69話

 ここにも監視が張られていたのか──。城崎は、駆け寄ってきた小春を庇うため、咄嗟に彼女を両腕で包んだ。

 一方の小春は、飼い主を盾にする気は更々ない様子だった。彼の腕の中から因縁の部外者に対し、不機嫌そうに歯を剥き出しにしていた。城崎が力を緩めれば、すぐにでも195に食いかかりそうな勢いである。

 小春が喉の奥から遠慮のない唸り声を上げると、195は給水タンクの上から屋上の床へ降りた。着地の衝撃で放置されていた古びたバケツが揺れる。それは過去に彼女たちの喧嘩を止めるため、城崎が使った物だった。警備の犬人は無表情で、ゆっくりとした足取りで一人と一匹の方へと歩いた。


「195!頼む、どうか今は見逃してくれ。お願いだ」


 城崎が言った。小春はその間にも唸り声で威嚇の姿勢を休めなかった。しかし195は、ぎこちなく首をかしげるだけだった。その仕草がなんとなく自身の飼い犬の少女のそれと酷似していると研究員は思った。


「なんのことでしょうか?城崎さん」

「……え?その、ここに僕たちが来たことを」

「僕たち?いいえ。私には現在の城崎さんはおひとりのように見えるのですが」


 警備の犬人の予想だにしない言葉に、一人と一匹はぽかんとして顔を見合せた。飼い主は飼い犬の身体の感触を確かめた。彼女は幽霊ではない。

 この子はここにいる。どういうことだ──。城崎は195へ懐疑の視線を向ける。

 195は、唖然とする一人と一匹の横を通り過ぎて、出入口の扉へと向かっていく。彼女の片手にある銃口は床と垂直だった。


「屋上に休憩に来たことを誰も咎めはしません。仕事中であっても、外の空気を吸うことは気分転換になると聞いたことがあります。仕事の能率改善のためには必要な処置かと思われます」


 なんのことだと小春は苦言を呈しそうな顔つきだったが、城崎はその言葉に内心とても驚いた。

 195の担当だった頃、休憩中、城崎は彼女を連れて「外の空気を吸う」ためにこの屋上に来たことがあったからだ。その後すぐにタンクの物陰にいた小春と偶然にも再会し、元飼い犬と現飼い犬の立場をめぐって彼女たちは喧嘩することになった──半年ほど前のことだ。無感情で、何の自我も関心も持たないと思われていたあの警備の犬人が、そんな他愛のないことを丹念に記憶していた。それに今、婉曲的な言い方でこの場の一人と一匹のことをあろうことか見逃そうとしている様にも見える。


「195……そのさ」


 城崎は思わず彼女を呼び止めた。


「なんでしょうか?」

「あの夜景、どう思う?」


 街の方を指さした。

 彼女の表情は動かなかったが、F型の青い瞳の奥に、ほんの微かに高揚こうようの色があった。


「綺麗です。私を造った、人間の方たちの営みの光ですから」


 扉が閉まる。片腕の犬人が屋上から完全に出ていくと、小春は飼い主の腕の中で、目を細めて小さく肩を竦めた。


「あいつ、ほんとに195?」


 小春はかつての宿敵を怪訝に捉えているようだった。たしかにあの警備の犬人は、これまで一人と一匹の事情に肩入れすることは決してしなかった。小春からしてみれば、さきほどの195の言動はどれも奇妙に思えたことだろう。


「そうだぞ。試験で小春に助けられてから、なんとなく変わったみたいだな……前よりも良い子になった」


 なんとなく、とは言ったが、195の意識の変貌を目の当たりにして、城崎は確信した。やはり小春だけが特別なのではないのだ。犬人には普遍的な自我や心があるのだと。佐中が提唱した犬人理論は誤りであり、修正が必要なのだとも。

