67話

 特別収容室の冷たい床に、腰が抜けたように座っている城崎は、ベッドに拘束されている小春を見上げた。これからより一層、苦しむ運命にある飼い犬。彼女を可及的速やかに殺さなければならない事態に追い込まれ、研究員は大いに動揺していた。

 急がなければならない。前に打った鎮静剤の効果により、小春が正気を保っていられるのは、おそらく最大で明日の朝頃だ。それ以降だと、彼女は再び激痛や幻覚、精神異常に犯されると思われる。そうなれば人間のように口もきけなくなる。記憶障害を併発すれば、彼女は初期みたいに暴れ犬に戻っていることだろう。


 その段階も終われば、ついに麻痺期に突入する──。


 今まで薬剤を盗んで小春に与えていたのは、彼女の苦痛を取り除いてやるためだった。ならば、この投与剤ドリームボックスだって根本は同じことだ。飼い犬を不幸から救うための仕方ないことなのだ。彼女の生涯に休息を与えることは、人道的にも倫理的に許されることなのだ。人間側からすれば、の話ではあるが。そのことは理屈では分かっていた。だが彼は投与できなかった。


「しろさき」


 ハグをせがむ時と似た感じの甘い声で、小春から名を呼ばれた。


「どうした、小春……」


 飼い主はベッドの枕元におそるおそる近づいた。

 犬人の少女は舌を出して、天真爛漫な微笑みを浮かべている。


「そのお薬、今すぐじゃなきゃダメ?」

「鎮静剤が持続するのが最大でも明日の朝ぐらいだと思うから……。でも、早ければ今すぐに君の身体は悲鳴をあげるかもしれないんだ」


 城崎は事情を説明した。途中に三回ほど重い咳をした。空咳ではなかった。湧き出る感情の高低差に苦しんでいるのは、なにも小春だけでない。

 愛らしい飼い犬が満足するよう、少女の前では愛情たっぷりに振る舞わなければならなかったここでの日々は、同時に飼い主として、それに研究員として、パートナーの飼い犬が死ぬという現実から逃げられなかった日々を意味していた。

 ストレスと睡眠不足で城崎もぼろぼろだった。


「しろさき、私の病気がうつっちゃったの?」


 犬耳をしょんぼりと下げる小春。飼い主は首を横に振り、「違うよ」と優しく囁いた。

 例の感染症は、恐るべき感染能力の高さ故に人類を脅かした。しかし犬人ペットからは他の人間ヒトドッグに感染することはない。二月末に特別収容室へと小春が移され、彼女の担当に復帰した際、城崎は佐中からそう説明を受けていた。

 事実、特別収容室での一人と一匹の間には飛沫感染防止用のビニールカーテンもなければ、防護服の隔たりもなかった。経過観察しようと入ってきた施設の職員たちもただの白衣姿だった。無論、城崎本人もだ。それは今も変わらない。

 本来、感染症は潜伏期間中にも他の動物や人間へ広がるものである。小春は生まれた時から犬由来感染症のウイルスを身体に宿されていたので、この二年近くの間に、感染症のセオリー通りなら、施設中に病が媒介されるべきなのだが──そうならなかったのは、犬人からはウイルスが漏れることはないという奇妙な法則のおかげだった。


 城崎はベッドから注射器を拾うと、それをサイドテーブルへ置いた。研究員らしく針の衛生問題を思案したものの、命を絶つための薬には無駄な考慮だろう。


「とにかくだ、小春。時間がないんだ。君を無理に苦しませたくはない。分かってくれるか?」

「……うん。でもね、その、私もうちょっとだけ、しろさきと一緒にいたいよ。だってお別れになっちゃうんだもん……一生。そうだよね?」

「そうだ」

「じゃあ、少しだけお薬をさきのばししてくれる?少しでいいの。今日の夜まででいいから」

「分かったよ。小春がそう言うなら……そうしよう」

「ほんとっ?ありがと!私、優しいしろさきが大好き。えへへ……」


 小春がにぱっと歯を見せて笑った。無邪気な少女の目は依然として緑内障のせいで赤かったが、幸か不幸か、犬人用鎮静剤の中毒症状で正常な痛覚が機能していない。そのおかげで今の彼女の精神状態は、発症以前の頃に限りなく近い。


