70話
小春の犬耳に向かって、城崎は『星の王子さま』の朗読を始めた。ゆったりと丁寧に、余裕をもたせた言葉遣いで、冒頭部分の文章が研究員の口から静まり返った収容室中に伝わった。
ベッドの上の少女は気持ちよさそうに目を閉じていたが、時折、耳と尻尾を跳ねるように動かしていた。すぐ近くにいる最愛の想い人の声に安心しきっているようだった。
城崎の方も徐々にではあるが、震えていた声も収まり、リラックスしていった。そして本の世界、一人と一匹の世界へと没入する。
この物語は主人公である「ぼく」に対し、他の星を旅してきた少年の「王子」が話をいくつか展開することで進行する。
そこで主に語られるのは、王子が旅の道中に他の惑星で見た、哀れな大人たちのことである。例えば、自分が所有する惑星をひたすら数え直す忙しい実業家や、プライドの高い王様、現地に赴いたことがないのに自身の力量を疑わない地理学者など──だ。彼らと出会う中で、少年の王子は「大人とは不思議で、よく分からない変なもの」だと首を捻る。読者の年齢によって、ここの文章がシニカルな要素をたっぷりと含んでいるように捉えられる仕掛けになっている。大人というひとつの存在に警鐘を鳴らす構成になっており、王子はその旅の道中で「本当に大切なもの」とは何かを自分なりに考えていく。
本作はフランスの作家であるサン=テグジュペリが書いた児童文学の傑作であり、読者の年齢の変化に伴って、この作品に抱く印象や感想がまるで変化する。また洞察に富んだ描写や台詞が人気で、今でも世界中に多くのファンを獲得している作品だ。
城崎はその本を口に出して読み上げていく。文章が身体に浸透する錯覚に陥りそうなほど、今の彼には響く内容がひしひしと綴られていた。彼は思い出していた。去年の四月、脱走時に捕まって地下牢で過ごすことになった小春から言われた台詞を。
『ひとつ聞くけどお前は大人?それとも、こども?』
『私にはわかる。お前は大人じゃなくてこどもなんだ』
今思えば、きっとあれらの質問はこの本からの受け売りに近いものだったのだろう。
『大人はもっと建設的な話がしたいんだ』
城崎は、そんな少女に返した自分のその発言も思い返した。
なるほど、自分はこの本に出てくる大人ようにどこかつまらない人間だったのかもしれない──。あるいは、見るからに年端のいかない少女から子供だと言われたあてつけか。どちらにせよ、面白みに欠けた発言であることには違いない。
小春からの質問は、その後も何度か城崎の心を悩ませることになった。
十数年も前の愛犬・シロへの執着心を無くすことのできない弱い自分。彼女の代理を204にシロと名付けて託そうとしてしまった、浅ましい自己。
犬を偏愛する研究員にとって、果たして自身が真に自立した人間なのかという疑問は、日を増す事に大きなものになっていった。子供扱いしていた小春の方が、よほど精神的には成熟しているようにすら思える時もあった。それでも、彼にも曲げられない持論があった。犬という最愛のパートナーを亡くして、すぐに立ち直ることは犬に対してあまりに申し訳が立たないのではないだろうか、という考えだ。
例によって、彼は年齢的に子供の頃、飼い犬を亡くした友人がわずか数日で元通りの調子に戻っている様子を目撃し、その友人を激しく軽蔑したことがあった。
犬が去ってしまったのに、何故そうも平然としていられる?お前は自分の犬の死が悲しくないのか──。というのが城崎の主張であり、彼の犬に対する異常なまでの執心の根底を成す基盤だ。現に彼は、十数年以上もシロの死を嘆き悲しんでいる。
そして、その代わりとして小春を見つけて愛した。しかし今となっては、かつてのあの友人と自分のどちらが正しかったのかすら曖昧だった。
第一に、小春はシロではなかった。逆もまた然り。小春もシロも──彼女という存在は、彼女自身でしかなった。白い体毛、同じ犬種、似たような性格や習性と食べ物の好みがあっても、同一の個体ではないことは明白である。
では、シロではなく小春を大切に思う自分は、やはり犬を乗り換えた浮気者なのか?
