最終章 めぐる、春

61話

 “自分のイヌが老犬になって不治の病に倒れ、その苦痛を味わわせずに殺してやったものかどうか、そしていつそれをやるべきかという決定的な問いをつきつけられる時、全ての飼い主が引き受けなければならぬ、激しい精神の葛藤がある”


 ──コンラート・ローレンツ『人イヌにあう』



 南棟の最上階にある特別収容室。そこにあるベッドに城崎と小春は隣り合わせで腰掛けていた。研究員の方は白衣姿で、犬人は病衣姿だった。犬人の少女は大好きな職員の腕にべったりと張り付いている。

 一人と一匹は一緒に本を読んでいた。城崎の方がゆっくりと文章を読む声を小春が静かに聞き入っている。他には誰もいない。一人と一匹っきりで流れゆく美しい時間だった。

 本は小春のお気に入りである『星の王子さま』だ。幾度となく彼女と共に読んだ本で、城崎もこの本が好きになっていた。昨夜途中で切ったところから最後まで読み終える。物語が幕を閉じ、朝が緩慢ながらも再始動する。時刻は九時過ぎだ。

 本を音もなく閉じる。枕元にそれを置いてから、城崎は小春の頭を撫でた。


「いいお話だったな。何度読んでも」

「うん」

「それじゃ、本も終わったしそろそろ朝ごはんにしようか。今日は遅くなっちゃったし」


 子供をあやすように言うと、小春は何も言わずに微笑みを返した。その顔を見て満足し、また撫で回す。彼女の腕の拘束をそっと解こうとするが、痛みで声を上げてしまうほどの強い力で拒まれた。


「ダーメ」


 小春はいたずらっぽく言った。


「離してくれないのか?」


 落ち着かるように城崎が優しく訊ねると、小春は小さく頷いてから腕の力を更に強める。


「うん。ダメだよ、もうちょっとだけ……ね?」


 「発症」に伴い、この頃は小春の依存体質が増していた。生来の不安症に加え、彼女の身体を蝕む感染症の悪化により、症状の一環として表れる神経質で攻撃的な性格に歯止めが効かなくなりつつあったのだ。短いものでも飼い主と別行動の時間が来ると分かると、彼女は喉の奥を低く唸らして本物の犬のような威嚇をすることもあった。

 今朝は機嫌も症状もあまり悪くないので小春もそこまではしないようだが、身体を密着させ、飼い主を逃がそうとはしなかった。

 城崎は腰を再度ベッドに下ろし、掴まれていない方の手で彼女のことを抱擁した。


「……分かったよ。よしよし。良い子だね、小春は」


 こういう時に行えることはただひとつ、小春側が満足してくれる時をひたすら待つだけだ。無理に引き剥がすと彼女の心的負担になってしまうのである。彼女が拘束を解いてくれる時は昼まで来ないこともある。朝食を取りに行かせてくれず、昼になってやっと離してくれて、朝と昼を兼用して摂ることも珍しくなかった。

 だが今の城崎はこの状況を不満には思わなかった。彼女が望むように動ければそれで良かった。

 消えてしまいそうなほど華奢な犬人の少女の柔らかい身体を抱きしめがら、城崎は彼女の生命の温もりを感じていた。じゃれつきもせず、ただ幸せそうな笑みで身体をこちらに預けてくる少女を拒むことをしたくなかった。


「今朝は熱っぽいかな?」

「平気だよ」


 小春の額に手を当てる。普段よりやや熱かった。城崎は白衣のポケットから体温計を出して、彼女に渡す。


「微熱だと思う。今日もつきっきりで看病しないとな」


 くすりと笑って言うと、飼い主のその言葉に小春も笑顔を輝かせた。


「うんっ。熱があるもん。だからしろさき、ずっとここにいてね?」

「もちろん。でも食べなきゃ良くならないぞ」

「……えー、もう。しょうがないなぁ」


 むすりと憮然ながらも微笑を浮かべる小春は、渋々といった様子で仕方なさそうに、飼い主の腕からするりと自分から身体を解いた。今朝は大分早く説得できた。

 城崎は小春を包んでいた腕を下ろし、彼女を刺激しないように慎重にベッドから立ち上がった。


「すぐ帰ってくるから。体温測っといてくれ」


 そう言い残して、食事を取りに一旦部屋を後にする。ドアを閉める最後の瞬間まで室内から小春の寂しそうな視線を感じたので、城崎はさっさと彼女の元に戻るため早足で急ぐ。

 廊下で特別収容室の見張りをしている二名の武装警備員がそんな研究員のことを怪訝な眼差しで眺めていた。


 病気を患う犬人用糧食をもらいに行くには下の階の糧食研究チームの研究室に行く必要がある。城崎は淡々と階段を下りながら、ふと左手首の腕時計を覗いた。時刻の隅の日付の電子表示に目を落としてため息をつく。三月四日。殺処分まで約十日。

