64話

 一夜明けた三月八日。殺処分まで残り一週間となったこの日、南棟最上階に位置する特別収容室は、早朝から悲鳴で満ちていた。

 脚を直接床に固定されたベッドの上に、悲痛な泣き声を発する少女が寝かせられた姿勢でいる。対犬人用拘束具でベッドごと体を縛りつけて無理矢理抑えられている彼女は、犬人の小春だ。

 少女は口を開け、人間とは思えないほどの声量で絶叫していた。口元は涎で、身体中は汗で汚れていた。綺麗な青い瞳が浮かびながらも、彼女の白目は緑内障の進行によって真っ赤になっている。それらがぎろりと二つ飼い主へ向けられている。彼女は絶えず痛みと不安で悶絶していた。


「たすげでぇっ!!しろ、しろっしろさきっ──!苦し、くるしいっ!こわいっ。いたいっ……いだいっ!!」


 手を解放した瞬間、小春は激痛の元たる自身の両目をえぐり取るだろう。離すわけにはいかなかった。

 昨夜、小春に投与した犬人用の強力な解熱剤の副反応により、彼女の身体に残留していた鎮痛剤の効果がすべて掻き消されていたのだ。結果、緑内障による眼球の痛みと例の感染症が起因となった精神錯乱が不幸にも重なり、病で衰弱した彼女の心身には到底考えられないほどの高負荷を強いていた。

 幸いにも発作が起きる寸前、辛うじて正気を保っていた小春の協力もあったので、拘束は完璧に整っていた。しかし、ぎちぎちと呻く拘束ベルトやリードがどこまで無事でいられるか不安要素はあった。万一、収容室から脱走しようものなら──。特別収容室の外で見張りをしている武装警備員二人にライフルで射殺されてしまう。


「小春、ごめん。ごめんなっ……。助けてあげられなくて。君を縛ったりして──」


 城崎は自分が何もできないことを悔やんだ。飼い主の愛情なんてくだらない情は痛覚には敵わない。

 あれほど一途に飼い主を慕っていた小春であっても、今は目の前にいる飼い主に対して痛みを和らげるため叫ぶことで精一杯だった。彼女には限界が近づいていた。これ以上の延命は人間側のエゴだ──。薄々覚悟していた時が来たのかもしれない、と城崎はごくりと唾を呑んだ。

 小春の件で上司と話をつけるため、一旦収容室から退室しようとした城崎だったが、後ろから小春が泣き喚く声で必死に制止してくる。


「……まってよっ!しろさきっ、おいて、おいてかないでっ……私のちかくにいてよっ!」

「すぐ戻ってくる!大丈夫だ。それまで耐えてくれ」

「いや……いやいやいやいや、嫌っ!そ、そういってさ、ほかの女のところにいくんだっ!うそつきっ。しろさき……うそつきっ。私だけっていったのに!バカ!バカぁっ!」

「何言って──」


 少女は精神がごちゃごちゃに錯乱し、相当動揺しているようだった。自分が置かれている状況さえもとっくに曖昧なのかもしれない。

 さきほど、小春の汗を拭おうと濡れタオルを顔に近づけたが、彼女は抵抗した。容赦なく飼い主の手に噛みつこうともした。懐いたはずの彼女の行動としてはありえないものだった。

 小春は間違いなく、犬由来感染症における興奮期の真っ只中に陥っているのだ。興奮期は恐水症のみならず、非常に癇癪を起こしやすくなる他、幻覚症状や叫び声もしきりに上げるという。今の症状がまさにそれだった。ただ、それにしては小春の意識もやけに明瞭な気もする。おそらく興奮期の症状で、普段から押し殺してきた不満やわだかまりのようなものも同時多発的に暴発し、外に排出されているのだろう。

 小春の好意に応えきれていなかったから、今の彼女を余計に苦しめている。その事実が飼い主の自尊心を完膚なきまでに粉々に破壊した。


「ふりょうひんの私のこと、なんて、はじめから……はじめからっ。いだっ、痛いっ。いたいいたいっ……もう、もういや……っ!」


 小春は体をよじり、ベッドを揺らして大いに暴れた。ベルトの形状をした拘束具が引き裂かれるような感じの悪い音が城崎の耳に響いた。拘束具は地下牢で使用されていた類の物だ。軍用犬種の犬人でも損壊させるのは不可能なはずでは──。

 城崎は今しがた憂慮した脱走が現実味を帯びて、一度飼い犬の傍へ寄った。


「小春っ!落ち着いてっ。僕はここにいるから……!」

「うそつきぃっ!あしたにはなおってるって、しろさきいったのに──っ!」


 飼い犬の言葉に、城崎は絶句する。それは昨夜に彼女を励ますために言ったことだった。不眠不休の疲労もあってか、彼はその場に膝から崩れ落ちてしまった。気がつけば頬には熱いものが濁流となって伝っていた。