そもそも犬を亡くした愛犬家が、新たに別の犬を飼うのは、過去の犬に対する裏切りに当たるのだろうか……?
『星の王子さま』を読みながら、城崎は生来の癖を恨んだ。掘り下げすぎて地盤沈下してしまうような悪い考え方は、研究員には向いているかもしれないが、犬と愛情に生きるべきである愛犬家には不必要なものだ。
朗読は進む。目の前のことに躍起になって、「大切なもの」や事物の本質、更には深淵な人生の重きからは逃げる大人たちの話が終わり、物語は少年の王子と一匹のキツネが出会う場面へと差しかかる。
「“きみがぼくを飼いならせば、ぼくたちはお互いに相手が必要になる。きみはぼくにとって、この世で唯一の存在になるだろう。ぼくもきみにとって、この世で唯一の存在になるだろう……”」
読み上げた文章に、思わず城崎ははっとした。まるでこれは、自分と犬の関係を言っているようではないか、と。
少年の王子はこれまで旅をしていたが、なぜ旅に出たのかというと、それは自分の星にて、一輪の喋るバラと喧嘩したからだった。しかしキツネのこの言葉で少年は気づかされる。自分にとってのバラは、自分が世話し、関係を築いたあの一輪のバラの他にはいないのだと。彼女こそが自分にとっての唯一のバラなのだと──。
城崎は穏やかな声をなんとか取り繕いながら、本を読み進める。
それからキツネは、少年の王子に、自身と仲良くなってほしいと伝える。つまり自身を懐かせて互いに「唯一の存在」になってほしいと迫る。王子は時間がないからと言ってそれを退けるが、キツネは別れ際に教える。
「……“大切なものは、目に見えない”」
*
キツネの場面が終わると、既に時刻は日付変更前だった。城崎は小春の様子を確かめるため、開いたページから一旦顔を上げた。
「……小春?なぁ、おい?」
普通の声量で呼びかけたが、返事はなかった。
まだ全てを読み終えた訳ではないが、ベッド上で毛布にくるまっている小春は、可愛らしい寝息を立ててすっかり眠りに耽っていた。
毛布は、少女が微かに息をする動きに合わせて上下し、彼女の生命を研究員へと証明していた。その様が、まるで殺すなと懇願しているかのように見えて、城崎はさっと目を逸らしてしまった。
だが、次なる視線の先にはサイドテーブルがあり、その上には投与剤の液体をたくわえ、ぎらりとした注射器の針が依然として恐ろしい存在感を放っていた。
城崎は寒気がした。
そこには美しい本の世界は広がっていなかった。これまで趣味のカメラでいくらでも再現して見てきた思い出による美しい情景も役には立たなかった。一年足らずの小春との懐かしい日々の記憶も、数時間前の屋上で彼女が体感させてくれた犬人の感覚の世界も全ては失われるのだ。他の誰でもない、この手で。
城崎の眼前に真にあるのは、現実という名の絶望と、外とは隔絶された収容室の無機質な人工空間。しかしそこに、まだ息のある可愛い小春も、たしかにいる──。
そこから少女をこの手で排除し、次いで外の出来事から干渉されないこの安全な空間を喪失し、最後の現実だけはいつまでも消えずに残る。犬のことを忘れるか、自分が死を迎えるその時まで。
研究員は自分の髪を掻きむしり、頭を掴むように抱えた。今にも正気を失って発狂してしまいそうだった。腹立たしいことに、溢れ出す苦しみから目を覚ましていられる方法は、彼は痛みしか持ち合わせていなかった。
「早く、早く打たないと……でも、そんな、嫌だ。こんな可愛い子にっ?この子に、そんなのは……」
一気に鼓動の感覚が狭まり、連続して波打つ。吐き気がした。目眩に襲われ、城崎は椅子からベッドにもたれかかるようにして体勢を崩した。彼女に覆い被さるような構図になる。すぐ近くには飼い犬の少女の顔があった。
綺麗な白髪と、警戒心なく垂れた犬耳。ぽかりと開いた口からは犬歯が見えた。毛布の盛り上がりをめくると、彼女の華奢な体躯には少し大きいサイズの尻尾があった。
