60話

 追い詰められたミステリードラマの犯人のような台詞に、城崎は小春のことを懐疑的に見る。


「どういう意味だ?」

「……私ね、病気なの」


 その言葉を彼女の口からついぞ聞いてしまって、城崎は「やっぱりな」と返した。緊張の糸がプツリと切れてしまう。ため息がつい零れる。


「あれ……?しろさき、もしかして知ってたの?」

「知ってるも何も、クリスマスイヴの時から薄々気づいてた──緑内障りょくないしょうなんだろ?」


 城崎は、充血しきって白目の部分が確認できなくなりつつある小春の目を見つめた。

 緑内障──。目の病。人間のみならず、本物の犬も悩まされる病だ。犬に詳しい城崎にはすぐに思い当たるものだった。

 犬が発症する病気には、発症の傾向が高い犬種というものが少なからずある。例えば皮膚症のひとつである膿皮症は一般的にシェパードなどがその代表例に当たる。

 緑内障の代表犬種は──柴犬だった。

 主な症状としては、何らかの原因で眼球内を循環する房水の排出が阻害されてしまって、眼圧が著しく上昇するというものだ。眼圧が上昇した状態が長い間続くと、最悪の場合、視神経がやられて失明に至る。視覚を優位の感覚に位置づける人間にとってもそうであるが、犬人にとっても非常に恐ろしい病である。


 小春の瞳はコバルトブルーで綺麗だが、冬に入ってからそれが一段と色濃く映って見えたのは、角膜が青白く見える角膜浮腫かくまくふしゅという緑内障の症状のひとつが徐々に進行していたからだろう。

 それに加えて、結膜けつまくと呼ばれる箇所が充血したことにより、本物の犬よりも白目の面積が大きい犬人の小春の白目も血走ったようになっていたことから、城崎が彼女の病態を見破ることは容易だった。

 だが城崎は今日まで彼女にそのことを問いただすことはせず、静観していた。緑内障にはかなりの痛みが伴うはずであるし、恋する乙女と化していた彼女が飼い主と会う前に鏡で自分の顔を見ないなんてことはないので、自覚症状がないわけなかったのだ。その上で何も伝えない彼女の姿を見て、城崎は心を殺してこれまで何も言わなかった。

 飼い主を心配させないようにと、この病気のことを隠していたことを城崎は知らないフリをしながら、彼女の最期を見届けようとしていたのである。

 そうすれば、飼い主に過度の不安を与えなかったという自負と達成感と共に小春は心置きなく死んでいけるだろうから、と──。

 現に、城崎が小春の緑内障に気づいたのは、彼女の命を救うことを半ば諦めた秋の試験後の冬のことであるし、無理に話そうとしない彼女を見て、飼い主は何も言えなかったのだ。

 無謀な治療を進めればその分、飼い主との時間を裂かれるという彼女側の思惑もあったのだろうが、もういいだろう。こうなった以上、互いを想い合うための嘘の合戦も、黙秘すらも今となっては無駄だ。相手の心的負担を増やすだけである。


 憮然と頬を膨らませる小春は、こくりと頷く。微苦笑する彼女にはもはや暗い影はなく、吹っ切れたように明るかった。それが余計に城崎の目には悲惨に映って焼き付く。


って、そういう意味だったらしいよ。おてきがね、ぜんぶ教えてくれたの」

「あいつが……?」


 意外な人物の名前が挙がって、城崎はぎょっとした。そんな飼い主に小春は真実を語り始めた。


「それにね、しろさき。りょくないしょーだけじゃないんだって。私、もっとヒドイ病気にもかかってるんだって」



「これが最善だったんですかね?能登谷さん」


 同刻。研究員・樗木は、南棟にある自分の上司のデスクにて、在室中の彼にそう話を振った。中年の彼の方はというと、部下の言葉には知らんぷりといった顔で、資料の山を崩しながら判子を押す流れ作業に没頭していた。


「お前が言い出したんだろ」


 能登谷は前近代的な承認作業に苛立っているようで、吐き捨てるように言った。樗木は笑う。


「ちょっと試しに聞いてみただけですって。まぁ──能登谷さんが協力してくれたおかげで上手くことが運びそうだったんですが、当の城崎くんが思ったよりも強情で。204ちゃんも変に頑固なところがあって、おまけに人の話を聞かなくて……似たもの同士ですね。それで結局こういうことになってしまいました。水の泡と言いますか、骨折り損と言いますか……私、あのペアから恨まれますかね?」