「それでねしろさき。んと……えっとね?」


 学校から帰ってきた子供が今日あった出来事を親に向かって話すように、小春は話の舵をきる。


「うん。聞いてるよ。どうした?」

「そのお薬うつの、私が眠ってからにしてほしいの」

「寝てから?」

「うん。私が夜にね、夢を見てるあいだに。しろさきが、ねかしつけてくれたあとに……それならきっと、怖くないもん」


 夜。最期の夜──。彼女は眠りながら死にたいのだろう。鎮静剤の効果がそれまでに切れないことを期待するしかない。

 城崎は投与剤の注射器を一瞥した。それから視線を小春に戻し、拘束具に固められた彼女の額に手を当てた。


「熱は下がったままだな?体調は?」

「へーきだよ。最近だといちばんいいかも。しろさきのチューのおかげかな、えへ。なんちゃって」


 顔全体を朱色に染める小春に、城崎も自身の頬に赤みがさした感覚を覚えた。


「それならもっとしておけば良かった」


 空いた額に軽く口付けすると、小春は「今からすればいいよ」と言い、歓喜に鼻を鳴らした。


「しろさき」

「なんだ?」

「しろさきのこと、だきしめたい。ぎゅって……いっぱいに」


 恨めしい拘束具。調整自体は城崎の手でも可能だった。飼い主は迷う素振りもなく、愛犬の四肢を繋ぐ器具のロックをひとつずつ解除していった。最後に頭の拘束具を外した。

 気がついた時には、城崎は小春に凄まじい速度で飛びつかれていた。倒れそうになるも、通算何度目か数え忘れた彼女の体当たりを飼い主は慣れた手つきで受け止めた。


「随分と激しいハグだな」

「うんっ……うん!」


 自由になった尻尾も思う存分に暴れさせ、犬人の少女はがっつくように、飼い主の全身へ自身の華奢な体を押しつけて止めようとしなかった。


「ずっとこうしたかったの」


 拘束具をつけられてからというもの、ハグ出来なかった彼女は飼い主との全身規模の接触に飢えていたようだった。激しい抱擁は何十分も続いた。


「大好き。しろさき、大好き……」



 小春が落ち着く頃には午後二時を回っていた。一人と一匹は、なんとなく手持ち無沙汰になって、特別収容室に唯一ある小ぶりな窓から外を見た。

 ガラス越しに暖かそうな春の兆しが伺える。桜には早いが、春という季節は、この犬の欠けた世界に着実に到来しそうだった。


「お散歩したいなー」


 小春が少し残念そうに言った。

 城崎も同感だった。以前なら晴れた日には、よく中庭を彼女と散歩したものだ。それでなくても、廊下で共に盲・聴導犬などの訓練で身を寄せて歩いたものだった。拘束から解放することは出来ても、流石に警備員の目の前を通す訳にはいかなかった。


「……そうだしろさき!前みたいに、私をバッグにつめてみれば、外に出られるんじゃ──」


 名案だと言わんばかりに、小春は目を明るくして提案するも、飼い主の微苦笑を目にして途中で取り下げた。

 特別収容室の出入りの際、警備員による荷物検査が行われるのだ。実験個体の小春の素行を安定させるために必要だと認められた本などの物は大丈夫だったので、弁当を除けば、今まで気に病むことはなかった。

 だが、検査は収容室を出る時にも実施される。前回のクリスマスイヴのように大きめのバッグを使った幼稚な脱走劇は無理だろう。


「部屋の外、行きたいか?」


 城崎が訊ねると、小春はこくこくと首肯した。


「いいよ。じゃ、今から一緒にこの本を読もうか」


 飼い主はそう言って、ベッドテーブルに積まれた本の山から一冊の本を出した。小春用に与えた書籍たちから、星座に関する本を引き抜いたのである。


「星?まだお日様のぼってるよ?」

「外に行くのは夜になってからだ」



 昼間は比較的温かい気温になったが、夜は肌寒い。三月上旬の静かな夜。時刻は午後八時。施設南棟の屋上から仰ぐ今夜の星空は、一人と一匹のこれからの別れを惜しむかのように、これまでになく光り輝いていた。

 一足先にここに訪れていた城崎は、誰もいないことを再確認すると、フェンスまで移動した。そこの上まで登ると、上半身を乗り出す形で真下を見た。

 一つ下の階──最上階の窓が開いた音がして、一匹の犬人の少女がぴょこりと部屋から身体を外に出してくるのが目に映る。彼女は上方にいる飼い主に気づくと、元気にピースサインした。


