65話

 その後、小春は城崎によって何回かに分けて鎮静剤を打たれた。彼女はぐったりとしながらも、午後一時を回った頃にはようやく落ち着きを取り戻した。使用限界と決められた回数を二回ほど超えた頃のことだった。

 城崎は精神状態を人為的に操作するこの手の薬はなるべく小春に投与したくなかったが、やむなく使用したのだ。彼女の心身を考慮するなら、回数的には精神鎮静剤はこれが最初で最後の投与になる。ベッド上で仰向けになり、傍の椅子に座る飼い主を見上げている彼女の瞳は、左右どちらとも淀んだ海みたいだったが、朝よりは幾分かマシだった。

 ベッドに腰を下ろし、小春のその目を覗き込みながら、城崎は拘束具越しに少女の頬にそっと触れた。彼女は身体をこわばらせることもなく、視線を一心不乱に飼い主へ合わせていた。


「しろさき」

「……まだ痛むか?それとも、変なものが見えたりするか?」


 城崎は申し訳なさそうに質問した。ぎろりと彼を捉えて止まない小春の目には、今にも溢れ出そうな涙がなみなみ貯まっていた。


「わかんない」

「薬の打ちすぎで感覚が麻痺してるんだ、多分……あるいは」


 ──興奮期の末期状態に片足を突っ込んだか、次のステージか。


 心の中で続けていた言葉は口には出さなかった。感染症の段階については説明しなくても、小春も以前に樗木から聞いているかもしれない。城崎は今さら、敢えて少女の恐怖を煽るようなことは言いたくなかった。


「なぁに?」

「なんでもないさ」

「そっか」


 一人と一匹は、お互いに無言で見つめ合った。両者の耳には、壁掛け時計の秒針と呼吸音だけが入ってくる。


「……し」

「小──」


 沈黙に耐えかねて、互いに自分から話そうと、相手の名前を呼びかけたところで、声が重なった。一人と一匹は言い出すそれが全く同じタイミングだったことに驚いた。顔を見合わせて短く笑い合う。


「しろさきから先に言っていいよ」

「どうも。なぁ、僕に何かしてほしいこととかあるか?」


 城崎が苦笑してから訊ねた。それは鎮静剤を打ってから、平常時の意識に戻った飼い犬に真っ先に聞いてみたいことだった。苦しみ抜く中で一時的に痛みや錯乱から解放され、心身共に救われている少女のわがままに応じてやりたかったのだ。

 鎮静剤が効いているせいか質問の意図が一瞬分からず、小春は思わず固定されている首をいつもの癖でかしげそうになった。考え込むフリをして、数秒経ってから彼女は質問の意味を理解する。朝から全身を襲っていた虚無感や鬱めいた思考、激痛がなくなっており、飼い主と普通に会話できている実感が蘇った。途端に気分が回復してきた彼女は舌を出して、冗談っぽく笑う。


「ある。でもしろさき、ぜったいやってくれないから言わないよーだ」

「常識外れな願いじゃない限り、絶対に叶えてやるから。言ってみて」


 城崎は小春の顔を両手で捕まえるように挟んで、真正面から犬人の少女の目と対峙した。

 小春は、何度か無駄な瞬きを繰り返し、「ひゃっ」と、しゃっくりのような意味のない声を上げた。想い人からの真剣な眼差しと、それから少しも逃げれない状況に、隠し通せない照れが行き場を失って彼女の身体を駆け巡っていた。


「そ。その、えっとねっ。しろ、しろさき?そのね……それじゃあ……ほっぺにこれでもかってぐらい、チューしてくれないかな。なんてね」

「いいよ」

「えっ」

「なに驚いてんだよ。君が頼んだくせに」

「ちょっ!本気だったの、しろさ──」


 城崎は薄らと笑ってから、手を離し、飼い犬の頬に深く接吻した。男が女の豊かな胸に顔を埋めるかの如く少女の頬へ。身動きが取れない小春は、なされるがまま飼い主のキスに付き合った。くすぐったそうにしていた彼女の顔は次第に蕩けていった。

