62話
二日後の特別収容室は肌寒かった。春といってもまだ三月上旬だ。暖かくなるのは早くても中旬頃だろう。
春の訪れが同時に最愛の飼い犬の死を意味する城崎にとって、律儀に時を刻む秒針すら疎ましいものに思えた。春なんて来るな、と彼は心の中で唾棄する毎日だった。
その日の小春も起床時から機嫌が良かった。城崎が数歩でも離れると口うるさく文句を言うなど、少し神経質だったが、その他は平常時と何も変わりはなかった。一人と一匹のこの部屋での暮らしは、三十分か一時間ぐらい何か別のことをすることで始まる。その直後に城崎が糧食を取りに行ければ朝食になるし、小春が拒めば、引き続き別のことで時間が過ぎていくスケジュールに自然となっていた。
今日は朝からベッドテーブル上で何回かトランプで対戦ゲームをした。神経衰弱やジジ抜きなどだ。病気のせいで集中力が途切れ途切れになっている様子の小春は、城崎がいくら手加減しても一戦も勝てなかった。スピードやジジ抜きでも、頻繁にカードを間違えたりした。力加減を誤ってカードをぐちゃぐちゃに握りつぶしてしまったりもした。
それでも小春は、飼い主と遊べてとても愉しそうに鼻歌を歌っていた。ハミングも以前に比べて弱々しくリズムが合っていない。振り回す尻尾の動きも機嫌が良いはずなのに不規則で乱れている。一昨日まではこんなことはなかった。
日を重ねる度に彼女が壊れていく。
城崎は胸が痛んだ。
「……ちょうどこの試合も終わったし、朝ごはんにしようか」
テーブル上のトランプのカードを整理し終えて、城崎がそう言って腰を上げた。小春はぴくりと犬耳を硬直させる。
「ダメっ!」
朝分の糧食を取りに行こうとした彼の首根っこを小春が咄嗟に掴みかかった。ベッド上から前のめりの姿勢で飼い主の退室を阻止し、その際の衝撃でテーブルの上のカードが床へ散乱した。
「急に動くと危ないぞ。それと離さなくてもいいから……力を緩めてくれない?痛いんだ」
「ダメっ。ゆるめたら、しろさき逃げちゃう!」
「逃げるってどこに?」
「……それは……わかんないけど、と、とにかくダメっ!」
ぐるる、と小春は唸って首を横に振った。幾度となくする瞬き。彼女の視線は泳いでいる。充血した白目が痛々しい。不安定な彼女の依存体質を受け入れるように城崎は微笑する。
「そっか……。今朝は駄目なんだな。分かったよ小春。朝ごはんは今じゃなくても平気だし──僕はどこにもいかないから。な?」
再度ベッド上に座り、城崎が笑顔で退室を取り止めたところで、小春が我に返ったようにさっと飼い主から手を離した。
「あ、し、しろさき……」
小春の瞳からは大粒の涙が溢れ出だし、みるみる彼女の顔が泣き顔に歪められていく。
「小春っ。大丈夫?また目が痛むのか?今痛み止めを──」
白衣のポケットから緑内障の犬人向けの鎮痛用目薬を出すも、犬人の少女は力なく俯くだけだった。
「ちがう、違うの!ごめんね、しろさき……また、私、しろさきに乱暴なことしちゃった……。ごめん──ごめんなさいっ!」
小春は、涙混じりに訴えるように言葉を吐いた。どことなく呂律が回っていないようにも聞こえた。
「なんだそのことか。もう気にしなくていいから」
「……しろさきのこと大好きなのに、痛い思いさせちゃった……したくないのに、こんなこと嫌なのにっ。私、私……ひどい、ひどいっ」
「泣かないで。僕はなんともなかったから。なぁ、気にするなって」
小春の傍に移動し、背中を摩る。
城崎は顔を覗き込んで語りかけ、落ち着かせる。小春は泣き伏し、心ここに在らずといった様子だった。彼女は接近してきた飼い主の身体をきつく抱きしめた。一旦泣いて収まったはずの攻撃性が息を吹き返して再上昇したように、彼女の喉が犬のように鳴った。
「しろさき、どこにも行かない?」
彼女の声は懐疑に満ちて低かった。泣き声はどこにもない。
「当たり前だろ」
「私のこと置いていかない?」
「ああ。心配しなくていい」
「……私のこと好き?シロより……好き?ね、ねぇっ!」
小春から加えられる力は強かった。
──また感情が不安定に?
