68話

 少し経って、やっと落ち着いた様子の小春は、飼い主と並んで出入口の近くにあるベンチに腰を下ろした。屋上での昼食の際に座っていたところだ。

 小春は夜空に指さした。昼間に予習した星座の本の内容を思い出しながら、次々に星座を見つけていった。声に出してひとつひとつ名前を呼んでいく。中でも彼女のお気に入りは──。


「おおいぬ座とこいぬ座、あったよしろさき!」

「……どこだ?」

「オリオン座の横だよ。明るい星があるでしょ?」


 城崎は犬人ほど目がよくなかったが、小春の指し示す方向に目を凝らすと、言われた通りの星の配置があった。


「こいぬ座って、ふたつしか星がないんだよ。変だよね」

「そうみたいだな。ふぅん……。昔の人は、あれを犬だと思ったのか?なんだか信じられない話に聞こえるよな」

「そうだよねぇ」


 こいぬ座は二つの星で構成された星座だ。城崎と小春は隣にいる相手の存在をそれぞれ感じながら、星座に注視した。

 星座とは神話であり、神話とは言ってしまえば過去の逸話や知恵である。大昔の先人たちも空を見上げて犬のことを考えていた──そう思いを馳せると感慨深い。それもそのはず、星座に関する神話などの歴史は古くても紀元前数百年程度、つまり現代から数えてもたかだか二千数百年ほどの話だ。一個人からすれば膨大な時間の流れだが、犬と人間の歴史は更に長いのだ。

 よく言われているのが、約一万五千年前後ほど昔に当時の人間が犬との共存に成功したという話だ。最長で十三万五千年前とする学説もある。猫、馬、羊、牛、豚などの身近な動物たちよりも、圧倒的に犬が人間の友人なのだ。むしろ、なぜ星座の全てが犬ではなかったのかが不思議なぐらいだ。


 ゆったりと眺める夜空はやけに静謐せいひつだった。美しかった。夏の夜空よりもどこか、気温のせいか光が満ちて見える気がする。空気が澄んでいるだけなのだろうか。それとも、中庭で芝の上に転がって仰いだ夏の夜よりも、空に近いからだろうか。

 理由は絞れなかったが、城崎にはもはやどうでもよかった。隣にいる小春の方が重要だった。彼女は星々の夜に感動したように、足をブラつかせて鼻歌を歌っている。


「……それ何の歌なんだ?」

「なんのこと?」

「小春が歌ってたやつ。ほら、今さっきの歌」


 小春が機嫌が良い時に出る鼻歌は聞いていて飽きなかったが、そういえば何の歌なのか城崎は知らなかった。何種類かあるようだが、まず第一に、彼女が何かしらの歌を知っているのが不思議だった。

 カメラを見せたり、本を読ませたことはあっても、外から持ってきた音楽プレーヤーで音楽を教えたことはない。問題児扱いされ、城崎以外とは交流を絶っていた彼女が、他職員から教えてもらうとも思えなかった。


「知りたい?」


 珍しく飼い主の方が知らないことがあると悟った小春は、にやにやと自慢げな表情で有頂天になっていた。


「知りたい。小春のことだからな」


 だが城崎の方は真面目に肯定した。犬人研究者としての気概もあったが、彼女のパートナーとして気になったからだった。小春は彼がこうも真剣に返してくるとは思いもよらなかったようで、恥ずかしそうに目を逸らした。


「……もう。調子くるっちゃうよ、しろさき」


 小春は座ったままで姿勢を伸ばした。そして頭上に生える、白く美しい毛並みをした犬耳をタケノコのように律して立ててから目を閉じ、黙った。


 この子は何を始めたんだ──?城崎は疑問に思いながらも、彼女のその行動を見届けようと身体を向け直した。声をかけることはしなかった。

 小春は目を閉じたままで沈黙を守った。城崎は彼女の横顔を見つめた。

 次第に、ひやりと冷たい空気の流れが一人と一匹を横切っていく。その風が過ぎ行った時、小春は鼻歌を歌い始めた。それは歌だった。歌詞という歌詞はなかった。ハミングに飾る言葉はなかった。


 しかし一人と一匹の座るベンチの周りに、夜空の世界とは隔絶された別の空間がばっと広がったように思えた。

 それは城崎が生まれて初めて味わった感覚だった。一言で表すなら、風だった。風に当たり、それが過ぎるのを待つ常人のそれとは質的に異なったものだ。風に運ばれているというのも全く違う。それはあくまで自分の身体を介して風を感知しているに過ぎない。バイク乗りの人間が口を揃えて言う「風と一緒になる感覚」とも何か違う。小春の歌はそれらとは根本的に異なる。突風の音ではない。人工的なビル風でもない。

 風そのもの、とでも言えば正しいのだろうか。ともかくその歌は、感覚に鈍い人間の城崎には衝撃的なものだった。


 歌い終えて、少女が犬耳の屹立を解くと、その錯覚も解け散っていく。周りは前と同じように夜の屋上だった。

 研究員は感嘆して彼女に再度訊ねる。


「小春……今のは一体なんなんだ?すごく綺麗だったよ。それになんていうか、僕が知らない知覚だったみたいに思えて……なぁ、それで今のは何の歌なんだよ?」

「わかんないや」


 城崎は大真面目に問いかけたのだが、小春の方は冗談っぽく応えただけだった。


「わかんないってなんだよ」

「だってほんとにわかんないんだもん。あのさ、しろさき。これ曲名なんてないよ?風の音を聞きながら私が歌にしただけなの」

「だけって君……それ、普通に凄いことしてると思うけど」

「これがそんなに?うーん、しろさきの感性もよくわかんないなぁー」


 平然と言う小春に、城崎は呆気にとられた。

 犬は人間の耳では感知できない低周波を拾うという話があるが、小春もそれに近いことをしていたのだろう。それを人間の口を有した彼女が、人間の耳にも聞こえるようになるべく「そのまま」の歌として出力する。犬人ならではの歌──。さきほどのものは風の出力結果……つまりはそういうことらしい。