 城崎は焦りで階段を駆けるように下った。一日がこうも短く感じるのは、彼にとって初めてのことだった。


 実験個体204──小春の発症が確認されたことにより、彼女が地下牢から特別収容室に移されて今日で一週間以上が経過していた。城崎は連日、ドリームボックスに泊まり込みで彼女の世話をしていた。本来ならば実験個体のデータ採取や身の回りの世話は他の職員が担当する手筈になっていたが、今はまた城崎が小春の担当者だった。特別収容室に移動以降の小春が頑強に抵抗して暴れ回ったからだ。元担当者以外の人間からの世話は受けないという彼女の意向を呑むしかない状況に追い込まれた上層部は、あっさりと城崎を臨時の担当者に任命し、仕事の一切を任せたのである。仕事は実験個体のデータ採取もあったが、大抵の時間はまだ生きている彼女の相手をすることだったので、代役を務められる研究員が城崎の他にはいなかったらしい。

 樗木や能登谷も以前までの異動工作など、余計なお節介をかけてくることはなくなった。本当の意味で城崎の味方は小春一匹のみになっていた。

 一人と一匹はこれまでの通り、主に本を読んだり談笑で仲睦まじく過ごし、たまに許可が降りると施設内の限られたエリアを散歩したりして、誰にも邪魔されず満ち足りた時間を送っていた。しかし日を追うごとに彼女の容態は悪くなっていった。元々、病気の経過観察のために製造されたということもあって、彼女にはまともな薬剤が支給されなかったのだ。与えられたのは犬人用の鎮痛剤程度だ。それもデータ採取に支障が発生しない範囲の使用回数に制限されていた。

 抑えられない目の痛みや感染症による高熱、不眠症、幻覚や錯乱といった神経障害などの症状が併発することが多くなっていた。叫び、のたうち回ることしか許されなかった小春は一睡もできない日もあった。

 憔悴する小春を元気づけて慰めることが出来るのは城崎のみだった。それも直に限界が来そうだった。一人と一匹の精神的疲労という面はもちろんのこと、小春の身体が先に壊れてしまいそうなのだ。皮肉にも、彼女の病態の悪化が予測よりもスムーズなことから三月十五日まで待たずに必要なデータの収集と記録は終わりそうだった。


 既に用無しで、苦痛に顔を歪ませるだけの個体。

 ドリームボックスがそんな彼女に何をするかは嫌というほど明白だ。


 が来てしまったら──。城崎はそこまで思い浮かんだ考えを舌打ちで遮って、階段を下っていく。

 今は自分と彼女の腹を満たすことが先決だ、と言い聞かせて。



 糧食を受領してきた城崎は収容室にとんぼ返りするなり、小春の体温を確認して問題がなかったことに安堵した。

 感染症には、かつて人間と犬を悩ませた狂犬病と同様に症状の段階がある。今の小春は急な発熱などがあってもおかしくないステージだったが、今回ばかりは城崎の気のせいだったようだ。体温は平気な数字だった。

 しかし小春の方は不安そうにしていた。通常の数字だと城崎がつきっきりで看病してくれないのでは、という何とも彼女らしい理由だった。城崎はそれに笑って「熱でもそうじゃなくてもここにいるから」と言って安心させて、気を取り直して食事を摂らせることにした。


「美味いか?」

「おいしい。前のビスケットより」


 弱まった小春の咀嚼能力でも呑み込めるように、ひと口大にビスケットを折ったものを彼女の口に運ぶだけの食事だった。彼女は手が使えない訳ではない。なのでこうした食事の補助は単なる飼い主側の過保護ということになるが、思えばこれまでこうしたことはやってこなかったので、これが出来るのも今のうちだ、と城崎は小春を存分に甘えさせていた。


「よかった。ほら、小春。もうひと口」

「えっへへ」


 小春はひと口ごとに飼い主から差し向けられる「あーん」にとても嬉しそうにしていた。冬毛で膨らんだような彼女の尻尾がベッドの上で跳ねる。

 何かふとした時に発作があるとまずいので、彼女は常日頃からベッドでの生活を強いられていた。歩行には未だ支障がないので散歩や別室のトイレに行くには問題ないが、そのうちそれらも困難になるかもしれない。上半身を起こし、ベッドテーブルに両肘をついて、両手で頬と顎を支える姿勢の小春は飼い主からもらったビスケットの欠片をもごもごと口を動かしてゆっくりと食べていた。そこに以前のようながっついた勢いの良い食べっぷりはない。きっと城崎の弁当でも似た反応だろう。病態と並走するかのように、彼女の食欲も落ち込んでいた。