城崎は困惑した。こうも短時間で彼女の感情の起伏が切り替わる様を見るのは初めてだった。
「好きだよ。小春以外いない。だからちょっと落ち着こうか?」
今の彼女の精神状態は、これまでの別離不安症の症状で確認された人間不信や攻撃性よりも凶悪だった。感情の振れ幅が大き過ぎるのだ。どちらにも飼い主への愛情表現の一種が含まれているのが余計に
「嘘つきっ!あんなに私をシロにしたがってたくせにっ!」
「小春……お願いだから気を鎮めてくれ」
小春が持ち合わせている大きな愛情と、感染症由来の神経障害による精神的な不安定さが合わさって飼い主にぶつけられているのだ。下手にその起伏を人為的に矯正することは、彼女の飼い主に対する好意や感情を無下にすることになってしまう恐れがあったので、彼女の幸せを優先するならばそれは出来なかった。感情の高まりを抑え込む鎮静剤も支給されていたが、この事情から城崎が投与することはなかった。人間の力で抑えられる間は、小春の精神や感情に関することをなるべく薬でコントロールしたくなかったのだ。
「じゃあ私が死んだらどうするのっ?他の犬とか女の子で満足するつもりじゃないの──?」
小春は白衣の上から爪を立てて城崎を強く拘束し、恫喝するように質問を浴びせた。手加減はさほどされていない。
「そんなことしないから」
骨が軋むように痛い。犬人の力で抱きしめられ、城崎は抵抗することもなく彼女が平静を取り戻す時を待った。
「ウソだよっ!!しろさき、嘘ついてるっ!そんなのぜったいに嫌!イヤ──うん、いやだっ!しろさき私の!しろさきは私のだからっ!他の誰にもわたさない!」
「前に約束しただろ?代わりは作らないって。僕はあの約束をちゃんと守るから」
「うるさいっ!」
小春は唸りながら、ベッドテーブルをずらして、城崎をベッドに伏せさせた。犬人の少女が研究員のことを上から押さえつけている形になる。
城崎は焦ることもなく顔を小春に向けた。彼女は怒りながらも、いたいけな少女のよう泣いていた。押さえつけていた力はとっくにない。彼女の全身からは既に力が抜け切っていた。感情の昂りに限界が来て、再度安定期の波が来たらしい。
だが、飼い主にここまでしてしまって、何を言って謝れば良いのかひどく混乱している様子だった。何も言い出せず、彼女は涙を流すことでしか謝罪できなかった。
「……深呼吸しようか?小春はいい子だから、できるよね?……小春」
飼い主の優しい言葉に、小春は怯えるように頷いた後、何度か深呼吸をした。それからベッド上の彼の身体に這うように寝転んで、大声で泣いた。城崎は、小春の頭を赤子を抱くように両腕で包む。何十分かして、ようやく泣き止んだ彼女は申し訳なさそうにおずおずと視線を飼い主へ投げた。
「しろさき……ごめん。ごめんね。心が、わかんない。私、自分がいま何をしてるのか、突然わかんなくなっちゃう時があるの」
「大丈夫、分かってる。小春が今不安定なことは、僕は理解してるから。何も心配しなくていい」
「ほんと?」
「本当だ」
一人と一匹はベッドで共に寝転んだ状態で、改めて何も言わずに抱きしめ合った。それから共に身体を起こした。けれど小春は城崎から決して離れようとはしなかった。彼女の肩は小刻みに震えて止まることはなかった。
「死にたくない。私まだ、しろさきと一緒にいたい……っ。しろさき、いつもみたいにわたしのこと助けてよ。おねがい……」
小春の口調には快活な元の性格は微塵も感じられなかった。
城崎は何も言えずに、涙ぐむ少女の頭を撫でた。
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