2章 スウィート・サンフラワー

第8輪 甘い声

 数日の入院後、俺は無事に退院することができた。外は9月になったにも関わらず、真夏のような暑さで支配され、鈍っていた体には堪える。

 学校はすでに始まっているので、退院時には箕郷みさとの姿もなく、一人で帰路についた。何だか寂しい思いだ。

 箕郷と話し合ったあの夜以来、兄として妹を守る使命みたいなものが強くなると同時に、何だろうか、こう、妹を愛でてしまう、自分で言うのもあれだがシスコン心が芽生えてしまったというか、つまりは、妹を今までより大事にしたいみたいな気持ちも強くなったわけだ。いやほんと、自分でも気持ち悪いとは思うのだが、兄妹愛が深くなった気がするんだ。俺だけかもしれないが。

 茹るような暑さに加え、羞恥心で体の中からもぐわっと熱さが込み上げてきて、心も体も汗でびっしょりだ。

 久しぶりに帰ってきた我が家は、俺がどんな過酷な状況にいたのか素知らぬといったように(知る余地もないはずなんだが)、でんと大きく構えていた。

 家の扉を開けると、綺麗に整えられた玄関にゴミ一つ落ちていない廊下がお出迎えしてくれる。リビングも余計なものが何一つなく、新築かのような状態が保たれている。これも箕郷が小まめに掃除をしてくれているおかげだ。

 机に目を向けると、メモ用紙が一枚置かれていた。紙には箕郷からのメッセージが書かれていた。


 「お兄ちゃんへ、退院おめでとう!迎え行けなくてごめんねー。今日は退院祝いでお兄ちゃんが好きなハンバーグ作るから待っててね!あ、洗濯物は畳んでおいてねー。」


 自然と笑みが溢れてしまう。ほんとにできた妹だとつくづく思うよ。洗濯物でも何でも畳んでおきますよ。

 ひとまず自室に戻るとベッドに崩れ落ちるように倒れ込む。あー、やっぱり家のベッドが最高。包容力が段違いだ。

 あれから広沢さんが病室に現れることはなかった。連絡してみようにも、スマホはあの時の戦いで壊れてしまった。病院の公衆電話でも良かったのだが、きっと三船さんの捜索に必死になってくれているはずだ。ここは信じて待つ。そう決めたんだ。

 けど、こうやって一人になるとつい考えてしまう。ドクドクの心臓が脈打つのが鮮明に分かる。そっちに意識を集中させるだけでその間隔が短くなるのも感じる。この無音な空間のおかげであらゆる感覚が研ぎ澄まされているせいだろう。

 一時的ではあるがジェネラルフラワーズに入ることを決めたわけだが、まだ広沢さんには伝えられていない。だから俺が能力ブルームを無闇に行使して三船さんを探すことも難しい。

 結局、決断したと言いつつも、まだ迷っているのかもしれない。一度踏み入れてしまったら元には戻れないのではないか。三船さんを助けたいという気持ちは変わらないのだが、やはりあの時の戦いの恐怖心がフラッシュバックする。

 一度は死を覚悟したと言っても過言ではない。あの環境に再び身を置くと考えると、震えが止まらない。

 頭ではやろうやろうと思ってても、体が追いつかない。

 そう、だから今の俺には待つことしかできないんだ。信じて待つ。今はそれでいい、と。

 ふと右手を天井へ掲げたその時、右腕に刻まれたルートが目に入る。この花の形はどこかで見たことがある気がするのだが、思い出せない。思い出したとしても結局花の名前がわからない。

 一応箕郷にも見せてみたのだが、目を細めたり、首を傾げてみたり、よくわからないといった表情を浮かべるだけだった。

 今から調べてみようかと思ったが、うつらうつらしてきて、急に瞼が重くなる。固かった病院のベッドではなく、フカフカの自宅のベッドに優しく包まれながら、夢の中に落ちていった。


 目が覚めると外はすっかり暗くなっていた。かなりの時間寝ていたらしい。夢は・・・覚えていない。

 起き上がると布団が掛けられているのに気付く。そういえば、1階から人の気配がする。

 ドアを開けると、いい匂いが鼻をくすぐる。それが刺激となって腹の虫がぐぅと鳴る。

 1階へと降りてリビングへと足を運ぶと、エプロン姿の妹が鼻歌まじりに料理を作っていた。顔をパッとこちらに向け、ニコッと笑みを浮かべる。


 「お兄ちゃんやっと起きたぁ。」

 