 一食分のビスケットの最後のひと口を小春が食べ終える。城崎はビニールのパッケージを丸めて足元のゴミ箱に捨てた。


「パッケージには何味とか書いてなかったけど、どんな味がしたんだ?」

「えっとね。なんだろーな……?ご飯みたいな淡い味かな」

「米か」

「うん。前に食べてたのよりずっとおいしかった。次にもらってきてくれたら、しろさきにもひと口あげるね」

「そうか。ありがとな」


 保存性を最優先して生産する犬人用糧食だが、多少は改良が進んでいるようだった。糧食の研究室からもらってきたのは来年度から試験的に採用するビスケットだった。

 味見もかねて頼まれてくれないか、と研究チームの職員から求められたので、城崎は快諾した。どうせ既存のビスケットは「しょっぱい土」の味がする代物なのだ。

 小春も久しぶりに違うものを食べたことに喜んでいて、可愛らしかった。この笑顔が、あとどれだけ──。城崎はそこまで考えて目を細めた。馬鹿なことで頭を使うことはない。今は彼女に集中しなければならないのだ、と彼は分かっていはいてもつい研究員特有の職業病と、昔からの考え込む悪癖でつい嫌なことに思考を割いてしまう。


 来年度の犬人。

 城崎は不意にそのことが胸に引っかかった。ドリームボックスは今後も飽きることなく犬人を製造するに違いない。その中には小春のように、実験のために不幸な道を歩むよう調整された個体も数多く含まれることになるだろう。


 ──研究のためとはいえ、それでいいのか?


 城崎は表情が暗くなった気がして、小春に振る舞う作り笑顔を維持することに腐心するが、なんとか明るい声を出す。


「小春。ご飯も食べたし歯磨きしようか」

「はーい」


 応じる小春はぱっくりと口を開けた。室内にある簡易洗面所まで行くことが面倒な時、こうして彼女は飼い主に磨いてくれとせがむのである。城崎は文句のひとつも言わずに歯ブラシと歯磨き粉、それと水を満たしたコップを洗面所から持ってきて、ベッド上で彼女の口内洗浄に着手した。

 介助犬を目指していた小春を介助する羽目になるとはな、と城崎はまんざらでもない愚痴を心の中で漏らした。彼女の世話は楽しかった。甲斐甲斐しく飼い犬を世話している間だけは恐ろしい未来のことを忘れることができた。丁寧にしゃこしゃこと歯ブラシで小春の歯を磨く。一通り磨き終えてから水を彼女の口に含ませ、ゆすがせてから、それをコップに吐き出させる。

 城崎が洗面所に行ってそれを捨てて戻ると、彼女は白い歯を見せて笑っていた。彼女のたくましい犬歯がその姿を現す。


「ありがと、しろさき。すっきりした」

「いつ見ても立派な歯だな」

「でしょ?」


 小春が両手の人差し指でそれぞれ左右の犬歯を指さした。


「だからね?私、思うの。やっぱり吸血鬼だったらなぁって」


 城崎はベッドに座り、テーブルを挟んで、小春を横目に見た。


「どうして吸血鬼がいいんだ?」

「だってさしろさき。吸血鬼って死なないんだよ?」

「あー。たしかそんな風な存在だったっけ?」

「うん。それでね、永遠の命があるんだって!すごいよね」

「永遠の命?」

「そうなの。吸血鬼はね、老いないし、特別なことがないと死なないの。うらやましいよね」

「あはは。そりゃ──」


 続くはずの「馬鹿げてる」の言葉は声にならなかった。あと半月もせずにこの世を去る彼女の生に対する無意識的な渇望を半笑いで済ませるほど、城崎は情に欠けた人間ではなかったのだ。

 小春は死ぬために造られた。苦しみ抜いて、データを取得するために生かされ続けた。彼女の命は初めから設計されていた。彼女を今後も生かしてやれないのは自分のせいではないが、彼女の一生をもっと恵まれたものにできたのも他ならぬ自分ではないか──。そんな強い後悔の念が波のように押し寄せて、大海に引いていくことはなかった。


「……ごめんな小春」

「え?なにが?」


 きょとんと首をかしげた小春は、城崎ほど深い考えがなかったようで、単に雑談のつもりで投げたことだったのだろう。だが飼い主の方は、飼い犬に対して面目ない気持ちでいっぱいだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る