月。彼女と出会ったあの日からちょうど一年の日。


 昼過ぎに城崎はのそりと起床した。昼夜が逆転しかかっているが気にもとめない。

 彼の部屋は散らかっていた。扉に付いている簡易ポストからは広告紙などが溢れ、たまったゴミ袋からはえた異臭が放たれており、独身男という言い訳を盾にしても看過できないほど荒んだ環境になっていた。


「おはよう小春」


 自分以外は誰もいない室内に、彼は唐突に声を投げた。声にして飼い犬のことを呼ぶと、微かに彼女の存在のようなものを感じるのだ。意識すると彼女の返事までも聞こえた。


「今日も読むか?」


 淡い幻覚から、快活な首肯と笑い声がした。


「あはは、そうか。分かった。じゃあ読もっか」


 汚い部屋にあっても、小春の物だけは痛まないように丁重な扱いをしていた。特に本はカビや埃から守っていた。彼女が最も親しんでいた『星の王子さま』だけは特に。

 城崎は本を開くと、再び──特別収容室で朗読したように、その本を読んでいった。


 キツネとの場面が始まってすぐに、部屋の呼び鈴が鳴った。邪魔が入ったと鈍い判断力で理解すると、城崎は不機嫌な様子で口を噤んだ。何度かの呼び鈴の後、外からの呼び出しがノックになった。居留守を決め込もうとしたが、いくら待っても訪問者の気配が消えない。

 城崎は舌打ちした。本をそっと机に置くと、ずかずかと大股で玄関へ移動して扉を開ける。


「なんですかっ?うるさいんですけど──」

「久しぶりね。城崎くん」


 そこにいたのは同僚の樗木だった。城崎は数秒固まったが、素早く視線を鋭くして威嚇する。


「なに?」

「話があるから入れてくれない?」

「嫌だね」


 咄嗟に扉を閉めようとするが、樗木は足を入れて強引に扉を開けさせた。隙間からひょいと彼女が覗き込んで、くすりと笑う。


「……入室を拒否するの、小春ちゃんとまったく同じ反応だったよ」



「やっぱり部屋も同じね」


 室内に入るなり、樗木はベランダ側の窓とカーテンを開いた。彼女は振り向いて部屋の住人に小さく微笑む。春の眩しい陽光に、城崎は目を細めた。光に目が慣れなかった。


「閉めてくれよ」


 抗議するが、樗木は薄く笑うだけだった。


「小春ちゃんもね──気分が沈んでる時、こういう暗い部屋の中に自分のことを閉じこめてたんだよ。それでカーテンを開けるととっても怒るんだ。似るんだよね、飼い主と犬って」


 彼女から飼い犬の話をされた。分かった風なことをお前が言うな──。城崎は隠すことなく怪訝に眉根を寄せ、苛立った素振りをとる。ひとまず着席を促す。彼女と机を挟んで対面する。


「それいつの話だ?なんで君がそんなことを知ってる?」

「思い出してよ。私さ、小春ちゃんに病気のことと施設の目論見を暴露したでしょ?その時、あの子の部屋にいたじゃん。まさにこの部屋みたいだったよ」

「……人質にされた時のことか?」

「そうだけど」


 小春が樗木を人質にして、担当を離れてしまった飼い主を呼び出した時があった。どうやらそのことを言ってるらしい。たしかに彼女はあの時、小春の部屋で軟禁状態だった。


「あの時、小春に教えたんだろ?感染症のことも……僕には、犬人の状態も施設側の思惑はまったく知らされていないことも」


 城崎は204呼びはしなかった。ちょうど人質騒ぎの際、小春の名前は樗木側に漏らしてしまっていたからだ。彼女も204のことを名前で話している。

 研究施設内は佐中所長の犬人理論を参照に、犬人を人間めいた名前をつけないようにしているが、樗木はそうしなかった。


「ええ」

「理由は聞いたよ。小春からも……それこそ、所長からも。その話は本当なのか?」

「そうね。本当よ」


 彼女は力強く頷いた。

 どうも同僚を誤解していたらしい、と城崎はバツが悪そうに腕を組んだ。机に視線を落とす。

 てっきり樗木というこの女は、嫌がらせのような要領と感覚で小春とこちらの仲を引き裂いているだけなのだと早とちりしていたが、決してそうではなかった。彼女の行動目的はひとつだ。施設からは何も知らされず、飼い主となる担当職員が後々受けることになる精神的苦痛ペットロスを未然に防ごうとしていただけ。そのために感染症の実験をしていると思わしき犬人の担当を別の個体へと異動させ、実験個体を担当のいない野良犬にしたがっていたらしい。


