63話

 翌日。その日は澄んだ空気で空が見違えるように透き通り、よく晴れた日だった。日差しは微かながら春の訪れを感じさせていた。小春の体調も比較的安定していたので、城崎は彼女を連れて、空いた時間に許可の降りた外のエリアを散歩していた。

 しかし夕方の定時頃、先をスキップするように歩いていた小春が突如として道端に倒れた。小春は四十度近い高熱を出し、昼間に食べた糧食を全て嘔吐した。駆けつけた城崎は彼女を収容室へ緊急搬送し、大慌てで処置に当たることになった。

 貴重な経過観察ということで何人もの職員が収容室に流れこんできたが、小春の容態が悪化することを言い訳に、城崎は鬼の形相で彼等を追い払った。彼はたった一人で手のかかる一匹の看病と観察を行った。彼にとっては何も苦ではなかった。だが、小春が熱で苦しむ姿は惨たらしく、心を痛めつけられた。


「死ぬなよ!熱が下がれば──ひとまずはなんとかなるから。まだ君の病気は最後の段階まで進んでない。今夜に死ぬことはない、絶対だっ。約束する。だから諦めるな!」


 小春の耳元に呼びかける。少女は目を閉じていたが口角を少しだけ上げた。


「しろさき……しろさき、看病してくれるの?」

「無理に喋らなくていい。眠ってて。明日の朝には治ってるから」


 だらりと脱力した小春の手を握り、飼い主が元気づけると、飼い犬は安心したように微笑んだ。


「……でも、で、も。熱で、熱がつらくて……ねむれないよ」


 彼女の言葉に、城崎は「分かってる」と言って、サイドテーブルに置かれた注射を手にした。


「犬人用の解熱剤を打とう。馬鹿上司直轄の保管庫からくすねてきたんだ。すごいだろ?」


 冗談めかして茶化して言うと、小春もくすりと笑った。


「……えへへ、しろさき、ドロボーだぁー」

「泥棒でもなんでもいいさ。小春が助かるなら……ほれ、チクッとするけど我慢しろ」


 消毒液を湿らせたコットン布で小春の腕を拭い、針を斜めにすっと挿入した。柔らかく熱い少女の肌に針が刺さる。注射嫌いの小春だったが、熱で項垂れていて拒否することはなかった。



 数時間後、解熱剤が作用して小春の熱は安全な数値まで低下した。すっかり夜になっていたこともあり、体力を消耗していた少女は安堵したように眠りに落ちていた。


「小春……」


 少女は枕に小さな頭を沈め、寝息を立てている。飼い犬の乱れた髪を整える城崎は、彼女の額に触れた。熱はもうない。だが彼は戦々恐々としていた。不安で心臓の鼓動が止まらなかった。

 犬人用の薬は効果が強力な分、副作用の症状が油断できないのだ。今夜中は彼女の容態に注意を払わなければならない──。城崎はそう考えた。そこで彼は、自分は休まず、飼い犬の寝顔を横目にしながら仕事用のデータをまとめることにした。

 時刻は午後十一時。夜は更け、施設中に眠りや静寂が波及していた。特別収容室は外からも内からも防音に優れているため、昼間も音を気にすることはなかったが、やはりいつも以上に静かだった。職員も警備担当以外はほぼ全員が帰宅している頃だ。飼い犬の寝息を聞きながら、城崎は発熱に関する報告書と観察記録にペンを走らせる。観察記録は日を重ねる度に複雑な代物になっていた。死に際の個体のデータを施設は欲しているらしく、観察と採取は直に本格化するだろう。

 小春がベッドに固定され、身体中を心音測定のコードや、流動食を流し込むチューブで埋め尽くされる日も近い。彼女の命も生涯も関係なしに、ただ研究のために……。そう考えると、城崎の心の底で強い反感が芽生えた。


 ──そうなる前に、この手でいっそのこと楽にしてあげれば……。


「……まさかな」


 荒唐無稽な考えに城崎は手を止めた。飼い主が飼い犬のことを──。否、そのようなことがあっていいはずがないのだ。

 仕事を再開し、一段落つくところまで進めてペンをそっと置いた。小春の顔に目をやる。ベッド上には弱った一匹の犬人の少女が穢れない夢の世界に微笑んでいた。


 ──方法はないのか?この子を救う……何か手立てが。


 城崎は、ベッド横に設けている自分用の机に視線を戻した。その上を占める、データという名の数字の羅列が記載された資料の束。それを恨めしく眺め、舌打ちを欠伸で誤魔化した。

 業務上の科学的資料にさえ、その忌むべき感染症の正式呼称は使われていない。単に『感染症』とあるだけだ。なにせ、この現代世界の人口の三割近くを死滅させた病である。名前を口に出すのが不謹慎とか縁起が悪いとかそういった理由ではなく、『感染症』としてこれ以上名前を挙げるだけ脅威となる病が他にないだけだ。メディアもこぞって、犬由来のウイルス感染症のことを『感染症』とだけ簡潔に呼んでいた。