 投与剤の件での会話で、所長本人はそのことをどうやら分かっていたらしいのが、また釈然としなかった。だが、自分の考えが正しかったことで、城崎は叩きのめされていた自尊心が僅かながらに癒えた。それに事情はともかく、この窮地を切り抜けられたのだ。彼は胸を撫で下ろした。


「前って?」


 安堵に表情を和らげる城崎だったが、小春は眉を八の字にした。


「ほら、一ヶ月ぐらい小春からあの子に担当が移った時があったろ?その時は、もっとこう……なんていうかな、195は無愛想で融通がきかない感じだったんだよ。真面目だけど笑わないし、景色を見ても何も思わない子だったんだ」

「ふーん……そうなんだ」

「でも今は違うみたいだ。夜景に対してあんな風に思ってたみたいだし……成長したんだろうな、あの子も。感心したよ」


 それを聞くなり、小春はすぐさま飼い主の隙をついて、彼のことを抱きしめ返した。とても力強かった。瞬時に全身を締めあげられる。


「なにそれぇ、ねぇ。なんでそんなに195をほめてるの?浮気?」


 小春は飼い主の顔を見上げながら、むぅ、と頬を膨らませて低い声で詰問した。どうやら元担当の犬人を見直した発言がお気に召さなかったらしい。本気で怒っているわけではなさそうだったが、彼女は些か不機嫌に顔を歪めている。


「全然違うけど」


 落ち着き払って言うと、やがて小春は腕の力を緩めた。離れてから、つまらなそうにぷいっと顔を背ける。


「……そんなのわかってるよ。ちょーっといちゃっただけだもん。しろさきのばーか」


 軽口を叩き、拗ねる小春。犬人の横顔は月明かりと淡い夜景に照らされていた。城崎は見惚れそうになった。その視線に気づいた飼い犬はくすりと笑う。


「……しろさきも私のこと大好き?」

「言わなくても分かってるだろ」


 城崎はぶっきらぼうに受け答えた。


「ちゃんと聞きたいの」

「……大好きだよ、小春」


 言い淀んだものの、飼い犬に催促される形で、城崎ははっきりと告げた。小春はふふんと得意げに笑って、尻尾をばたつかせる。高速で尾が振られて扇状の残像が浮かんだ。

 その後、小春は高ぶった感情の発散の仕方が分からないように突発的にフェンス沿いまで走ってから、想い人の方へと振り返った。羽織っている白衣の裾がふわりと舞って少女の白さと重なる。


「ありがとっ!あのね、しろさき、私ね?この世界に生まれてきて幸せだったよ。あなたと出会えて、とってもよかったよ!」


 小春の目元は微かに涙で濡れていた。早くも鎮静剤の作用による感覚麻痺が悪い意味で回復しかけ、緑内障の激痛に襲われているのかもしれない。そうでなくとも、彼女の身体は弱まっているのだ。

 それでも少女は笑顔だった。今日まで世話になった飼い主に、気丈に振る舞っているのだ。

 城崎の方も涙を堪えて、精一杯に笑ってみせる。


「ありがとう。小春、僕もだよ──」


 小春がいるフェンス付近まで走り、彼女のことを思いっきり抱きしめた。彼女から嫉妬で抱きつき返された時よりも、遥かに強く、深く、甘く。少女は飼い主の方に身を寄せてそれに応えた。

 城崎は少女の身体の重さを噛み締めた。細い彼女の身体の肉つきは以前に比べて弱々しく、最悪なまでに衰弱していることが嫌でも分かってしまった。今夜に投与剤を与えず、決行日まで無理に延命させる選択肢はないようだった。


