彩香との約束【3】
「はい、じゃあ、チェアを起こすからうがいをしてね」
チェアを動かす電子音よりも早く、彩香は跳ね起きてうがいをする。泣いてしまった初日の出来事が嘘のように、彩香の治療は呆気なく終りを迎えようとしている。
口の周りについた水をタオルで拭ってやりながら、俺は新井先生の一挙手一投足を目で追った。
新井先生の言ういいことに興味があるのは、なにも彩香だけではない。俺自身も新井先生の魔法の言葉に期待しているのだ。
そんな中、新井先生はカルテの電子端末を置くデスクの引き出しに手を伸ばした。チェアと引き出しの間に位置する新井先生の身体が邪魔をして、中を窺い知ることはできない。それでも新井先生が何かを白衣のポケットにしまったことだけはわかった。
そして新井先生は何事もなかったかのように彩香に向き直る。
「彩香ちゃん、今日は頑張ったわね」
そう言ってポケットから出したのは、ハート型のシールだ。
なんだ、これだったのか。これから何かが始まるのではないかと期待していた分、落胆は大きい。
けれど、新井先生はいつも俺の予想の上をいくのだ。
「さて彩香ちゃん、これでシールが三つ貯まったわね」
新井先生の言葉は、俺の記憶を刺激した。彩香が初めてシールをもらった時、後藤先生はなんと言っていただろうか。
シールを三つ集めるといいものと交換できると言っていたはずだ。
俺は診察券の裏を確認して、シールの数を数える。診察券の裏に丁寧に貼られたシールの数は二つ。彩香が手にしたシールを合わせると確かに三つだ。
彩香は後藤先生との遣り取りを忘れてしまっているのか、新井先生から受け取ったシールを不思議そうに見つめている。
「三つ貯まったらどうなるの?」
「後藤先生は素敵なものと交換できるって言ってたぞ」
俺は彩香と顔を見合わせる。
「そう、とっても素敵なものよ。受け取ってくれる?」
笑顔を浮かべ、新井先生は再び白衣のポケットに手を入れる。覗き込むように、彩香が
チェアの背もたれから身を乗り出した。
「なぁに?」
「すぐに教えちゃうのもつまらないでしょう。彩香ちゃんは椅子にきちんと腰掛けて、目を瞑ってちょうだい」
指示に従い彩香は、チェアに座り、ぎゅっと強く目を瞑った。目元に寄った皺が彩香の期待を物語っている。
「これでいい?」
「ええ。先生がいいって言うまで目を開けちゃダメよ」
「わかってるもん」
「ではそのまま、前に手を出して」
「こう?」
彩香は水を掬う時のように、掌を上に向けた。新井先生はポケットから握りしめたままの拳を出して、彩香の手の上まで持ってきた。
指の隙間からも中は確認できない。自然と腰が浮き、俺は息をするのも忘れてじっと新井先生の手を凝視する。
ぱっとその手が開いた瞬間、俺はその正体を認知した。驚きに加速した呼吸が、肺へ一気に空気を送り込み、俺は思わず咳き込んだ。
「パパ、大丈夫!」
彩香が動き出すのが早いか。新井先生の手から離れたそれが彩香の掌に落ちるのが早いか。
すっかり目を開けてしまった彩香は、掌の感触に動きを止め呟いた。
「……指輪?」
青いビーズのついたおもちゃの指輪が、彩香の手の上で光を反射している。ビーズの色からも、彩香が新井先生に贈ったものとは違うものなのは明白だ。
「ふふっ。驚いた」
彩香はいまだ現状を理解できていないのか、頻りに瞬きをしている。
「ねぇ、先生、これ彩香がもらっていいの?」
「もちろん」と笑顔を浮かべた新井先生を見て、彩香の肩が震える。
まさか泣いてるんじゃないよな。
心配で咳も引っ込んでしまう。だがそれも杞憂だった。
彩香の肩がひときわ丸まったかと思うと、歓声とともに勢いよく跳ねあがった。
「やったぁ!」
診療台の上で踊り出すんじゃないかという勢いで、彩香は指輪を俺に掲げてみせる。
「パパ、見て、見て。先生から指輪もらっちゃった」
「よかったな。いいことは確かにあっただろ?」
「うん。パパが言ったことも、先生が言ったことも全部本当だったね」
新井先生が彩香のことを見越して指輪を準備してくれたのか、元からシールを集めたご褒美が指輪であったのかはわからない。それでも彩香は、新井先生が自分の意を酌んでくれたと感じたのだろう。満面の笑顔を浮かべた。
「ともよ先生、ありがとう」
「こちらこそ、ありがとう」
新井先生も笑顔で彩香に真摯な目を向ける。それからゆっくりと俺にも視線をやるものだから、俺は急に気恥かしさを感じて話題を反らした。
「そういえば、学校に出す書類にハンコをもらわないといけないんでした」
彩香のお出かけ用具が押し込まれたショルダーバックから、クリアファイルに入った書類を引っ張り出す。新井先生はそれを受け取ると、一通り目を通し、「少しお待ちくださいね」と言って診療室を出て行った。
新井先生の気配が遠ざかるのを感じて、俺はほっと息をはいた。その矢先、隣に座る彩香が俺のTシャツの裾をちょんちょんと引く。
「どうした?」
「あのね、パパはさいしょの約束覚えてる?」
「覚えてるさ。彩香のお願いを一つ聞いてやるってことだろ」
「うん。あの約束守ってくれるよね?」
確かに約束はしたが、ここでその約束を持ち出してきたか。待ちきれないというところが、なんとも子どもらしくて愛らしい。思わず苦笑が浮かぶ。
「パパが叶えてやれる範囲で、だけどな。もう、決まってるんなら言ってみろ」
「あのね――」
彩香は俺の耳元に顔を寄せる。
耳元に彩香の息が掛かってくすぐったい。苦笑を浮かべながら、聞いてやる姿勢を取る。俺は子どもながらの可愛いお願いがくるとばかり思っていたんだ。だから俺は軽い気持ちで構えていたのに。
「彩香ね、新しいママが欲しいの」
俺は目の前が真っ白になって、思わず腰を抜かしそうになった。椅子に座っていたから辛うじて醜態を晒さずにすんだといったところだ。
その後言葉の意味をゆっくりと咀嚼して、俺は顔を熱が覆っていくのを感じた。俺の脳裏を過ったのは、彩香が新井先生に指輪を渡した日のことだ。ここでようやく、あのおもちゃの指輪の真意に合点がいった。そして墓参りのあの日、彩香が優香に伝えた心の内も。
証が俺たちを繋いでくれる。
彩香にとっておもちゃの指輪は、優香の証の指輪と同じ意味を持っていたのだ。だから指輪によって結ばれた新井先生との繋がりは続いていく。
俺は先程彩香が新井先生から受け取った指輪に目をやった。
この指輪も俺たちと新井先生を繋ぐ証になってくれるだろうか。
そうなってくれれば嬉しいと思う。この気持ちの意味を、俺はきっと知っている。
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