 小春は幸福を噛み締めていた。城崎からの口づけだけではない。二月末から彼女は幸せの絶頂期にいた。激痛と精神不安の波さえなければ、この特別収容室での暮らしというものは、かねてより待ち焦がれていたものだったからだ。

 飼い主と自分の愛情だけが支配する空間で、誰も邪魔せず、彼だけから身の回りの世話をされ、食事や読書をはじめとして、遊びや散歩を共に楽しみ、彼のみから丁重にめいっぱい愛でられること。これらよりも嬉しいことは彼女の世界には存在しなかったのである。

 飼い主が頬から頬への接吻を解くと、小春はせめてもの照れ隠しに目を逸らした。


「……ありがと。しろさき」

「どういたしまして」

「ね?まひなんて、ちがうよ。私、今とっても幸せだもん」


 掠れる声を踏ん張るように張って、少女は飼い主に伝えてから微笑んだ。拘束具に巻かれた尻尾も蠢くように暴れたい感じだった。

 城崎は、彼女のその発言が嘘偽りない本心であると知って深く安堵した。


「なら良かった」

「こんな日が、ずっと続けばいいのになぁ」

「……あと一週間か」

「うん」


 予想外に軽い声が返ってきて、城崎はさきほどまでの安心感が失せた。


「僕を……恨んでないのか?」

「なんで?そんなことないよ。大好きなしろさきだもん」


 小春は今日の朝、自分が飼い主に浴びせた罵声の数々を眠っている間にきれいさっぱり忘れているようだった。

 城崎にとってはその方が良かったが、やはり飼い主という立場から、少女には謝っておかねばならないように思えた。彼は少女の頬についてしまった汚れをハンカチで拭うと、ベッドから一度立ち上がり、彼女に頭を下げた。小春はまたも動かない首を傾げたくなった。


「どしたの?」


 次々と城崎の大粒の涙が床に零れている光景が映った。小春には彼の涙と謝罪の姿勢の真意がよく分からなかった。


「……今朝、君から言われたんだ。嘘つきだって」

「そんな……っ。ごめんねしろさき?私、しろさきをきずつけちゃった?そのね、あんまり朝のこと覚えてなくて……」

「違うんだっ。小春は正しいんだよ。僕はな、ずっと前から嘘つきだったんだ──」


 それから城崎は再度謝罪した。彼は嗚咽しながら話した。

 もう救ってやれそうにないこと。これまで秋の試験などの話を持ちかけて甘い夢を見続けさせてしまったことや、避けられない結末が見えているにも関わらず、病気は悪化しないと無理な励ましをしておいて、根本的に治療してやれなかったこと──などだ。この一年足らずの日々で小春に送った偽善的な台詞の数々を心の底から悔いて詫びた。

 小春は、けろりといつもの様に微小をたたえた顔つきで飼い主を見ているだけだったが、思い出したかのように口を動かす。


「なんでしろさきが謝ってるの?」

「……なんでって、それは、だからっ!僕が小春のことを助けてあげられなくて──」

「そんなこと思ってないよ。しろさきが私を病気にさせたんじゃないもん。ううん、もしそうだとしても、これまでずっと隣にいてくれたもん。怒ってないし恨んでもないよ。大好き。あいしてる……私が城崎に思ってるのは、ほんとにそれだけだよ?」


 しゃくりあげる城崎に、小春は淡々と感謝の意を述べた。

 飼い主は息が止まりかけたが、震える声で「じゃあ」と返す。


「……なら、これから僕を恨むことになるんだろうな」

「それどういうこと?」


 小春の呼びかけに耳を貸さず、城崎は今にも吐き出して倒れそうな手つきで、白衣の裏ポケットをまさぐった。彼はそこから細長いケースを取り出した。蓋を開けると、中には一本の注射器と瓶のような物が収められてるのが小春にも見えた。