 城崎と小春にとっては、それが酷く下世話だったことも同じくらい真実だった。

 だがもし樗木からの告発がなければ、小春が言ったように、自分たちはもっと焦ることになっていただろう。とはいえ、城崎が小春の病態を知ったのはクリスマスイヴの夜だ。未来を知るにはあまりに遅すぎた。もっと早期に樗木か小春が教えてくれれば──。


 くれれば?それがなんだと言うのだ?


 城崎は自身の考えがあらぬ方向に展開する前に制した。どのみち施設側は、犬人が死ぬまでの経過観察のデータを欲しがっていた。

 そのことを一ミリも知らなかったから、優良個体の認をもらえれば助かるかもしれないという希望が現実にあった。小春が不良品ではないことを証明すれば、それで万事解決と思っていたからだ。

 要するに、「実験個体」という名の真意を知らないおかげで、一人と一匹は秋の試験に向かって共に精進して全力でぶつかり合えた。だから強く仲を深めることが出来たのだ。


 秋の担当異動中のタイミングで、小春は樗木から事の顛末を教えられたが、城崎には伝えなかった。小春は、危機的状況に追い込まれるまでは飼い主に真実を伝えず、それまではなるべく彼から態度の変わらない愛情を望んだのだ。

 危機的状況というのはイヴの脱走デートの際、病のことを知らない城崎が、飼い犬を連れて逃避行しようと提案したことだ。逃げた先で発症したが最後、自分が苦しむ姿で飼い主を傷つけてしまうと小春は予想したのだろう。だから彼女はあの時、樗木から教わったことを言い、飼い主に施設への帰路を促す他に選択肢がなかった。

 もし仮に小春204と出会った時点で、早々に樗木から、あの子は病気で来年には必ず死ぬ運命だから肩入れするな──と真実を語られたとしても、昔の愛犬・シロのことを小春へ投影していた城崎は、彼女を今と同じように可愛がる自信があった。しかしそれは、小春本人を可愛がるというより、あくまでもシロの代替物に過ぎない愛で方になっていただろう。その場合、小春の消失を嘆くことはなかったかもしれない。なぜなら、犬はいくらでも代わりがきくという意見に則れば、犬人研究員の職を離れない限り、シロの代替──白い柴犬の雑種の犬人の担当になれるチャンスはあるからだ。


 実際、小春はシロのことを途中まで知らず、城崎からの愛情を自分自身のみに対するものだと信じていた。彼女も、シロのことを初めから知っていれば、城崎を愛することは難しかったはずである。

 城崎と小春という関係がこの施設に生まれ、三月八日に至るまで一年近くもの間、頑強に維持されていたのはこうした複雑な状況下で、一人と一匹が適度に運良く互いのことに無知だったからに過ぎないのだ。樗木は部屋を見回し、机の上の本に注視する。『星の王子さま』だった。触られたくないと思い、城崎はその本を自分の手元へ寄せた。彼女は肩を下げる。


「それ城崎くんの本?」

「違う。あの子にあげた物だ。今は僕のだが」

「……能登谷さんから聞いたよ。小春ちゃんを安楽死させたんだ?」

「止めろっ!あの子はまだ……」


 ──ここにいる!


 そう続けようとするが、現実が理想とは違うことは城崎も機能を停止しかけた心のどこかで分かっていた。幻覚は本物ではない。同様に、彼女が苦しみ叫ぶ幻聴もまた、本物ではない。


「気持ちは分かるわよ」


 同僚の心情を汲み取るように、樗木はその言葉の続きを詮索することなく、頬杖をついて横髪を耳にかけ直す。


「こうなるって分かってたの。城崎くんが……ううん、あなただけじゃない。職員が、担当についた犬人の死への責任感で潰れちゃうんじゃないかって。私がそうだったから」


 改めて樗木の口から語られる過去は、聞いての通りだった。以前、彼女は城崎と同じく実験個体の担当を任された。その犬人が死ぬものとは知らずに存分に可愛がったが、時限爆弾となっていた感染症の潜伏期が過ぎて発症し、犬人は苦しみ抜いて死亡した。その後、施設側の悪魔の実験内容を知ったことから犬人研究を恨んでいる。今の城崎のように。