 一人と一匹は抱き合いながら、フェンスに身体を預けた。冷涼な風は止んでいた。互いの体の熱と感触、体臭、呼吸と鼓動のみがこの世界に存在する本物の幸福のように思えた。

 城崎と小春は、網目状に望める──遠くの街の光を眺めた。


「……どうしてこうなったのかな?僕はどこで道を間違えてしまったんだ?どこからやり直せば、君を助けられたんだろう」


 研究員の口から、するりと本音が出た。少女は何回か迷ったように瞬きする。


「しろさき。そんなのもう考えなくてもいいよ」


 ぺたりと飼い主の両頬に温かい手を当て、小春は続ける。


「いつか、こうなってたんだもん。おてきが病気のことを私に伝えなくても……。195じゃなくて、私が試験でマネキンを運んできていても。むしろね、そうしてた未来の方が、きっと今あせってることになってると思う。それに、しろさきは私のために色んなことをしてくれた。だからね──誰もなにも悪くないの」

「……そうだな。あぁ、きっとそうだよな」


 ──いいや。違うよ小春。


 城崎は口には出さなかったが、心の中で飼い犬の健気な励ましを遮った。


 ──なにがあっても、僕はあの所長だけは許せないんだ。


 暗い感情がふつふつと沸く。憎悪があった。拭えなかった。ただ、今ばかりは忘れていようと城崎は思った。彼は小春に習い、相手の両頬に手を添えた。顔の向きを真正面のみに向けられるよう、そして逃げられないよう留めるためだ。そのまま、飼い犬の柔らかな唇に自身のそれを重ねた。彼の舌が少女の口内に入り、奥深くまさぐった。小春は驚きながらも、すぐに法悦とした蕩けきった表情になった。彼女の方も飼い主の口の中を味わうべく力を入れる。


 一人と一匹は、互いに貪り食らいつくようにして相手を求めた。愛し続けた。粘っこい唾液が二つの舌で執拗に混ざり合った。それは愛情や親しみ、今生の別れを前にした悲哀の念や名残惜しさ、後悔など──実に複雑な感情を相互に伝播させた。しかし少女の身体に巣食う病だけは伝わらなかった。



 屋上での星空の鑑賞が終わると、一人と一匹は特別収容室へ別々の道で戻った。時刻は午後九時半だ。

 道中で、仕事用の携帯端末に佐中から職務に関するテキストメールが来ていた。投与剤を打ち終えた後、連絡をするようにとだけ書かれた簡素な伝令だった。

 もしかしたら、鎮静剤が明日の朝以降も作用してくれるかも──。そんな淡い希望がないことはなかったものの、彼女の身体や精神状態が悪くならない保証もできなかった。今夜にあの薬を投与することは避けられなかった。そしてそれは、小春の意向に従って、彼女が安息の眠りの世界に落ちてからのことである。


 飼い主・担当職員──しいてはパートナーとして、最期にする仕事が文字通りに眠りを見守ることとは、なんとも皮肉なことだった。

 邪魔な拘束具を取り外したベッドの上に寝転ぶ小春は、目を閉じていた。しきりに手の甲でそこを擦りながら、傍の椅子に座る飼い主へ顔を向ける。


「しろさき。おやすみ」


 元気な声で、いつものように彼女は言った。最後の挨拶にしては素っ気ないようにも思えたが、なるべく普段のままでこの世を去りたいのだろう。

 飼い主は変に取り乱したりはせず、打ちひしがれる嘆きの心を殺しながら「おやすみ」と言い、小春の頭を強めに撫でた。電気を消そうと椅子から立ち上がるも、飼い犬が白衣を掴んできた。就寝する前に少女から返されたその仕事着は、今はまた城崎が着用している。


