66話

 小春への安楽死薬の投与を躊躇った時刻から、時は遡り──始業直後の南棟。

 城崎は、応接室のような造りのその部屋にある一人掛けソファに座っていた。付近の壁には能登谷が背を預けて立っている。


「本当なんだね?君が薬剤を無断で調達していたのは」


 おもむきある長テーブルを挟んで、向かい側に座る佐中がそう訊ねた。威厳の籠った言葉遣いだった。


「はい。間違いありません」


 立場としては城崎は犯罪者である。被害者側の施設の長である佐中に対しては、もっと申し訳なさそうに、情けなく萎縮した態度でいなければならなかった。けれど、この時の彼は、こちらに非はないとでも言わんばかりに堂々としていた。といっても、今の城崎が一種の放心状態に陥っており、周りからのやり取りにだけはてきぱきとこなしていたに過ぎなかったが。


 特別収容室での光景が目に焼き付いて剥がれなかった。飼い犬の少女が悶え苦しむ姿──。彼女から助けるよう懇願されても、何も出来ない状況に、城崎は到底耐えられなかった。

 それで収容室から逃げるように抜け出し、保管庫へ「楽にしてやれる薬」を探しに訪れたが、偶然にも鉢合わせた能登谷に阻まれ、所長室に連れてこられて今に至る。


「そうか」


 佐中は、若い研究員に一切感情を読ませない平坦な表情で返した。


「こいつの処罰はどうします?所長」

「私が決める。それに、元はと言えば君の管理能力の不足が原因だ。下がれ」


 生真面目な調子で指示を仰いだ能登谷だったが、保管庫の管理責任を問われて閉口した。彼は壁から体重を自身の体幹へと戻し、無言で部屋を後にする。所長室には、所長の佐中と、新人研究員の城崎が残される。


「……冷めてしまったな。新しいものを用意するよ」


 テーブル上のティーカップを持ち、佐中は腰を上げる。彼が歩く度、受け皿とカップがカタカタと小さく共鳴した。


「所長」


 城崎は毅然きぜんとしながらも、それでいてどこか肩透かしを喰らったみたいに安定しない声で部屋の主を呼んだ。


「どうしたんだい?もしかしてダージリンじゃない方がいいか?」


 応えながら、佐中は棚から茶葉を取り出す。


「いえ、それで大丈夫です」

「分かった……話を折ってしまってすまない。それで?」


 電気ケトルにペットボトルの水を注いでセットしてから、所長は緩慢に新人の方へ振り返った。


「……204はどうなるんでしょうか?」


 佐中は黙った。彼はカップに茶葉を入れ、隣の棚から写真立てを持ち出すと、窓辺に置いた。そこには黒い柴犬が骨に似た玩具を咥えている写真が収められている。以前、異動の件を直接抗議するためこの部屋に赴いた際、佐中が大切そうに見ていたものだった。


「君自身が一番よく知ってるはずだが」


 城崎は俯いた。それもそのはず、小春は既に助からないステージに突入している。否、犬由来の例の感染症は発症した時点で治療法はないのだから、もっと以前の段階に彼女の死は確定していたことだったし、来る三月十五日の決行は抗えない。

 佐中は落ち込む城崎に、窓辺から構うことなく続ける。


「先月、城崎くんをあの個体の担当に戻した時に全て話しただろう。それ以前にも、樗木からこの話は耳にしてるはずだ。そうだな?」

「はい。その、厳密には……樗木さんが204に話して、あの子から僕に伝わってきました」


 それを聞くなり、佐中は怪訝な様子で咳をした。


「204は、はじめから感染症と緑内障の病態進行をテストするために製造された犬人で、元から死ぬ事が前提の犬だった──。それだけの話だ。それに樗木が憤慨した。彼女は飼い主の君にいたく同情して、犬の最期を看取る羽目になる前に、君を異動させようと色々と工作をしていた……と、こんなところだろうな」


 頷く研究員に、所長は隠しもせずため息を吐く。


「彼女、一昨年に一匹の実験個体の担当を任されていたんだ」

「樗木さんが……?」

「そうだ。だが、その個体も204と同じで犬人による感染症の経過観察用の生涯を終えて死んだ。それ以降、彼女はこの施設内で奔走した。実験個体と思わしき飼い犬を与えられた研究員が現れる度、理由をでっち上げて、研究員からその犬から引き離すという……言わば異動工作に」


 城崎は驚いた。あの彼女がそのようなことを。同時に釈然としないことも出てくる。同僚の彼女は佐中の犬人理論の支持者であるのに、どうして小春の死やその担当の人間にまで気を配るのだろうか。犬人にも心や感情があるという主張に対し、異動の件を持ちかけていた、かの樗木は「非科学的」とか「雑種は不良品」などと、無情にも切り捨ててかかってきたではないか──。

 悶々と事態を整理する城崎だったが、ある時に合点がつく。


 ──まさか全部、小春から僕を引き離すための演技?


