翼をもがれた鳥は空へと墜ちる

雨色銀水

想いは叶わない。「だって、所詮、片思いですもの」

 いつだったか。記憶もおぼろげになるほど昔に、夢みたことがある。

 この空を自由に飛べたら、どんなに楽しいだろうかと。両手を広げ、全身に風を受けながら澄んだ青い色彩の中を翔ける。


 その世界では、心は何にも縛られていなかった。望むままに翼を広げ、どこまでも飛んで行けた。閉じたまぶたの向こうに描いた、心躍る冒険の夢――。


 二人はいつも、空を飛ぶ想像の中で笑いあっていた。手を伸ばせばいつでも互いに触れることができる。何気ないことが幸せで、何でもないことで満ち足りていた。


 長い時が流れても、その充足感は変わらないと思っていた。二人にとって、あの空は原風景だったはずだった。


 それなのに、どうして『あなた』は。


「――翼をもがれた鳥は、地面に堕ちるしかないの」


 夢みるような微笑みを残し、『あなた』は両手を広げ空へと飛んだ。


 ※

  ※

    ※


 階段の途中で顔を上げると、赤い光が目を刺した。薄暗い校舎の中にいたせいか、小さな窓越しの薄明かりでもひどく眩しい。はあ、と無意識にこぼれたため息は、背後の暗がりへと転がり落ちて消えた。


 あと六段で、最上階へとたどり着く。この先へ進んでしまえば、後戻りはできない。


 だって、時間はどんなに願っても巻き戻らない。


 今この時に、私が階段を上っても上らなくても、夕日が落ちていく事実が変わることはない。それでも階段を上ることを決めたのは私で、この先を見届けることを決めたのも私だ。


 首元に手を当てた瞬間、大きく鼓動が脈打った。本当はこの先を見るのが怖い。ためらいながら視線をあげると、階段は残り一段だった。唇を噛み締め、ためらいを振り払うために足早に最後の段を踏みしめる。


 さあ、これで目の前に立ち塞がるものは、屋上へ続く扉だけ。

 鍵がかかっているかなんて、今更な確認はしない。小窓から洩れる光を睨みつけ、覚悟と共に扉を押し開ける。


「どうして、来たんだ」


 どこか虚ろな言葉と声が、光の向こうから投げかけられた。


 夕焼けはまぶたを閉じても焼き付くほどで、一瞬、私の目を眩ませる。描き出された色彩は、ナイフで胸を引き裂いた後に、噴き出した血潮のごとき鮮紅。


 そんな残酷な赤の只中に、『彼』は佇んでいた。

 光を背に受けた姿は、影のように黒い。しかしどうしてか、彼が微笑んでいることだけは理解できた。


「どうして、来たんだ。瑠璃るり


 微笑みながら告げられた言葉に、私は思わず身を震わせた。それは名前を呼ばれたからだけじゃない。その瞬間、彼が――すでにフェンスの向こうに立っていることに気づいたからだ。


 フェンスを越えてしまえば、残りの足場はせいぜい二メートルかそこら。寝転ぶくらいならできそうだけれども、下手に動けば屋上から真っ逆さまになるだろう。


 そんな不安定な場所に立つ彼に対し、私は大きくため息をこぼすことで応える。


「どうして来たんだ、ですって? 本当に……本当に、分からないっていうの」

「ああ、わからないね。最後の挨拶をしに来た、ってわけでもないだろうに」

「そうね。できれば普通に挨拶をしたかったわよ。“さようなら”なんて……明日、いいえ、いつか会えると決まった人に言う言葉だもの。だから。だからっ!」


 私は床を蹴って走り出す。ためらいなんて、今は頭の端に捨てておく。走って、息を切らして――私はフェンスにぶつかるようにしながらその想いを叫ぶ。


「本当に分からないっていうの!? あなたを止めに来たに決まってるでしょう! 陸也りくや!」


 私の叫びに、フェンス越しの陸也は今度こそ本当に笑った。


 ただ、それは楽しげな笑顔ではなかった。たとえるなら、道化を見るような呆れ果てた瞳。彼はきっと、こんな私を嘲笑っている。馬鹿馬鹿しいと、些末なことだと嗤って。


「止めに来た、ね。ありがとう……そう言うべきかな? だけどな、瑠璃。俺はずっと、この日を待ってた。待って待って、気が狂いそうになるほど叫んで。蒼良そらにまた、会えることをずっと願ってたのに? お前だって、自分の姉に会いたいだろう? なのに、どうしてお前が邪魔をするんだ、瑠璃」