「しろさきぃー……」


 寂しそうに犬耳を垂れさせ、小春は潤んだ目と声で飼い主を呼んだ。


「どうかした?眠れない?それとも、やっぱり白衣を返してほしいとか?」


 子供をあやすように優しく語りかけると、小春は「ぜんしゃ」と短く言った。前者ぜんしゃ。少女は辛そうに瞬きする。

 口にしないだけで、彼女の目は緑内障による痛痒つうように苛まれているようだった。あまり効果はないが、彼女に目薬を打ち、城崎は今度こそ眠るよう促した。

 だが小春は、不服そうに足と尻尾をばたばたとベッドの上で動かす。


「やぁだ。本、本読んでよしろさきっ。ねる前の本!」


 枕元にある『星の王子さま』を飼い主に提示して、少女は駄々を捏ねた。


「はいはい。いいよ、読むから」


 城崎は嬉しそうに苦笑した。本を受け取り、椅子を更にベッドに近づけてから座る。ハードカバーのその児童文学の本を開き、物語が始まる最初のページで手を止めた。


「小春。一緒に読む?もしくは読み聞かせ?」

「うーん……こうしゃ」


 それは意外な返答だった。小春は本のイラストも含めて、飼い主と触れ合いながら『星の王子さま』を読むことが好きだったので、研究員はてっきり「ぜんしゃ」と返ってくると予想していたが、そうではなかった。

 少女は目を閉じたままだった。枕に頭を載せて仰向けになり、眠りに落ちる準備は整っているかのようだった。


「目が痛むのか?」


 城崎が心配そうに小春の肩を軽く揺すると、彼女は微笑んで片目だけ僅かに開いた。白目は痛々しく朱色に充血している。


「ううん……そうだけど、そうじゃないの……そのね、しろさき。私、これからお星様になるもん。上からしろさきのこと、ずっと見てられるでしょ?」

「それがどうしたんだよ」


 返事に詰まりそうになる城崎だったが、少女の最期の行動の真意を汲み取ろうと試みた。


「お空だと声が聞こえないもん」

「空って……宇宙のことか?」

「うん。本で読んだよ。お空ってね、空気がないから音が聞こえないんだって。だからね、私──お星様になると、もうしろさきの声が聞こえなくなっちゃうの」


 よく見ると、少女の頭部に生える二つの犬耳は、アンテナ受信機のように飼い主の方へ器用に向いていた。


「でね、最期にしろさきの声をおぼえておこうと思うの」

「なるほど……なんか、あれだな。小春らしい意見だ」


 目頭が熱くなった。城崎は無理に笑ってから、泣くまいと懸命に心を抑えた。黙っていられずに少女に質問する。


「それなら匂いは?いくら君の鼻でも空からだと僕のこと嗅げないだろ?」

「それは大丈夫だよしろさき」

「どうして?」

「……私の口の中に、しろさきの匂いがのこってるから。消えそうにないし」


 小春は頬を赤らめて言った。


「そうか。じゃあ匂いはもう忘れなさそうか?」

「うん、ぜったいにね。だから、次は声なの。しろさきのすてきな声。それでその本を読んでくれたら、本の内容もぜったいに忘れない。いいことづくめでしょ?」

「そうだな。ではそういうことを何て言うか知ってるか?」

「えー?なんだっけ?うーんと、一石二鳥……だっけ?」

「正解。小春は物知りだな」

「そんなことないよ。まだまだ知らないこと──ちがっ……ごめん。しろさきがわるいんじゃないからね?」


 小春は話している最中に、それが飼い主を攻撃してしまうかもしれないと思って訂正した。まだまだ知らないこと……。城崎の方も、そのことは前から悔いていたことだった。小春には何か教えられることが他にももっとあったのだ。

 犬にも人にも命には限りがある。当たり前の事なのに、人はいつもそれを忘れて後で嘆くことになる。城崎は今まさに、その当たり前という現実の矛を額に突きつけられていた。


「ああ。でも、小春にいっぱい言葉を教えてやれたかもしれんのは本当のことさ」

「しろさき……」

「まぁそんなわけで、今からの読み聞かせは国語辞典にでもしようか?」


 暗い空気が漂い始めるかと思いきや、城崎から放たれたその冗談に、小春は犬歯を見せて笑った。


「やぁーだ。『星の王子さま』がいい」

「もちろんそうしよう」


 城崎は空咳をしてから、手にあるその本に目を落とした。ただの本を読み始めるのがこうも辛いことは、後にも先にもこれっきりだろうと彼は思った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る