 そう考えれば話が上手く繋がる。つまりこういうことだろう。

 樗木はかつて、ドリームボックスが主導していた実験計画を知らされず、飼い犬の実験個体を救えずに失った経験をした。そして、その深い悲しみを他の研究員に味わわせないため、表向きは「犬人は単なる実験動物」というスタンスを鵜呑みにする普通の研究員を演じながら、裏では実験個体の犬と、新しい担当者との間を切り裂こうとしていたのだ。


「しかし……では所長。なぜあなたは、僕の異動に賛成したんですか?樗木さんの行動には、上層部もいい顔をしていなかったでしょうに」


 城崎はそれが気になった。秋頃、同じこの部屋で話し合いをした時の佐中の言葉は、まるで樗木のように、やけに思わせぶりで独善的くさいものだった。「君のためだ」とか「我々を恨むことになるかもしれない」など──これでは佐中が樗木側のように見えて奇妙だ。


「私も事情があってね。一時的に樗木に協力していた。彼女とはてんで別の理由だ。ともかく、その後に私は城崎くんの異動を上層部の連中に呼びかけた。すぐに申請書が作られ、さて話は無事に終わると思われたが──」

「僕が抵抗したわけですね」

「ご名答」


 二人の話を区切るように、ぱちりとケトルのスイッチの音がした。

 新しい紅茶の香りを嗅ぎながら、佐中はティーカップを両手に城崎と向かい側の席に戻った。片方のカップを新人の手元へ勧める。


「私はてっきり城崎くんは異動するかとばかり思っていた。でも君は違った。あの犬人のために、今日まで周囲と戦い抜いてきた。私という敵も含めてね」

「そんなんじゃ……ありません」


 紅茶をひと口飲んでから、城崎は酷く声を出しづらそうに返事をした。ちらり窓辺の写真立てに目をやる。黒い柴犬──。


「所長も、昔は犬を飼われてたんですよね?」

「ああ、あいつのことか。そうだ……本当に良い犬だったよ」

「不躾なことを聞きますが、それなら何故、あの犬人理論なんて薄情な論文をお書きになったんです?」

「薄情……か」


 佐中は眉を下げた。


「だってそうじゃないですか。犬人に自我や心があるのは明白です。でも、所長の論文ではないことになっています。これは納得できるものじゃないでしょう?」

「研究者失格だな、城崎くん」


 以前に彼としたやり取りと同様の流れになった。城崎はこれからどう切り返そうかと、あまり正常に働かない頭に鞭打って考えたが、それよりも早く佐中が笑い声を上げる。


「だが愛犬家としては百点だ」


 佐中はそう言ってまた笑った。あれほど厳格で近寄りがたい雰囲気の所長が──。それだけではない。犬人理論を完璧に否定することを口走ったのに、どうして怒らないのだろうか。

 一体何事なのか、と城崎は出来の悪い愛想笑いをする。


「あの……所長?」

「すまない、気にしないでくれ。久しぶりに気分が良かったものだから」


 ──気分がいい?


 城崎は耳障りがやけに良いその言葉に胸騒ぎがした。それは悪い予感というより、自分の方が何か重大な勘違いをしてしまっていたのかもしれないという不安から生じたものだった。


「さて──。話を本題に戻そうか」


 佐中が軽く座り直したところで、城崎もそれにならう。場の空気が一気に変貌を遂げた。

 本題。それは保管庫の責任追及の件ではないだろう。能登谷の退室がそれが意味している。本題とは小春だ。それを呑み、若き研究員は半端な意識をやっとの思いで覚醒させる。空咳をする。飼い主として出来る最後の仕事の前段階が今から始まるのだ。

 所長たる老人と顔を向かい合わせる。やはり彼には独特の威圧感と、有無を言わさない峻厳たる風格が漂っていた。時間が流れた。両者、何も口に出さずにいた。

 この間にも、小春は──。城崎は姿勢を正す。


「佐中所長!あの子を殺してあげてくださいっ」


 研究員は座ったまま、深く頭を下げて叫ぶように言った。部屋中に彼の声が反響した。


「自分はもうあの子が壊れていくのを見てられません。できないなら、この手で首を折るなり、窓から突き落とすなりする所存です。でもそれではあまりに酷で……彼女も恐怖に襲われます。どうか……」