 怒るでもなくただ楽しそうな妹の箕郷の表情は、何だか幸せそうだ。


 「流石に寝過ぎたな。布団、箕郷が掛けたのか?」


 キッチン横の椅子に腰掛けクワっと欠伸をしながら伸びをする。


 「うん、退院したばっかりなのに風邪でも引かれたんじゃかわいそうだもん。」


 俺との会話をしながらも箕郷の手は休むことなく動いている。ジュージューと焼き音を立てながら焼かれているのはハンバーグだ。

 ほんとどっちが年上なのかわからんな。もはや母親な感じもするが。


 「あ・・・手のかかる兄ですんません。」

 「いーのいーの、お疲れなんだし。」


 いや、俺はここ数日食っちゃ寝食っちゃ寝を繰り返していただけだから、疲労感なんてこれっぽちも感じてなかった。むしろ、勉強に部活に大変な箕郷の方が疲れているはずなのに。

 リビングをキョロっと見渡すと、ソファに綺麗に折り畳めれた洗濯物が置かれていた。そういえば、置き手紙に洗濯物畳んでおいてって頼まれていたような・・・。これ以上、兄としての威厳を失うわけにはいかないため、あえてそこには触れないでおく。あえて、な。


 「そういえば、洗濯物畳んでおいたよ。」


 あえて触れなかったのにっ。もうお兄ちゃんのお兄ちゃんによるお兄ちゃんのための尊厳を失わせないでおくれ。


 「ほんと、すみません・・・」


 もはや声にならない程の声量で独り言のように呟く。


 「よし!できたよ!」


 てこてこと両手にお皿を持ちながらテーブルへとやってくる。よく見れば、ショートパンツにエプロンという、一見履いていないんじゃないかと錯覚させるような格好だったが、安心してください、履いてますよ。

 テーブルに置かれた皿の上には、焼きたての証である湯気が立つハンバーグが二つ、その上には甘酸っぱい香りを漂わせるソースが掛けられて、さらに食欲を亢進させる。


 「おー、めっちゃ美味そうだな。」

 「美味そうじゃなくて、美味いんだよ。」


 箕郷はご飯をよそりながら自信満々に言ってのけた。確かにこれは確実に美味いな。

 ご飯と一緒に木製のボウルにこんもり盛られたサラダも一緒にテーブルの上に並べられた。久しぶりにこんな豪華でちゃんとした食事にありつけると思うと、うずうずしてしまう。

 エプロンを外し、やっと椅子に腰掛ける箕郷も早く食べたくて仕方ないようだ。

 

 「んじゃ、まずはお兄ちゃんの退院おめでとう・・・ん?おめでとう?お疲れ様?よくわかんないけど、お兄ちゃんが無事帰ってきて良かった!いただきます!」

 「ん、おう、い、いただきます。」


 途中から食欲に負けて早口になるわ、俺への労いの言葉が雑になるわだったが、腹は正直だ。気づけば口にハンバーグを運んでいた。

 口の中には肉汁がジュワッと広がり、甘酸っぱいソースが鼻腔を抜ける。ご飯も一緒にかきこむと幸せのオンパレードだった。


 「う、うますぎる。」

 

 語彙力は元々ないが、もうこの美味しさを表現できるのはこの言葉しか無かった。


 「うん!我ながら最高の出来であるね!」


 箕郷も口いっぱいに詰め込みながら幸せそうな笑みを浮かべる。

 そのあとは他愛もない話をしながら二人で夢中でご飯を食べていた。病院で食べるご飯はあまりの味気のしないものだったし、基本一人だったから誰かと喋りながらってことも無かった。だから余計にこの時間が愛おしく感じた。

 片付けは流石にやろうと思ったのだが、「今日はいいから、明日からお願い」と言うので、お言葉に甘えてさせてもらった。それ以前も甘えてばっかりなのだが。

 

 「明日から学校行くの?」


 箕郷の声は、食器がかちゃかちゃ鳴る音と水道が流れる音に負けないように大きめの声だった。


 「あぁ、いつまでもぐうたらしてるわけにもいかないしな。そういえば、学校にはなんて言ってあるんだ?」


 学校はすでに始まっているため、休みの連絡は箕郷がしてくれている。


 「一応怪我で入院中ってことだけ言ってあるよ。フラワーズどうこうは伝えてないけど。」


 その方がいい。賢明な判断だと思った。ここで俺がフラワーズに関わることで入院してるとなるとそれなりに騒ぎになる可能性が高くなる。

 ここで一つの疑問が浮かぶ。三船さんのことは学校で噂になっているのだろうか?