「ヤツら次第だろ」

「やっぱりそうなっちゃいますか」


 樗木は名残惜しそうな含みのある物言いで相槌を打った。

 能登谷は興味なさそうに手元から目を離さなかったが、彼女のこれまでの行動力には正直なところ目を見張っていた。


「気にすんな。嫌でもどうせ終わることだ。城崎がどう足掻こうと関係ない。あの実験個体の発症が早まろうと遅れようと……あと二ヶ月。なぁ、話しついでにひとつ聞いてもいいか」

「なんでしょう?」

「どうしてここまでしたんだ?リスクはあっただろうに。アイツに……城崎に気でもあったのか?」


 能登谷からの突飛な質問に、樗木は思わず吹き出した。


「まさか。冗談言わないで下さいよ。私のタイプはもっと自立した人ですから。嫌ですよ、あんな子供みたいな人は」


 部下が発したのは、同僚の異性への遠慮のない暴言だった。それを聞いた能登谷は肩を揺らしてけたけたと笑った。室内には二人の笑い声が響いた。


「樗木も結構口が悪いんだな。なら、前に俺に話した……あれだけのことのために204にリークを?」

「はい。その時、私はとっくに城崎くんからの信用はなくなっていたので、仕方なく犬人の204ちゃんの方に。もっと早めに城崎くんに言うべきでしたね。そしたら今と違った未来だってあったかもしれませんし」

「今更遅いさ。いやいや、でも驚いたよ。口が悪いと言った矢先、こんなことを言うのもなんだが……案外お人好しだね。お節介と表現した方が正しいかもしれんが」

「私も犬を失った悲しみを知ってる人間ですから。これから飼い主……担当になる職員には、それを事前に回避してほしかったんです。どんな手を使っても」



「……小春。それでも僕は……最期まで君の隣にいるからな」


 全てを打ち明けられた城崎は、朦朧としそうな意識の中で、格子の向こうに閉じ込められている小春に苦しそうに言った。


 長きに渡って、城崎にひた隠しにされていた真相はこうだ。


 まず小春こと実験個体F型204は、生まれた当初から発症していないだけで潜在的に病気だったこと。

 彼女は病床に伏す犬人のデータを取るだけのために製造され、今まで施設で生かし続けられていた「実験個体」だという──救いのない真実が大前提としてあった。

 そのことを周りは知っていたから、誰も彼女を可愛がらなかったし、相手にしなかったそうだ。育てても意味がないことが誰の目にも明らかだったからである。

 その結果、幼少期の対人関係の乏しさから自閉症のような小児になった彼女が問題児として振る舞うことは予測されていた。事実そうなった。脱走を何度もした。問題行動も数え切れないほど起こした。それにも関わらず、「殺処分までの話がつくまで一年待たなければならない」という奇妙な待ち期間が守り通され、地下牢以上の懲罰は決して行われず、即時処分されなかったのは──あくまで彼女は貴重なデータ源だったからに過ぎない。

 当初から来年の春までの間に人の手で殺すつもりはなかったのだ。施設の人間は、ただ彼女が「発症」する時を密かに待っていたのである。呪いのように身体に押し付けた病で、悶えながら死ぬこと──それだけが彼女の全生涯をかけたひとつの仕事だったのだ。

 そして、あばら液や犬・人間の各種遺伝子を駆使して犬人を実際に生み出す生成プラントでの製造工程で彼女の生命に仕組まれたのは、緑内障の因子だけではなかった。あの犬の殺戮という悲劇を生んだ──感染症のウイルスの亜種も身体に埋め込まれていたそうである。

 それが本格的に彼女の身体へ牙を剥くのが今年の初春頃だと推測されており、殺処分決定日はそれをあらかじめ考慮して組まれていたのだ。ドリームボックス上層部は、最初から実験個体204──もとい小春を助ける気などなかったのだ。秋の試験に合格しようが、あの恐ろしい感染症ウイルスに身体を犯されている以上、彼女が死ぬ運命にあったのは変わりなかった。


 これらの事を知らなかったのは、他所から転属してきて犬人研究に触れてこなかった城崎ただひとりだけであった。誰だって犬に情が湧くこの環境下で、死ぬ事が予見されている犬の観察なんてしたがらない。ならば、他の研究所からやってきた何も知らない新人を使えば話は早い。上層部はそう考えて実行に移した。

 要するにこの半年以上、ドリームボックスの全職員が口裏を合わせて城崎のことを騙していたのだ。実験個体204の世話を一年も引き受けてくれる、犬好きで仕事熱心で無知な研究員のことを。しかし予想外の事態が水面下で進行していた。そう、樗木という離反者と彼女に半ば加担する能登谷の存在である。


 二人は、かねてからこの犬人の実験計画に反対の姿勢だった。緑内障や例の感染症が本格的に発動する前に小春から城崎をなんとか離して、飼い主たる彼が犬を失うという喪失体験に陥らないよう施設側にかけあい、彼を強引に異動させようとはたらきかけた。