「どうか、とは?」


 単調なトーンだが柔らかい口調で佐中が訊ねた。


「……い、犬人に打つ、安楽死用の投与剤をください」


 喉の奥にたまって、その言葉を相手に発するのに城崎は十秒ほどの腐心を要した。


「ほう。犬人を即死させる薬か?」

「施設にあるんですよねっ?保管庫を全て確認した訳じゃないので……僕が知らないだけで、その、ありますよねっ?」


 城崎は身体をテーブルへ乗り出すようにして、真正面の佐中を急き立てた。


「データはもう揃ってるんですっ。施設は、感染症に罹患して発症した犬人の観測記録が欲しかったんですよね?それなら本当に、記録は観察資料としては大方できてるんです!あの子はもう……興奮気の末期で、そのうち麻痺期ですから……もうじき、その、心身の影響を観測することはほぼ不可能になります。だって後は病に蝕まれて、死ぬを待つだけなんですから……観測としては無意味です。それに能登谷さんがいた時にお話したように、僕の独断専行で彼女は薬漬けです。完璧なデータはもはや取れないでしょう。だからせめて、最期ぐらい楽にしてやろうと……自分は──」


 その時、不意に城崎は自分が今何をしているのか、やたらに客観視してしまった。

 愛犬を殺すという不道徳な理由のために、これまでの間、立場や思想共に反発していた人間へ降伏し、土下座よりも見苦しい交渉をしているのだ。それは惨めだった。そして、その無様な自身よりも、不幸な生い立ちと生涯を定められた飼い犬の小春のことの方が不憫に思えてならなかった。


 小春が生まれてからどんな悪事をしたというのか?

 小春の幸せそうな微笑みをなぜこうもこの世界は破壊したがるのか?

 小春の生涯に終止符を打つという最悪なことのために、なぜ飼い主の自分は躍起にならねばならないのか?

 飼い主とは飼い犬を殺すために存在するのではなく、純粋に愛するためにいるのではなかったのか?

 世界から犬を殺すという選択をした大人たちを心から憎んでいたはずの幼い自分が、大人になってから、どうして彼等と同じ道を歩んでいるのか──?


 城崎は憤懣ふんまん極まって、嗚咽するより激しい涙を流した。

 所長は無反応だった。少し間を置いてから、彼は静かに切り出す。


「君、犬を飼ったことは?」

「はい?」

「飼ったことはあるか、と聞いてるんだ」


 質問の意図が読めなかったが、城崎はなんとか口を動かす。


「ありません。ですが、幼い時……一年ほど野良犬と戯れたことなら。ちょうどこのドリームボックスが建設される前の、この山の中で。女の子で、白い柴犬の雑種で……」


 濁すように言い終えた。それに反して、佐中はみるみる目を見開いていった。驚愕に溺れる老人の顔は城崎には印象的だった。この歳になって、何をそこまで驚いているのだろうか──と。


「なるほど。本当に驚きだよ。そうか、そうだったのか。通りで君はここまでした訳だ。うん、なるほどな」


 佐中は気味の悪い薄笑いをしながら、ご満悦そうだった。彼の中で事態はどう進んでいるのか、城崎には知る由も術もない。

 老人は着用していた白衣の裏ポケットからひとつのケースを取り出し、テーブルに載せる。


「いいだろう気に入った。これをあげよう。たった今、所長権限でこれを打つか打たないかは君の判断に委ねた」

「……これは?」

「君と彼女との関係を断ち切る薬だ。投与剤の名前はこの施設を冠して──ドリームボックス」

「ドリーム……ボックス」


 その名を呻くように呟きながら、城崎は差し出されたケースを手に取った。ケースを開くと注射器と液体が入った小瓶がある。瓶のラベルには明朝体の文体で『ドリームボックス』と記載されていた。


「知っているかい?ドリームボックスという名前は……『犬の殺戮』以前の日本に存在した、不要なペットを殺すガス室設備の呼称なんだ」


 望んでいた物が手に入り、城崎は全身が脱力した。だが、次の瞬間には毛が逆立つような恐怖と憤怒、それと自己嫌悪と怨嗟に再び引きずり回されることになった。


 ──これで、これで小春を。殺す、殺すのか?僕が?


 そんな彼を落ち着かせるように、佐中は優しく笑った。城崎には彼のその笑顔が憎悪の対象になっていた。薬をくれたことに感謝の念などこれっぽっちも抱かなかった。感謝する意味も理由も元より存在しないのだ。


「あなたさえ……」


 気がついた時には口が喋っていたが、城崎は直前で舌を食いちぎるような歯ぎしりをして堪えた。


 ──この世にいなければ。犬人理論なんて誰も提唱しなければ。


 研究員の殺気を鋭く汲み取ったのか、佐中は真顔になった。それは城崎への怒りや恐れではなく、冷静に話をしようという意思の表れだった。


「城崎くん。君と私はとてもよく似ている」

「……自分が、所長と?」

「そうだ。少なくとも今後しばらくの君は、。それは間違いない。そして私と同じことをする。必ずね」

「あの、それはどういう意味です?」

「今に分かる。早くその子の元に行くといい」


 佐中は席を立ち、窓辺に近づくと、写真立てを棚にしまった。

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