 城崎は、資料の束から犬由来の例の感染症における過去の経過報告を探した。何か前向きな話がないものかと念のための確認だったが、無意味だった。彼は堪えていた舌打ちが出てしまった。ちらりと小春を盗み見るが、相変わらず眠っていた。舌打ちは耳に届いていなかったようだ。その寝顔は彼女が前に自室で昼寝していた時と何も差異がなかった。恐ろしい病に身体を犯され、死期が迫っているにも関わらず、寝顔は無邪気だった。


「強い子だな……君は」


 城崎は席から立ち上がる。ベッドで寝る彼女の艶やかな髪に触れて、起こさないように頭を撫でた。少女の耳と尻尾が穏やかに少しだけ揺れた。


 かの感染症は、症状は悪名高い狂犬病と高い共通性を持つ。なので病症の段階も同じように、潜伏期、前駆期、興奮期、麻痺期と分けられている。

 潜伏期はその名の通り、ウイルスに感染しても症状が出ない状態のことだ。小春の場合、本格的な発症が冬頃だったので、生後から数えると潜伏期間は一年半以上もあった。これは一見するとかなり長いように思えるが、昔の狂犬病では人間に罹患した例で七年近く潜伏期間があった患者もいたので、多くの共通性を持つ病としては決して不自然な日数ではない。例の感染症が人類に大打撃を与えた原因に、この潜伏期間の長さもあった。無自覚のまま他人にウイルスをばら撒くからである。


 前駆期はウイルスが脊髄に達する時期のことで、発熱や食欲低迷、知覚過敏やかゆみなどに襲われる。小春が特別収容室で何度か繰り返した発熱や食欲不振のことだ。この期間は五日前後で経過する短期的なものであるし、食欲不振や知覚異常はその後も続くので、小春は次の段階に進んでいると見るのが妥当だろう。


 次は興奮期だ。人間の狂犬病の場合は急性神経症状期という。どちらも症状は似ていて、患者は極度の不安感や精神的な同様、錯乱、精神障害に襲われるものだ。おそらく小春は現在このステージに差しかかっている。有名な症状として、飲水やシャワーを極端に忌避する恐水症が表れるのもこの時期だ。こうした容態が一週間から十日間ほど続いた後、全身に痙攣発作が発生する。そのまま死亡するか、そうでなければ麻痺期に移行する。


 麻痺期。人間の狂犬病の場合、昏睡期に該当するステージだ。全身に麻痺が行き渡り、低血圧や不整脈、呼吸不全などを起こし、その後呼吸停止と心停止を経て死亡する。

 狂犬病がそうであったように、この感染症には自然治癒というものは殆ど存在しないと言ってもよい。前例が僅かに数件あるだけで、それも原因は不明。小春にこれを期待するのは些か無理があった。

 そして最悪なことに、こちらも狂犬病と同じで──未だ人間はこの感染症の「治療方法」をまったく確立できていない現実だ。


 予防策としてのワクチンが完成したのはもっと後のことで、二十年近く前の人類には罹患した感染源を片っ端から皆殺しにする──犬の殺戮という前時代的な対処策しか手がなかった。

 現在でも一度発症してしまえば最後、手の施しようがなく、早期の安楽死しか選択がない恐ろしい病なのである。

 狂犬病との大きな違いは感染経路である。狂犬病ではウイルスを保有する動物の個体から噛まれるか、唾液が傷口等に触れることで発症する。だが例の病気は「感染症」とある通り、空気感染でヒトからヒトへ、犬から犬へ、そしてヒトと犬の間でも容易にウイルスが飛び交う。長い潜伏期間の後、発症すれば手がつけられなくなる。僅かな例外を除いて、奇妙なことに感染するのはヒトと犬という二種類だけだ。狂犬病なら、ウイルスはネコやコウモリ、キツネにも手出しするが、例の感染症は何故かヒトと犬しか襲わない。まさに人間と犬の歴史に終止符を打つために生まれたかのような病だった。

 ドリームボックスが人間と犬の遺伝子を掛け合わせた『犬人』を研究のために生み出したのもこの経緯があったためだ。しかし、と城崎は強く歯を食いしばったように口を閉ざした。


 たとえ人類を守るための研究とはいえ、心を持つ犬たちをこんな無惨に生み出し、殺し続けることに大義があるようにはどうしても思えなかった。

 ふと佐中の顔が浮かんでくる。当然、この状況ならば城崎が憎むべき人間は、犬人理論を提唱してドリームボックス創設の中心を担い、今も指揮を執る彼になる。だが、それにしては幾つか違和感があった。佐中と交わした言葉がぽつぽつと出ては消えていく。

 犬に対する深い洞察と、それとは裏腹に、犬は心や魂を有しないという狂った理屈を並べる古株の研究者。所長室には、黒い飼い犬を収めた古い写真立てが大切そうに置かれていた。彼のかつての愛犬だそうだ。


 自分と同じ、犬を亡くした人間──。城崎は佐中に対する疑問が湧いたが、それが小春の未来には関係と悟ると、すぐにまた飼い犬の安否だけが頭の中を漂った。

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