 わけのわからないことを言わないで。そう叫べたらどんなに良かっただろう。


 だが、私は知っていた。陸也が蒼良のいない世界で苦しみ悶えていたか。たとえ、フェンスの向こう側のさらに先へと進む必要があったとしても、ためらわないだろうということも。



「――翼をもがれた鳥は、地面に堕ちるしかないの」


 歌うように、陸也は言葉を口にした。最大限の愛おしさを込めた声音で、絶望的な台詞を紡ぐ。


 屋上はこれほど光に満ちているのに、彼の周りだけが昏かった。陸也は夕日を背に受け笑う。どんなに楽しげに見えようとも、その顔に影がにじんでいることは確かだった。


「蒼良は、この世界に絶望して堕ちた。だから俺は、もう一度彼女に会うために飛ぼうと思う。そのための方策は、ほら。ここにこうしてある」


 陸也は左手で、屋上の向こうを示して見せた。私が首を激しく横に振れば、彼はやれやれと肩をすくめてこちらに歩み寄ってくる。


「ほんとうに、わからないのか。瑠璃」


 陸也の手が、フェンスに食い込む。音がしそうなくらい握りしめられた金網を、私は直視できなかった。もう仕方ないのだろう、きっと。


 どのみち、陸也は最後に空へと堕ちる。私のお姉ちゃん、蒼良と同じように。これは蒼良へと至るための儀式に過ぎないのだ。


 だから私も、最後まで抗おうと思う。そっとポケットに手を差し入れ、そこにあった携帯のボタンを一度だけ押す。


「陸也……やめてよ、こんなことしたって蒼良は戻ってこない」

「戻ってこない? そうだな、蒼良が戻ってこないと信じているやつにとっては、俺のしていることは狂気の沙汰だと思うだろうな」

「わかってるなら、どうしてこんな風に自分を追い込んでしまうのよ」

「瑠璃にはわかんないだろうな。だけど俺も信じてみたんだ。蒼良がもし、俺の想いに応えてくれたら――俺の苦しみも少しは報われるかもしれないって」


 魔法なんて信じない。奇跡なんてもっと願えない。どんなに叫んだって蒼良が戻ってくることなんて万に一つもない。


 けれど、その程度の言葉じゃ陸也には届かない。夕日はいつしか地平線の向こうへと飲み込まれようとしている。もうすぐ本当の暗闇が始まり、その刹那に彼は――。


「ねえ、陸也。蒼良に会いたいのは――お姉ちゃんが好きだったから?」


 しばらくの間、沈黙だけが屋上を満たした。私は胸元を押さえる。ざわざわと様々な思いが渦巻いていた。痛みや悲しみ、苦しみや少しの怒り。そして、わずかばかりの嫉妬。


 正面を睨めば、陸也は小さく首を振った。否定とは違う。だけど、真っすぐに肯定しているわけでもない。曖昧で、掴みかねる感情の動きが彼の瞳を揺らしていた。


「好きだよ。今でも、ずっと。俺は蒼良が好きだ。だが、蒼良の気持ちだけがわからないんだ。蒼良は、俺のことをどう思っていたのか。ただ、それだけがわからない。告白の返事をもらえないままで、蒼良は飛んで行ってしまったから」

「だから、蒼良と同じ場所から飛んで、答えをもらいに行こうって……そういうことなの? 自分のすべてを賭けるに値するって、そう思うのね?」


 陸也は光の向こう側で笑った。落日の瞬間に作る表情としては、あまりにも不穏な笑顔だった。


「そうだよ」


 短い返事には、何の未練も感情も込められてはいなかった。


 陸也は私に背を向ける。両手を広げ、ゆっくりと歩んでいく。すぐに彼の目にはそれが映るだろう。止めなければ、そう思った瞬間、感情が爆ぜた。


「そう、結局あんたはそれを選ぶのね。……ばっかじゃないの」


 叫ぶが早いか、フェンスの網を掴んで一気に駆け登る。一番上まで登り切ると、遥か下の大地が見えてしまう。そこには騒ぎに駆けつけた人々と、設置されつつあるそれ――。


 どのみち冗談じゃない。こんなところで落ちたら、返事をもらう前にぺしゃんこだ。


 勢いのままにフェンスを蹴って着地する。驚いた陸也が勢いよく振り返った。だけど知ったことか。今度こそ何のためらいもなく陸也の腕を掴み、そして。


「ふざけてんじゃないわよ!」


 右ストレートがきれいに鳩尾に決まる。ぐえ、と短いうめき声を発し、陸也は膝を折った。間髪入れず、私は彼の襟首をつかんで屋上の床の上へと引き倒す。


「……!? なんのつもりだよ、瑠璃!」

「うるさいわよ! 蒼良が大事なのはわかった。あんたが苦しんできたのもね! だけどね、その前にちゃんと私の言葉を聞いてよ……どうして、あんたはいつも他人の感情を無碍にするの」