「それは聞いたよ。でもさ、ならどうして……ドリームボックスを辞めないんだ?」


 ついその質問が出た。口にした瞬間、それは自分もだろうに、と城崎は思った。

 しかし単に気力が湧かず、退職手続きすら億劫で今日まで放置していた自分とは違い、目の前にいる同僚には確固とした理由があるのだとも彼は考えていた。

 それは的を得た考察だったようで、樗木はため息を零す。


「どうしてって……止められないからよ」

「止められない?」

「そうよ。私一人が犬人の扱いに不満を抱いて、あそこを辞めてどうにかなる?なるわけないじゃない。マスコミにリークしようにも、犬人のプロジェクト自体はとうの昔から日本政府お気に入りの国家事業なのよ。世間にはまだ非公開だけど、なにせ犬人は国の将来が懸かった計画だし、失敗する芽は早めに摘もうって姿勢を構えてる。私一人なんて揉み消されるに決まってるわ」

「だから……あのドリームボックスの中に留まって、せめて自分みたいな職員が出ないように行動を?」

「うん。けど城崎くんが今の調子じゃ、私のその行動も無意味だったみたいね。我ながら何してるんだろ、本当に……」


 気丈に話を進めていた樗木だったが、目元には涙があった。


「いいや。樗木さん、僕は……その、今は感謝してるよ。小春がああなると事前に知らなかったら今頃は首を吊ってただろうしさ。小春にどうしてやることもできず、施設の思惑に従って世話だけしていたと思うと……安楽死って選択も思いつかなかったかもしれないから」


 城崎は涙を我慢し、手にある本へ俯く。


「僕はあの子を助けてやれなかった。でも、なるべく楽に眠らせることは……できたよ。だけど……」

「だけど?」

「ひとつだけ分からないことがあるんだ。樗木さん──僕たちは、愛犬家っていうのかな、それは置いといて……人間は、果たして本当に犬を飼うに相応しい生き物なのか?」

「相応しい生き物?ふふ、馬鹿ね。そんなわけないじゃない」


 樗木は不敵な笑みを浮かべた。彼女の顔には、同期の男性陣から人気の高い女性の愛らしさが無くなっていた。そこには人間に対する軽蔑心に近いものだけが禍々しくあった。彼女は恐ろしく低い声で切り出す。


「あの犬の殺戮が物語ってるわ。人間は、平気で犬を殺したのよ?」


 城崎は顎を引いて曖昧に頷く。


「たとえ感染症を抑えるためと言っても、大昔からの……友人を皆殺しにしたの。おまけに今度は犬の遺伝子を弄んで、合成人種なんて作ってる始末。こんな野蛮な生き物のどこが犬に相応しいのか──私の方が聞きたいぐらいだわ。感染症で滅亡しちゃえばよかったのよ、犬じゃなくて人間が」

「……だろうな。僕も、概ね同意見だ」


 言葉に詰まった。人間に対する敵愾心てきがいしんや憎悪は、城崎に負けず、樗木も人一倍強いようだった。

 職場で周りの同僚から常に囲まれているほど人当たりのよい彼女にも犬に関する暗い過去があり、その経験がドリームボックスという犬の虐待職場に繋ぎ留めている根本的な理由になるとは、なんとも悲惨なことだと城崎は思った。

 そしてその哀れみは、幼少期の記憶に生きるシロに執着して、小春を愛でた自身にも向けられた。


「樗木さん」


 沈黙が耐えられなくなり、城崎から口を開いた。


「そういえばさ、話って何だったんだ?」

「ごめん……すっかり忘れちゃってた」


 助け舟を出され、樗木はさきほどまでの表情を職場にいる時のように和らげた。

 彼女は持参してきた鞄から一枚のカードのような物を出すなり、対面する城崎の方へ渡す。それは施設のIDカードで、コピーした物なのか名前や職員のナンバーが記さていなかった。


「佐中所長があなたを呼んでるの。生成プラント区画に来いってね」

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