 城崎はそう推論を練ってから、小春に再び視線をやった。まだ彼女について知らないことがあるのではないだろうか。自分は何か、彼女のことを何も知り尽くしていないのではないだろうか──。そんな強い後悔が今更溢れてきた。


「しろさき?」


 小春がきょとんして、身体全体を斜めにするように首をかしげた。


「ごめんごめん。いつもの癖だ、考え事してただけ。小春のその特技について」

「特技……あはは、そっか。こんなものでも特技として見てくれるんだね?なら、前のプロフィール用紙に書いとけばよかったかも」


 それを聞いた城崎が吹き出すと、小春も同調して笑った。屋上の片隅に一人と一匹の笑い声が小さく響いた。

 星空の下、最後の夜。愛しく甘い時間。夜風のようには流れてほしくない時間だった。


 その柔らかな時間に冷たい横槍を入れるように、給水タンクの方から何者かの足音がした。


「──あっちに誰かいるよ」


 小春は表情を変え、ぽつりと飼い主に呟いて警戒を促した。彼女が注意を傾けた足音は城崎の耳にも聞こえていた。頷いて立ち上がる。出入口に振り返る。一人と一匹がここに来てから、誰も入ってきていないはずだった。

 給水タンクの方に人影はなかったが、言われてみると何か不穏な気配がしないでもない。小春は低く唸った。この場を部外者に目撃されたらまずい。城崎は焦った。


 佐中の言いようでは、処分は既にこちらの手に委ねられている。

 つまりそれは、今まで貴重な実験個体扱いだった小春が半ば免除されていた規則違反行動への減刑がこれからは全くないということだ。彼女のデータ採取が予定よりも早く完了していることは事実である。施設はいつでも彼女を殺しても良いのだ。そう、違反行動をしている不良品の犬人一匹の命ごときなんて特に。上層部が三月十五日を律儀に待っているのは、一人と一匹のための優しい配慮ではなく、単純に所長から声がかかってないからに過ぎない。


 投与剤を打つ──。本当の別れの時間を前に、もし逃亡が発覚してしまったとしたら?


 彼等は早急に処分することだろう。ガス室で苦しみ悶えながら死を迎える飼い犬の光景は考えただけでも恐ろしい。それは死んでも見たくなかった。どうせ死ぬのなら苦しめず……。

 城崎は小春をちらりと見る。そうだ、僕はこの子をあと数時間すれば殺すんだ──。彼は舌と口内に苦い味がじわりと湧いた気がした。しかし今は感傷的になっている場合ではない。足音の正体を確かめなければいけないのだ。


「小春。君がそいつの匂いに気づかなかったのか?」

「ごめん……わかんなかった。でも、なんで?しろさき以外の大人がきてたら、私ならすぐに気づいたのに」

「そうだよな。考えられる説として初めからあそこにいたとか?それとも白衣のせいか?」


 その問いかけに、小春は鼻をすんすんと効かせてから、飼い主へ力なく首を横に振った。


「それなら──それこそフェンスあがった時に、しろさきにおしえるよ」

「まぁいい、小春はここにいろ。出入口の扉を見張っててくれ。そこさえ君が塞いでくれれば、誰も出入りはできないはずだから」

「あっ。待って!しろさきっ」


 城崎は飼い犬の呼びかけを振り切って、問題の給水タンクがある方へと駆けた。


 ──誰なんだ?一体いつからここに?


 彼がそこの支柱につくころ、タンクの本体の上からまた足音がした。たんたんたん、と足音が大きくなっていった。その人物の足裏と鉄製のタンク部の空洞が低く響いているのだ。

 死角になってそちらが見えない。城崎は来た道を戻り、タンクを見上げた。そこには一匹の犬人が立っていた。白い毛並みをしたF型の犬人。頭の犬耳がシルエットとなって暗く姿を覗かせる。小春と似た、大きく上にぴんと張った耳。ドイツ原産のシェパードのものだった。


 その犬人は、夜に煌々と孤立する街からの光を背後にして、凍てつく無表情で城崎と小春の顔を順に見た。

 犬人は武装警備員の格好をしていた。ごつい防刃ベスト姿で、ヘルメットは頭部の耳を保護するべく僅かに盛り上がった犬人用の物を被っている。去年の四月、施設から脱走した小春を追跡した警備部隊の装備だった。その犬人には従来の犬人とひとつ違う点があった。右腕がなかったのだ。ただ、胸元には識別番号を記したネームプレートが付いていた。


「──195っ?」


 名前を呼ぶが、優良個体の模範たる彼女は顔つきを変化させなかった。

 対犬人用二十二口径ライフルを残った左手で持つ彼女はもう一度、一人と一匹の顔を眺めてから、銃を即座に握り直した。

 城崎は見慣れた195の無表情に戦慄せんりつした。

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