 この発想自体は良かった。だが樗木と能登谷のやり方が中途半端でお粗末だったことや、小春に向ける飼い主の愛情が非常に大きなもので、助けようとしていた城崎本人からむしろ反発を招き、状況は泥沼化した。

 そこで樗木はあることを思いついた。それは小春に直接このことを全て伝え、残る判断を当事者の一員たる彼女に委ねるというアイデアだった。小春が樗木から一連の真相を聞いたのは、ちょうど城崎が195への異動を余儀なくされて一ヶ月ほど経過した頃。彼のそばに居たい──犬としての欲求に限界が訪れかけていた時のことだ。


 悩んだ末に小春は樗木の指示通り、彼女を人質にとった演技をして城崎を呼び寄せた。

 そこで全てを口にするか、あるいは黙秘を決め込んで「二度と私に近づくな」とでも言って、城崎が後々悲しまないよう関係をいっそ断ち切ってしまうか──小春は決断を迫られ、選んだ。

 病気の件は言わない、と。だが飼い主を悲しませることになろうとも、彼と最期まで一緒にいることはどうしても捨てられなかった。彼の体温に触れていたいという自分の欲求を抑えきれなかったのだ。


 これらが小春の口から伝えられた──悲痛すぎる経緯。城崎は顔を歪めるしかなかった。

 格子を挟み、飼い犬を見る。


「大丈夫。どんな時だって愛してるよ、小春。ずっとな」


 小春は涙目でこくこくと頷き、「私もだよ」と笑顔で言った。


「君は本当によくできた子だ。僕が嫌な思いをしないように自分なりに考えて行動してくれてたんだな?」

「ううんっ。私そんな立派じゃないよ!だって、しろさきのためを思うならやっぱり今のこと話すべきじゃなかったんだよ。異動した時とかもそうだし、ここに来てからもそうだけど──。喧嘩したままで終わってれば……私が処分されても、しろさきが悲しまずにすんだかもしれないもん」


 城崎が反論しようと口を開くが、それよりも小春は早く続ける。


「私、自分勝手だよ。ずっとわがままだったよ。残されるしろさきのこと全然考えずに、しろさきと一緒にいたいだけで……ごめんっ。ごめんなさいっ!」


 樗木を人質にとった時に真相を伝えず、黙って今まで通りの関係でいたかった小春の気持ちは──城崎にも理解できた。それは長らくシロのことを彼女に伝えず、「城崎と小春」という関係でいた自分と同じだったからだ。たとえ相手を手に入れたいがために相手を苦しめることになっても……。

 思えば、クリスマスイヴの際にあのまま逃亡せず、ドリームボックスへ戻ることに頑なに拘っていた小春の言動は論理的だった。もし小春が城崎と逃避行を続ければ、時限爆弾だった緑内障と感染症の起動で苦しむ彼女に対して、何の打つ手もない城崎は路頭に迷うことになっていただろう。いくら飼い主と共にいたい小春でも、流石にそれは気が引けたのかもしれない。ドリームボックスならば、最低でもデータが取れるまでは処置をしてもらえる。後は飼い主を自分から遠ざければ、彼には病気の件を悟られずに処分の日を待つだけでこの世を去ることができる。病で苦しむ姿を飼い主に見せなくて済む。小春はそう考えることにしたのだ。

 実際、小春は牢の中で城崎を相手に、シロの件をダシにして「私自身を好きなのか、犬の私が好きなのか」と詰問し、彼との関係を振り払おうとした。


 だが城崎は、のこのこと詫びの印を持参して謝りにやってきた。言い伏せようとしても、彼の方は自分自身のエゴや穢い部分をさらけ出してまで飼い主でいたいと小春を説得した。

 小春は嬉しかった反面──この時点で、病気の件を隠し通せないと判断して話すことにしたらしい。


「謝らなくていい」


 城崎は努めて軽い口調で言うが、どこか引きつった声になっていた。彼はもう、事が取り返しがつかないことになっているのだと改めて思い知らされたのだ。それは最も大切な存在──小春の生存が不可能であることに直結している。


「……しろさき、やっぱり優しいね」


 牢の中にいる小春が微笑んだ。嫌味のない純真な笑みだった。それは身勝手で無力な飼い主に対して向けるものではなかった。


「そんなんじゃない」


 涙を堪えられなかった。研究員が泣くと、彼の飼い犬も声を上げて泣いた。



 一人と一匹の冬は過ぎていく。

 二月の本当のバレンタインデーはとっくに終わり、その月末には感染症に罹患した身体のデータを本格的に採取するため、小春は地下牢から南棟最上階の特別収容室にベッドを移された。城崎と小春の間に残された時間は残すところ僅かだった。

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