 「そうか。なぁ、前に話した三船さんのことだが、学校で何か噂になってないのか?」


 行方不明になっているのであれば、それこそ学校の噂の的になる。

 洗い物を一通り終えた箕郷は、氷の入った麦茶をお盆に載せて、リビングへと戻ってくる。


 「んー、それがね、そんな噂話全然ないんだよ。私も話題になってるかと思ったんだけどね。」


 カランカランと涼しげな音を立てながらテーブルの上に置かれた麦茶を俺の目の前と自分のところに置いた箕郷は、やっとゆっくりと腰を落ち着かせた。

 それにしてもどういうことだろうか。学校側が行方不明の件を伏せているのか?箕郷がただの怪我で入院していると学校側に伝えたように、学校も体調不良ということで休んでいるとクラスの連中に伝えているのか?少なくとも何らかの情報操作が働いていると考えるのが妥当だ。

 水沢紅人みずさわくれとに確認を取りたいがスマホもないため確認のしようがない。ていうか、あいつ入院中も見舞いにすら来なかったな。別にいいんだが、数少ない友人だと思っていたやつに心配もされていないと考えるとちょっと寂しい。


 「あ、でも1回お兄ちゃんの友達の水沢さんだっけ?あの人からお兄ちゃんのこと聞かれたよ。元気そう?って」

 「それだけ?しかも箕郷にか?」

 「うん。元気ですって答えたら、それなら良かったってだけ言っていっちゃったよ。」


 一応は心配してくれているみたいだが、何だか急にドライだなあいつ。祭りの前はあんなにベタベタしてきたくせに。全く何考えてるんだか。


 「そうか。」


 もはやそれしか言えなかった。俺の不服げな表情を読み取ったのか、箕郷はぐぐっと顔を近づけてきた。


 「な、何だよ。」

 「お兄ちゃん、女々しいね。」

 「なっ。女々しいだと?」


 悪戯っ子のように目を薄め、ニヤッとした顔を浮かべる。


 「だって今までそんな他人の言動で動揺とかするような感じじゃなかったじゃん。」


 ケラケラと笑いながら元の体勢に戻ると言葉を続ける。


 「今までは余計な干渉を避けるような、相手がどう思うと知ったこっちゃないって感じだったけど、今はなんていうか、感情を覚えたロボットみたいな、人間味を帯びてきたというか。」

 「お、おぉ。」


 何だか、大層な言い方をされたが、箕郷から見れば俺は大きく変わったように見えるようだ。俺自身、確かに昔よりは感情を表に出すことはできるようになったと思うが、微々たる変化でしかない。それだけだった。

 ただ、妹からしてみれば見違えるほどの違いであるようで、面と向かってはっきり言われると、俺がいかに無愛想な人間だったのか思い知らされる。

 箕郷は麦茶を一口ゴクリと飲む。それに合わせて俺も乾いた喉を潤すために一気に呷る。


 「きっと水沢さんも忙しいんだよ。私と会った時もなんかせかせかしてたし。」

 「忙しいっつったって、一学生がそんな忙しくなるものか?」

 「そんなの知らないよ。実際私にはそう見えたんだもん。」


 頬杖を付きながらぷくりと片頬を膨らます。怒ってるというより拗ねているに近い印象だ。

 しかし、紅人の様子が変なのは明らかだ。まるで何かを知っていているような−−−ただの憶測でしかないが、あいつがもし三船さんのことについて知っていることがあるなら、それを問いただす必要がある。

 ここで箕郷にこれ以上どうこう探っても何も分かりはしない。明日、学校行けば何かが分かるはず。確証はないが、そんな予感はするんだ。

 残った麦茶を飲み干した箕郷はガタリと椅子を後ろにずらして立ち上がる。


 「ま、明日本人に聞いてみればいいよ。そうすればお兄ちゃんも納得するでしょ。」


 空になった俺のコップも一緒にちゃちゃっと片付ける。


 「そうするよ。」

 「うん。私は宿題あるから先に部屋戻ってるね。お兄ちゃんも明日から学校なんだから、寝坊しないように早く寝るんだよ。」


 そそくさと自室へと戻る箕郷を見送り、天井を仰ぎ見る。満腹に満たされた腹をさすりながら、改めて実感する。


 「マジで母さんみたいだな。」


 自分の兄としての威厳を一切発揮できなかった1日を悔い改め、明日からこそはと気合を入れ直すのであった。


 翌日、朝は思ったよりスッキリ目覚めた。昨日は盛大に昼寝をしていたから、夜はきっと寝つきが悪いだろうと予想していたのだが、ふかふかのベッドに横たわると一瞬で深い眠りについていた。