 力任せに拳を陸也に叩きつける。呆気にとられた相手は、成す術なくそのすべてを受け止めていた。それでも私は叫ぶ。すべてがもう、ぐちゃぐちゃだった。


「蒼良が好きだったなら、どうして、どうして。蒼良が飛び降りようとしているときに止めてくれなかったの!? あんた見てたんでしょう! おねえちゃんが、おねえちゃんが飛び降りるところ!」


 私の叫びに、陸也は音にならないうめきをあげた。


 そう、蒼良の最期の言葉を知っている彼は、すべてを見ていたうえで何もできなかったのだ。だからこそ、長く苦しんでいたのだろう。こんなバカげたことをしでかす程度には、苦しんでいた。それを責めたところで私は楽になれない。それでも、そうであっても。


「好きだから、返事を知るために死ぬ、ですって? 勝手なこと言わないでよ! 蒼良があんたを一緒に連れて行かなかったことが答えでしょう! あの自分のものだけが好きだった蒼良が! 本当に好きなものを連れて行かないはずがない!」

「俺が、ためらったから。だから蒼良は俺を見なかったんだ! だから一人で」

「だから? いなくなったのが耐えられないから後を追いたいの? そんな甘いこと、誰が許すっていうの。私は、私は……もう、蒼良に恨み言を言うことだってできない。どんなに伝えたくたって蒼良は、おねえちゃんはいないのに……」

「瑠璃……」


 熱が冷めていく。私たちの中にあった熱が、薄れて消えて行こうとしている。

 それでも陸也は屋上の縁に手を伸ばす。無様すぎるその姿に、私は――。


「いい加減にしてよ。蒼良を馬鹿にしないでよ。そんな手遅れの感情だけで蒼良が……おねえちゃんがあんたなんかに振り向くわけない」


 陸也が最後の一歩に踏み込んだ瞬間、私はその背を『強く押した』。


「どうせ死んだって、おねえちゃんはあんたを待ってなんかいないわよ……所詮」


 陸也の体が宙を舞う。大きく見開かれた目、絶望に染まった視線に向かって、私は最後の嫌がらせをした。


「だって、所詮、片思いですもの」


      ※

     ※

    ※


 どん、と、鈍い音が響き、遥か下でざわめきが広がる。


 ゆっくり歩んで眼下を見下ろせば、そこには大きく広げられた布が存在していた。

 大勢の人々が巨大な布を引っ張り、クッション代わりにしていたのだ。ゆらゆらと揺れる布の上で一人、陸也は茫然自失の様子で空を見上げている。


 そっとポケットから携帯を取り出し、表示されたメッセージに息をこぼす。そこには“任務完了!”の文字が――まったく、緊張感がないにもほどがある。


「翼をもがれた鳥は、地面に堕ちるしかないの、か」


 私は携帯をしまうと、空を見上げた。そこには黒い影を纏う一羽の鳥が飛んでいる。自由に、なにものにも縛られることはなく。だけど、縛られていないことが本当なら、どうして鳥は地に落ちるのだろう。


 蒼良は自由になりたかった。陸也は、そんな蒼良に憧れた。けれど私はそんな二人の想いを否定したのかもしれない。


 だって私は空を飛べない。夢の中でだって、飛ぶことはない。


 眼下の騒ぎに背を向け、再びフェンスをよじ登る。今度は軽やかにとはいかなかった。それでもそれが少しだけ心地よくて、頬を撫でる冷たい風に目を閉じる。



 人は、不自由の中で生きている。ゆえに自由を求め、あらゆるものから解き放たれることを願う。


 だけど、不自由が人を人として形作っていることに、おねえちゃんは気づいていただろうか?


 地面に縛られていても、歩けば標があると知ることは幸いだ。自由とは、本当に何もない場所を手探りで歩くようなもの――。



「翼をもがれた鳥は、地面に堕ちるしかない。だけど私は人間だよ、おねえちゃん」


 鳥になりたかった蒼良と、蒼良に憧れた陸也。


 それぞれが少しずつ欠けていて、わずかばかりに歪で。だからこそ美しくて、あまりにも悲しい。だけど、いつか鳥は空から落ちる。けれど人間がそうである必要はない。


 だからこそ私は人として生きることを選び、自分の足で屋上から去ることを選んだ。


 ――文句があるなら、戻ってきてよお姉ちゃん。


 遠く流れていく風だけが、その悲しみを聴いていた。


《了》

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