「小春……」
城崎は飼い犬の肩を軽く触ったり、尻尾や犬耳の毛並みを撫で回し、少女らしく柔らかな頬を指でつついたりしたが、彼女は幸福な夢の世界から意識を現実に戻すことはなかった。とっくに熟睡しているようである。こうなると落雷でもないと起きないだろう。
鎮静剤の幸運な作用がなければ──明日以降だと、こうも静かに小春が睡眠をとることは無理だ。そう理解していても、起こさないよう細心の注意を払うことなく、城崎はわざと彼女の身体を触ったり揺らしたりした。あの声をもう一度だけ聞き、愛情表現を見たかったのだ。往生際が悪いことは承知の上だ。寝た後に気づかないように殺してほしいという彼女の要望を無視しているのだとも分かっていた。城崎は、彼女と二度と会えなくなるだなんて考えられなかったのだ。
だが、自分が今していることの愚かさを唐突に気づくなり焦燥感すら萎えていった。
否が応でも途端に冷静な思考が蘇ってくる。小春に対し、執着にも近いほど愛情を注ぐ彼にとって、それは快いものではなかった。
やることをやる。他の大人のように。大切なものを無視し、とにかく目の前のことだけを……。
彼は嫌だった。でも、小春のためには、それをやらなければならないことも悔しいが事実だった。
城崎はよろめきながら、壁際の照明スイッチに触れて部屋の明かりをふたつほど落とした。視界は真っ暗ではないが、本の文字を読むのには苦労するぐらいの明るさだ。それは彼女が起きないようにするためというより、研究員自身が飼い犬を殺す場面を鮮明に目に入れたくなかったからだ。
サイドテーブルから注射器を拾った彼は、ベッドで眠る飼い犬の腕を持ち上げて位置を調整した。
「……小春、今まで……」
頬を越し、首まで下る涙を手で拭った。最期に彼女の口元に軽く接吻してから小声で言葉を継ぐ。
「本当にありがとう。僕、分かったんだ。君はシロじゃない。君は小春なんだって……。それは悲しいことなんかじゃないってことも──やっとね。やっと、分かったんだよ」
右手に握る注射器を今にも握り潰して捨ててしまいたかった。その衝動に駆られながらも、研究員は飼い犬に続ける。
「大丈夫、あの時の約束は必ず守るよ。小春がいなくなっても、僕には君だけだ。代わりなんてつくらない。だから……だからな、安心して……」
そこから先は言葉にならなかった。嗚咽と涙で顔がぐしゃぐしゃになった。その酷い顔をなんとかしようと白衣の袖丈で乱暴に拭うと、白衣の布にしみついた、少女と犬が混じる小春の独特な匂いが城崎の鼻腔に届いた。
瞬間、小春との数々の思い出が一挙に脳裏をよぎった。
初めての出会い。本の没収と本の贈与。彼女を止血するための抱擁。糧食以外の食べ物を口にした時に見せた、水草のような犬耳の揺らめき。小春と名前をつけたこと。文字の練習、盲導犬をはじめとした訓練。シロを追憶するため雨の屋上にて身体を愛撫したこと。暑い夏の日、団扇で懸命に涼む彼女。アイスを美味しそうに食べる彼女。そういえばあの時、アイスの棒まで彼女は食べてしまった──。芝生の上で寝転がり、一緒に見上げた夏の大三角。異動工作に屈し、担当を外れた一ヶ月。彼女を傷つけてしまった謝罪文の出来事。それに試験でのアクシデント。落選発表。彼女との雪合戦。寒い部屋の中で、身を寄せあってした読書。クリスマスイヴの脱走と、一夜限りのデート。彼女との喧嘩。地下牢での再びの対峙と、お詫びのチョコレート。感染症の告白、語られる真実──。
そして春が巡り、特別収容室で一緒に過ごした毎日……。
少女との楽しくも切ない四季が走馬灯の如く城崎の全身を駆け巡り、風のように去っていく。