「しろさき、今度はなんのお薬なの?」


 飼い主が謝っているのは次に打つ薬剤のことなのか、と小春は推測した。たしかに薬を大量に与えられると、一日の殆どの時間、心や感情が時折砕けてしまうような錯覚に襲われるものだし、鬱屈感に押し潰されそうになることもある。

 けれど、今日まで耐えてこられたのは他でもない城崎のおかげなのだ──と、小春は本心で思っていた。今度の薬がいかに強力な副作用があろうとも、彼さえ近くにいてくれれば支障はないのだ。命の灯火が消えない限り、の話だったが。


「……楽になる薬だよ」


 芯のない口調で城崎がそう言った。研究員はケースから透明の液体が少量入っている小瓶を出すと、その上から注射器を突き刺して、容器の中の液体を注射器で吸い上げた。

 次いで城崎はケースと小瓶を音もなく静かにサイドテーブルに置いた。

 小春の中に眠る犬の本能が甲高く警告する。


「……しろさき?それ、なんのお薬?」

「言ってるだろ?君を苦しめなくて済む薬だ」

「やだ」


 ふるふると小春は首を横に振った。固定具に阻まれて上手く動かなかったが、僅かに顔全体は左右に揺れて拒否を示した。


「もうちょっとだけ、私ね、しろさきと一緒にいたい。少しでいいの……まだ、まだあなたといたいの。おねがい」


 城崎は既に小春の左腕を掴んでいた。だが片手に持つ注射は震え、ぽすりと弾力のあるベッドの上に落ちた。彼は涙でぐちゃぐちゃに歪んだ顔で小春に向き直る。


「僕だって……」


 城崎は注射器を拾おうとしたが、伸ばした手はそれを決して摘もうとしなかった。彼は肩で息をしていた。重い咳を何度もし、やっと拾った注射器をあろうことか床に投げつけようと振りかぶった。


「……僕だって──!こんなものを君に……っ。打ちたくなんかないんだよっ!」


 張り裂けそうな声を出してから、城崎はやっとその腕をゆっくりと下げた。注射器は健在だった。彼は注射器の針を天井に向けて持ち直す。拳銃の口をそうするように、今はまだ打たないという意思表示だろう。


「しろさき、それ一体なんなの?」


 答えは分かっていたが、小春は改めて飼い主に聞いてみた。


「安楽死投与剤……簡単に言うと、いや、そのままだ。この薬はな、そのな。痛みなく……楽に死ねる薬なんだ」

「そうなんだ」


 小春がそれだけ返事すると、城崎はため息をついて椅子に座った。片手には未だ注射器が掲げられている。


「……言ったろ?薬を馬鹿上司の保管庫から盗んできてたって。僕は前から君の苦痛を和らげるために、支給されていたもので終わらせず、上限を越えて色々投与してたんだよ。小春の苦痛を除くためにね」

「でもその回数ってさ、私のでーたを採るために余計な分ってことなんじゃないの?」


 小春が突破口を見つけたような明るい声を発したが、城崎は俯いたままだった。


「そうじゃないんだ。君の体はな、君が思ってる以上に限界が来てるんだよ。健康な犬人が打たれても無理な回数を既に……分かるか?打ちすぎて、薬の効果が薄くなってきてるんだ。鎮痛剤だってじきに全く効かなくなるかもしれない。だから、そうなる前に……!」

「しろさきっ?」


 城崎は椅子から転げるように降りた。勢いに任せて、注射器を持ったままベッドに近づく。そして飼い犬の腕に針を──解熱剤を打った時と同じ要領で、針を差し込もうとした。


「僕は……っ」


 だが、手が震えて針の指す場所が定まらず、再び注射器は滑るように指から離れてベッドへと落ちた。それに呼応するかの如く、研究員はその場にへたりこんでしまった。

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