「できそうか?」


 城崎はフェンスの反対側に降りて、片手で背後のフェンスに掴まる形で、もう一方の手を少女のいる方へ伸ばした。まだ彼女のことは掴めそうにない。

 最上階から出てきた少女は、施設の外壁にある窪みに小さな手をやり、犬人特有の馬鹿力で身体を支えると、無理矢理壁をよじ登ってくる。仮に落下してしまえば、たとえ犬人といえど無事では済まない高さだった。


「小春っ」


 足を滑らしそうになった彼女だったが、城崎が彼女の手を握ることに成功する。飼い主の協力もあって、少女は無事に屋上まで引き上げられた。一人と一匹はフェンスを登り、コンクリートの床に足をつけたところで互いに安堵の息を漏らした。


「なんだかスパイみたいで楽しいね」


 小春は、外壁と腹を接する時についてしまった服の汚れをぱんぱんと払いながら、飼い主へ無邪気な笑みをとった。


「冷や汗かいたが……まぁな。すごいぞ小春、まさか本当に登ってこれるとはな」

「うんっ!ほめてほめて?」


 城崎は小春から言われる前に、わしゃわしゃと彼女の頭を撫で回し始める。少女は満足そうに目をつぶり、飼い主からの愛情に身悶えした。

 一人と一匹は投与剤での別れの前に、最後の共犯をしていた。それはこの状況が物語っている通りである。施設内には留まるが、収容室から短時間だけ脱走するというものだった。別々に部屋を出て、別ルートで屋上に行って合流し、星空を眺めるのだ。

 警備員がいない外壁ルートを突破した小春は、誇らしげに胸を張っていたが、この気温の下がりようは想定していなかったようで、ぶるっと短く身震いした。


「さむいけど、外だと空気がおいしいね──あ」


 城崎は白衣を脱ぐと、それを小春に羽織らせた。少女は、飼い主から白衣をかけられたことに嬉しそうに熱く微笑んだ。城崎もそれにつられて笑う。


「気にすんな。今夜だけあげるよ、それ」

「えぇっ?ほ、ほんとにっ!?かすんじゃなくて?」

「そう言ってるだろ」

「えっ……へへへ〜!やったぁ!」


 小春は口角を上げた。城崎の白衣は、彼の匂いが染み込んでいる私物ということで、以前から彼女が欲しがっていた物だった。日頃よく着用する物であることと、城崎個人が持つ数にも限りがあることから、貸す形でも与えたことはなかった。借りた小春がそれを素直に返すわけがないからだ。

 収容室では常に一緒だったので、最近の小春は白衣を欲しがる言動は取らなかったが、こうして一時的にも外に出れたのだから、最後に彼女の願いを叶えてやろうと城崎は思っていたのである。華奢な小春が成人男性サイズの白衣を着ると、袖口から少女の手が完璧に覆い隠されてしまい、滑稽でシュールな姿になった。それでも城崎には小春が可愛く思えた。


「これでしろさきの白衣も私のだ〜!」


 小春は肩や袖の布地に鼻を当て、埋めるように擦った。城崎には理解のしようがないが、彼女にはとても良い匂いらしい。

 少女は袖を振り回し、高い跳躍力を活かしてジャンプする。特別収容室での闘病の日々で筋力は衰えていたはずだが、城崎の頭頂部あたりは軽く越えていた。


「あったかーいっ。それにね、それに、これしろさきの匂いがする!」


 小春は声を抑えながらも、めいっぱい喜びを爆発させた。幸福この上ない様子だった。城崎はその姿を見守っていた。目に焼き付けておこうと思っていた。彼女が全身ではしゃぐ様はこれで見納めになるのだから──との具合に。


「あ!」


 ぴんと大きな白い尻尾を張り、小春はなにか思い出したように身体を硬直させた。


「どうかしたか小春?」

「見える、星空!夜空だよ、しろさきっ。そうだった……私たちこれを見にきたんだったね!んへへ、忘れてたっ」


 小春は白衣への狂乱から醒めて、今度は飼い主の頭の背後、その遥か彼方の茫洋たる夜空に瞳を煌めかせた。

 彼女はまた声を上げながらはしゃいで、ぐるぐるとその場で回ったり、フェンス沿いを走り回った。犬らしく、活発な少女らしく三百六十度の夜の星空を堪能した。

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