「うそつきっ!!」


 小春がまたも叫んだ。

 城崎は涙で顔が熱かった。涙の煌めく表面が網膜に映像を見せてきた。様々な光景がフラッシュバックする。今では過去となった小春との思い出たちだった。


 試験に向かって共に頑張ろうと意気投合した、春の屋上。

 盲導犬や介助犬の訓練、書き取り練習。

 周囲からの好奇の視線を浴びながらも懸命に勉強した半年。

 誰からも邪魔されず、犬人として暮らせる未来があればと語り合った時のこと。

 君を見捨てないと言って小春を抱きしめた日のこと。

 必ず助けると誓った、多くの場面──。


 それらが城崎の良心を逆撫でしながら巡り、循環し、そしてやがて解れるように消滅していった。


 犬人ペットが浸透した社会?

 人と犬が昔のように共に平和に暮らせる世界?

 人間と犬の歴史が再び始動する現代?


 こんな与太話、誰にだって馬鹿げた話に聞こえるはずだ。それなのに、そんなことは分かりきった上で、小春に無謀な希望を抱かせ続けるために自分はどれだけ多くの虚言を易々と並べたのだろう──。城崎はこの一年近くにあった少女とのあらゆる出来事が嘘っぱちのように思えてしまった。そしてそのことに自分自身で失望した。


「……そうだったな。僕は、僕は昔から嘘つきだったな……」


 研究者は頭を抱えて呆然とした。そのままずっと涙を流して、美しい情景に浸っていたかったが、目はとうに枯れ、一滴も涙が出なかった。

 城崎はすぐに床から立ち上がったが、それは内面まで立ち直ったことを意味しなかった。彼はぶつぶつと独り言を呟きながら、泣き叫ぶ小春を無視して、亡者を彷彿とさせる足取りで特別収容室から出ていった。



 始業前の時刻。能登谷は犬人用薬剤を備蓄した保管庫に足を運んでいた。彼の管理下にある部屋だ。

 場所はドリームボックス南棟・四階北側。人目につかないこの区画にひっそりと佇んでいるこの部屋は、保管している代物の重要性の割には、監視も防犯体制も薄いことが以前から問題視されていた。鍵も古く、職員用のIDカードではない古典的なキーのみの施錠方法だった。ちょうどロッカールームのそれと同じだ。とはいえ、施設の外に持ち出すことはできないよう薬剤には丁寧にIDタグが付いていたし、大抵の犬人はこの階に出入りすることはなかった。研究者は簡単な申告書を書けば難なく受け取れる薬ばかりだったので、研究者たちがわざわざ盗みをはたらくこともないと見なされ、これまで特に議論されることもなかった。

 そういう背景があったので、管理を任された能登谷もこれといって警戒した試しがなかったが、たまには自分で確認作業をしなければとの思いで、倉庫の整理とリストにある数と実際の個数のチェックを行っていた。


「ん?あれ、おかしいな……解熱剤とやらが二つ三つ足りねぇ」


 リストの思わぬ誤差に彼は眉をひそめる。それだけではない。鎮痛剤も睡眠薬も不足していた。最新の補充日と無くなった物の日付の記録を照らし合わせる。どれも日付が最新の物がなくなっていた。

 能登谷は犯人に思い当たりがあった。その人物に問いただすべく、出入口へ身体を向けたその瞬間──閉め切っていたはずの出入口の扉が外から開き、彼はぎょっとした。鍵は内側から閉めたはずだった。

 きぃ、と蝶番が軋む音がして扉が開て、誰かが入ってきた。それは俯いて陰気な様子の城崎だった。


「おいっ?城崎?」


 なんでこの部屋に、どうやって鍵を──と質問を投げたところで、能登谷は無愛想な部下の目がこれまでになく生気の光を失っていることに気づいた。顔は蒼白し、ぼんやりとした目つきは覇気の欠片も汲み取らせない。


「能登谷さん。犬人用の安楽死投与剤を下さい。お願いします」

「お前……」

「安楽死させる薬を下さい。あの子を、あの子を早く、殺してあげてください──」


 茫然自失となっている城崎の口からは、それだけしか出なかった。その一言で合点がつき、事の経緯を悟った能登谷は呆れてため息をついた。

 施設内の備品の無断使用。実験個体への薬物無断投与、それに観察記録の改竄の可能性も必然的に出てくる。どのような制裁に出ようかと思っていた能登谷だったが、城崎のそのあまりの陰鬱とした態度に、彼を糾弾する気すら起きなかった。それよりも同情してしまったのだった。

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