その時、匂いや味から過去の記憶などを強く呼び起こすプルースト効果というものを研究員は体感していたのだ。嗅覚を重要とするのは、なにも犬や犬人だけではない。人間も同じだ。人間の脳も構造上、外部からの視覚よりも嗅覚の方が段階を踏まずに直接刺激されるという。ホモ・サピエンスが進化の過程で培っていた原始的な感覚を司る脳の部位が現代人にも丸々残されているためだ。
小春が日頃から飼い主の白衣を欲していたのも、彼と抱きついた時に鼻をすりつけるようにして匂いを吸引していたのも、おそらくはそのためだ。
そうして脳から記憶を常に呼び起こし、快楽を得ると共に、想い人のことを忘れまいと無意識に務めていたのだろう。犬と人間の合成人種であることを鑑みれば、彼女の行動は理にかなっていた。
我に返るなり、城崎はくすりと小さく自嘲的に笑った。最後の最後まで、犬人の研究に関する発見を探している自分がいたことがおかしかったのだ。
曲がりなりにも笑顔になると、まるで飼い主の意向を反映するかのように、小春の寝顔も悲しそうなものではなくなっていた。無論、彼女は寝ている。ただの気のせいに過ぎないかもしれないが、やはり犬は人の生き写しで鏡なのだ。城崎はそう確信した。自分自身が卑屈になれば、犬もそう見える。逆に、自分が笑ってさえいれば──犬もまた、笑顔でいてくれる。
城崎は、これが終わるまでは笑顔でいようと思った。たとえ飼い犬を殺すことをしている最中であっても。死にゆく飼い犬への悲しみ、そしてあの人物への怨嗟のすべてをこの時に限って取り払った。
城崎は笑顔で小春の頭を撫でた。
「愛してるよ。じゃあな……小春」
そして投与剤の注射器の針を刺した。一思いに、内容物を彼女の血管に、生きている彼女の中へと無慈悲にも押し込んだ。
投与する液体が注射器から無くなると、城崎は針を抜いて音もなくベッド上に捨てた。感情のない蒼白した顔つきで、飼い犬を楽にしてやった罪深い手を白衣のポケットに収める。
直後、さしたる変化はなかった。小春の寝顔は幸せそうに微笑んだままだった。しかし、暫くして発作的に痙攣したように手足などの末端が細かく震え始めた。やがてフェードアウトするようにそれは落ち着いていき、とうとう彼女の身体は絶対零度に晒された物体のごとく静止した。
ベッド脇に設置されたハートモニターは拘束具の時と共に外されていたために、ドラマや映画によくある、波状の心音が一直線になるという劇的な最期を飾ることはなかった。
小春は静かに眠りに落ちていった。生涯を設計され、消費され、死ぬ未来を予め造られていた悲運の少女が。
彼女の死は誰にも知られることなく、人と犬の歴史に名前が残されることもない。良くてもせいぜい、実験研究用に数いる犬人の個体の中のそのまた一匹程度にしか認知されないことだろう。彼女が好んだ個人的な趣味趣向、それに願いや精神、性格、好きな本といったものは見向きもされず、求められるのはF型・柴犬の雑種の身体を蝕んでいた感染症や緑内障の経過観察のデータだけだ。
城崎はそう悟ると、彼女へ作っていた笑顔が消えていることに気づいた。涙も枯れて出なかった。
研究員は必死に笑顔を浮かべようとしたが、一切の表情を取り戻すことが出来なかった。愛犬がいないのに、笑っている意味なんて見いだせなかったのだ。彼女が空から見守っていると思っても、笑えなかった。言葉を失いかけた。緊張から開放された気分は全く湧かなかった。心臓の鼓動は痛むほどの速度で打っている。
何も考えていたくなかった。城崎は淡々と研究員としての仕事に戻った。白衣のポケットから携帯端末を取り出し、指示されていた通りに事後連絡を始めた。
そして逃げるように特別収容室から出ていった。何事かと二名の警備員から止まるよう言われるが、それも振り切り、飼い犬がかつて暮らしていた部屋の方を一瞥することもなく、城崎は職場を離れて家に帰っていった。
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