(三) 蛞蝓の主

 目の前で常ならざることが起こると、できる限り飲み込もうとするのがひとの常であろう。その時の私も、おそらくそのような心情だったのだ。


 助六が掴み出したのは、一匹の蛞蝓かつゆであった。赤子の手首ほどある、大きな蛞蝓なめくじだ。地色は薄茶で、全身に蝸牛のような斑点ある。角はふたつ、背と腹の間に黒い筋が通っていた。

 何よりも驚いたのは、その大きさだ。五、六寸はあろうか、掴んだ助六の手に余るほどで、抜けようと身悶えながら、絶えず指の間から銀色の粘液を滴らせていく。


「こいつはヤマナメクジと言って、山中に分け入ると、どこにでもいるやつなんですがね」


 そう言うと、助六は無造作に尾の方を摘んだ。逆さに吊るし、そして──なんと、大口を開けて仰くと、ぽとりと口中へ落とし込んだのである。ごくりと、ひと飲みする。


 私は、ぽかんと口を開けた。

 が男の喉奥へ消えて行くのを、喉仏が上下し、飲み下したのを、確かにこの目で見ながらも信じられず、助六の顔に目を据えたまま、指ひとつ動かすことができなかった。


 ようやく我を取り戻した時、助六は床に仰臥して目を閉じていた。胃の腑の辺りへ手を置きながら、

「さ、握っておくんなさいまし」

 私の方へ、自らの手を差し出したのだ。

 あれほどのものを飲んで、苦しくないのだろうか。吐き出せないのか。腰が引けるのを励まし、私は助六の側へ膝行いざりながら、その目を閉じた口元から目を離せなかった。粘液の名残だろう。てらてらとした銀色の筋が、顎の方へと落ちている。


 私は、震える指で助六の手を握った。その掌は冷たく、粘っこく、先程誤って握り潰したなめくじのようで、なんとか悲鳴を飲み込みながらも、強く握られるのへ、負けじと握り返した。





 そこからの記憶は、ごく曖昧である。なにかを見たような、聞いたような気もするが、ぼんやりと夢を見ているようで定かではない。

 四半刻か、一刻か。我を取り戻すと、部屋の隅で助六が嘔吐いていた。甕を抱え──おそらくは蛞蝓を吐き戻していたのだろう。

 私は、おのれの指を幾度か握り直し、粘つく感触を拭おうとした。

 やがて、竈の横にある水甕まで這うようにやって来ると、助六は柄杓からがぶがぶと飲み、頭からかぶり、その場に座り込んでしまった。

 あまりに憔悴しきった様子に、私は手拭いを差し出し、落ち着くまで傍で水を汲んでやった。


「それで、これはどういうことなのだ」

 大きな蛞蝓を飲み込んだ男と手を握り合い、気が付けば、嘔吐するその当人を介抱している。

「なめくじですよ」

 当然のように、助六は言った。

「蛞蝓は、どこへでも這って行きますのさ。ちっさい目と鼻で、下の方から世間様を見てみると、摩訶不思議なもので、なんでも見えちまいます。なんでもわかっちまいますのさ」

「そんな占卜、聞いたこともないぞ」

 なめくじ占いなど、手の込んだ強請りではないか。私は、恥を忍んで──。


「道場主の娘。名は田鶴たづ


 助六は、億劫そうに言った。

「お田鶴さまには、お兄上様以外に好いたお方がいるようで、すでに腹のなかには稚児ややこがおりましたのさ」

 と一息に言い、また、疲れたように目を閉じる。

 私の背を、冷たいものが這い降りた。

「私は、名を、言ったか」

「ああ?」

「私はおまえに、お田鶴殿の名を言ったのか」

 衿を掴む。その手を外そうと、助六がもがいた。先刻、握れと伸ばした時とは違い、どうにもこうにも力の入らぬ様子で、揺さぶられるままに身を任せている。


「手前は、旦那を通して見ただけなんでございますよ。こう長い竿で、お兄上の頭を押さえて、その隣にはたぶん、好いたお相手なんでございましょう。同じくいかつい将棋の駒のようなお武家様が手を貸して……」