 リビングにはすでに起きて朝食の準備をする箕郷の姿があった。メニューは目玉焼きにウィンナー、軽いサラダにトーストされた食パンとザ・朝食と言っても過言ではない顔ぶれだった。そんなありきたりな朝食が一番美味いのだ。

 昨夜のハンバーグにも感動したが、朝食にも舌鼓を打つ。しばらくはこの感動を毎食ごとに感じるのだろう。

 当然の日常には小さな幸せがたくさん散りばめられている。普段それを感じないのは、それが当たり前であると認識しているからだ。

 けれど、一度死を覚悟し、非日常を経験すると、その当たり前が当たり前じゃないんだと再認識され、それと同時に、そこら中にある小さな幸せに気づくことができる。これもまた、あの経験がもたらした福音なのかもしれない。

 久しぶりに歩く通学路も同じで、登校する生徒の笑い声や話し声、野に咲く花々や雑草までもが何だか愛おしく感じる。地面を一歩一歩踏みしめるその感触を新鮮な気持ちで感じ取ることができる。

 普通が一番。

 しかし、そんな日常を俺は捨てようとしている。一時的ではあるが、幸せな日常を取り戻すためにも、俺は決断したんだ。

 学校に近づくにつれ、朝練している野球部のノックの音や吹奏楽の少しぎこちない音色が大きくなる。学校らしい音、学校ならではの音が心地よい。

 教室に入ったらクラスの連中に根掘り葉掘り聞かれるんだろうか。普段ほとんど関わりのない連中だが、こういう時に限って、友達づらして近づいてくる。きっと前の俺だったらうっとしいと感じるだけだったが、今はそれすら何だか期待してしまう。頬が少し緩んでいるのが自分でも分かるが、流石にこれは他の人に悟られまいと必死に争う。

 ひとしきり盛り上がって落ち着いたら、今度は俺が紅人に問いただす番だ。何か知っているのか?そうだとしたら、俺も力になることは何でもするつもりだ。だが、なんと声をかけようかと悩む。「久しぶり。元気か?」「おい、なんで見舞いこなかったんだよ。」「水沢、俺は、お前と連絡取れなくて・・・」なんてあり得ないシチュエーションもついでに想定しながら、自分の靴箱に靴を入れて、上履きを取り出す。

 その時、後ろから甘く、ねっとりとするような囁き声が俺を現実へと引き戻す。


 「蓬川、神流、くんだよね?君、開花したんだね。」


 パッと振り向くと、大きな瞳が目の前に現れる。鼻に甘く酔わせるような匂いがまとわりつく。軽くウェーブした黄色みがかったショートヘアが、大人な雰囲気を醸し出す。その大きな瞳に思わず見入ってしまいそうになるが、彼女の言葉を無視するわけにはいかなかった。


 「なんであんたがそんなこと知ってるんだ?」


 俺がフラワーズとして開花したことがバレないように、腕には包帯を巻いている。怪我をしているという言い訳をつけて、みんなには説明するつもりだった。

 しかし、今まで会ったこともしゃべったこともない女の子が俺の事情を知っているのは、明らかに不自然だった。まるで、一連の事件の一部を見ていたか、あるいはその手の情報を何らかの方法で得ているかのような−−−

 彼女は一歩後ろへ下がると、ただでさえ短いスカートを捲り始めた。


 「お、おい、こんなところでっ」


 俺の制止の声を聞かない。お構いなしに続ける彼女の程よい肉付きとハリのある太ももを横目に見ながら必死に目を逸らそうとするが、不思議なもので離れない。ゆらり揺れるスカートの裾が、俺を別世界へ誘うかのように誘惑してくる。

 しかし、横目に飛び込んできたのは黄色くあしらわれたレース柄のパン・・・もそうだが、腰の付け根より少し低い太ももに鮮やかに描かれた刺繍のような紋様。なんの種類かはわからないが、一輪の花がそこには咲き誇っていた。

 それは刺青ではない。ルートだ。

 彼女は不敵な笑みを浮かべながら、囁くような声で俺の疑問を晴らす。


 「私も、フラワーズだよ。しかも、シンフラワーズ。」


 校庭から響く野球部の喧騒と吹奏楽部の演奏の音があるはずなのに、悪魔のような囁きだけが響く玄関。日常が非日常へと変わる瞬間、この空間は俺と彼女だけになった。


 

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イン・フル・ブルーム・フラワーズ ゆうじん @yuzin825

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