「謀り殺されたというのか!」

「さあ」

 目を閉じてしまう。

「手前は見たものを見たまんま、こうやってお伝えしているだけでございます」

「何者だ」

 ぞくりとして手を離し、私は後ずさった。助六が、渇いた声で笑う。

「旦那、芝居の見過ぎです。手前はただの八卦見。どんな因果か、なめくじ稼業。わけなら、こっちが教えてほしいや。嘘だと思ったら、ご自分で確かめておくんなさい。──ああ、お代なんかいりませんや」


 そして、こつんと音をたてるように首を折り、すうすうと寝入ってしまった。

「おい、助六! 起きろ!」

 思いきり揺さぶっても、うんともすんとも言わない。


 ずぶ濡れで寝ている男を放ってもおけず、なんとか板間に上げた。具合が悪いのかとも思ったが、すうすうと気持ち良さそうな寝息だ。仕方なく、枕屏風の着物をかけてやった。


 身じろいだのは、日暮れてきた頃だ。鼻先しか見えぬほどの薄暮の中で、大きく伸びをしてから、ぱちりと目を開いた。


「あれ、どなたさんで」


 開口一番、それである。私は、かっとした。

「惚ける気か!」

「ああ。──またやっちまったか」

 助六は、のんびりと言って笑った。邪気のない笑顔だ。起き上がり、濡れた身なりを確かめ、口の周りに指をやって「ああ」とため息をつく。


「どうか勘弁しておくんなさい。には、まったく悪意ないんですがね」

 と、おのれを指す。

「まあ、蛞蝓というものは、餌があれば、どこまでも大きくなる蟲なんで、そのなかでもこいつらは、ひとの不幸や苦労、欲や悪意が大好物だ。長い間、喰えば喰うほど太って育って、結局長生きしてきたもんで、いつの間にか人に棲むようになっちまった。だがひとつ。こいつらにも。気をつけねえと不味いことがありましてね」


 にこにこと楽しげだ。


「忘れちまうんでさ。斬られても、潰されても甦るやつらなんですが、ただ悪いことに、軀は戻っても頭は戻らねえ。つまり、いっつも何にも覚えちゃいねえ。何度でも甦っては何度でも生き直して、結局は、死んでるのと同じなんじゃねえかって、おいらは思うんですがね」


 は、改めて私の頬から続く痣に目を止めた。得心したとばかりに、大きく頷く。

「なるほど。旦那。あいつらにえらく見込まれちまったね」

 私は、懐から頭巾を出した。いい加減、付き合っているおのれが阿呆に思えてきた。

「紫陽花はなによりも大好物なんで、あいつらも放ってはおきませんぜ。それなんで、旦那。よかったら──」


 喋り続ける男を置いて、私は逃げるように外へ出た。長屋は、とっぷりと闇の中だ。振り返ると、助六の辺りだけが仄かに光っている。

 ぬかるみに足を取られながら、やっとのことで木戸を抜けた。鉄砲洲を目指し、夢中で歩く。


 おのれは、何と出会ったのか。何と関わりを持ってしまったのか。光る男の背中。兄たちのこと。この身に咲く紫陽花の痣。

 何ひとつ、解き明かされていない。解くどころかさらに──。


「南無大慈大悲観世音菩薩」


 口中で唱えながら、私は一心不乱に足を運び続けた。





【紫陽花】

あぢさゐ。唐の招賢寺に山花あり。色紫、氣香しく、穠麗愛すべし。人、其名を知る者なし。白樂天、これを 過て標をなす。其名を紫陽といふ。其莖叢生す。莖・葉、綉毬の葉に似て、五月花をひらく、 云云。此花もまたてまりの花に似て、淡碧色。一名、四葩の花。 『増補俳諧歳時記栞草』(曲亭馬琴)






(了)







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蛞蝓うらない 濱口 佳和 @hamakawa

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